Kristallklar glanz


第一部 gaining through losing 


1-12

 広場にもう一度寄り、決勝の日取りを確かめてからレンは宿に足を向けた。
 通りの石畳は、白っぽい面が朱色に柔らかく染められている。子供たちの元気な声が跳ねるような足音と共に駆け抜け、家路に着く大人たちの影は長く伸びて、淡く縁取られていた。一日の終わりを待ち構えていて、時も足踏みをしているような空気が寛やかな風となって流れてくる。
 パイシャンの宿が見え始めると、しだいに足取りの重さを覚えた。ためらいを自覚している訳でも、うしろめたさを感じていないはずが、歩速は確実に緩やかになっている。
 −−いつかはって覚悟はしていたさ。
 気丈に言いながら、悲痛に歪んだパイシャンの顔を思い出した。
 覚悟をしていたからと言って、悲しみが薄らぐはずもない。恐らくは−−自慢の息子であったのであればなおさら、その喪失が付けた疵は今も癒えようともしていないだろう。
 −−死を覚悟していることと、死を恐れないことは違うのと同じだ。
 誰かの死を覚悟することと、誰かを失うことを恐れないことが違うように−−レンは口の中で嘯いて、棍を持つ手に知らず力が入った。
 戦場に立つ者と、その者に関わる人間であれば、よほど孤独を好み、幸運の持ち主でない限りはまみえる事だ。レンもまた、そうであったように。
 宿に入ると、扉に付けた鐘がからんと鳴った。控えめに、ひっそりとした響きが廊下を余韻もなく抜ける。右手にある食堂から香ばしい匂いが風に流れてきて、夕餉の支度をしていたのであろう賑やかな音が途切れた。
「ああ、レン、おかえり」
 前掛けで手を拭きながら出てきたパイシャンに笑顔で出迎えられ、レンも頬を緩めた。
「ただいま」
 お互いの笑みには、少しもぎこちなさがない。非の付け所がない親愛を込めた挨拶になっていた。
「気分はどうなんだい。試合に出かけるって聞いた時は驚いたけどねえ」
「幸い、治ったから」
 何が、とは添えずとも、事情のわかっているパイシャンは「そうかい、そいつはよかったよ」とほっとしたように肩を揺らす。その一瞬前、空いた間が含んだものに、レンは棍を支えにするように体に引き寄せた。
「シャオインに聞いたよ。決勝に行けるんだろう?」
「うん、何とか頑張れたよ」
 あのまま記憶が戻らなければどうなっていたのか。一体、いつまでの時を遡っていたのかわからない現状では、想像する事は難しい。解放軍にいた頃の記憶であれば、少なくとも武器を手にして立ち向かう事に、怖じたりはしなかったはずだ−−そう、思った。
 人を傷つけ殺める凶器を手にする事に躊躇いを感じなくなったからと言って、人としての心を失ったわけではない。あの頃からずっと信じていた。
「なんだい、もっと嬉しそうな顔しなよ」
 パイシャンは呆れたように眉を寄せる。
「これからが本番だからね」
 緊張だと取ってくれる事を祈って、レンは苦笑し、肩を竦めた。
「ん、まあ、そうだね。どれ、湯の用意して上げるから、汗流したら下りておいで。その頃にはお祝いのごちそうもできてるからね」
 既に支度をしていたのは、レンの勝利を見越していたのか、それとも結果がどうあれ、何らかの理由を付加するつもりだったのかはわからない。どちらであれ、好意から派生したものである事は確かで、「ありがとう」と返せた。
 パイシャンの変わらない態度に安堵を覚え、つかえが溶けたように思えたが、胸の奥を詰まらせる懸念は一つではない。乾ききらない傷口のように、触れれば滲み出そうで、しつこく残るものがある。
 汗を流せても、内に障るものをきれいに拭える事はなかった。
 普通に振る舞うパイシャンを前にして、余計なものを誘い込むようなぎこちなさを見せる事はない。本当の思いはしまい込んで、相手の情動に合わせる事は難しくはない。以前は、私よりも公を優先させればこそ、それは日常的な行動だった。
 言われたように階下へ降りていくと、帰ってきた時よりも濃厚に食欲を刺激する匂いが流れてきていた。
「他の客はもう済ませて、また出かけてるから、貸し切り状態だよ。さ、お座り」
 食堂に入ると、湯気の立つ大皿を持ったパイシャンに笑顔で促された。テーブルの上には所狭しと料理の盛られた皿が並べられ、三人分のフラットウェアが用意されている。
 椅子に座ろうとして食卓を見回すレンに、パイシャンは首を傾げた。
「箸の方がいいなら、構えるよ?」
 少年の視線の意味を、故意であれそうでないであれ−−巧く取り違えて問われ、レンは首を振った。
「大丈夫だよ。美味しそうだから、どれから食べようか今から考えていたところ」
 腰を下ろし、にこりと笑う。あながち、偽りだけに占められたものではないレンの科白に、パイシャンは丸い顔を嬉しそうに緩めた。
「レン、あんた酒は飲めるんだよね?」
「それほど強くはないけど」
 かつての知り合いが聞いたら猛烈な勢いで訂正を要求されたことだろうが、少年自身は謙遜をしているつもりはない。
 レンの答えを肯定と酌んだらしいパイシャンが厨房に再び入り、戸棚を開け閉めする音が聞こえてきた。
「あたしは普段は飲まないけどね。お祝いなんだから、少し飲んでみようかと思ってね」
 奥から瓶を片手に出てくると、前掛けで埃を拭った面に懐いのこもった眼差しを向ける。テーブルの上に置くと、口にきつく巻いた布を解き始めた。
「こいつはね、あたしの故郷(くに)の酒なんだ。美味いってなかなか評判だったんだよ」
 慎重な手つきで封を開けた瓶をレンに向かって傾け、勧めてくる。
「リュウが、まだみたいだけど?」
 空席のままの椅子を目で示すと、向かいの女性も同じように見やった。
「ああ、あの子には日暮れまでには帰って来いって言ってあったんだ。帰ってこないってことは、後でいいって事だよ。何、料理は温め直せばいいしね」
 大した問題でもないらしい。年季なのか、何処まで意図的であるのか、探る事もできない。レンは、そう思って自分を恥じた。一挙一動に疑心を向けるなど、相手に対し礼を失する事でしかない。
 それでも−−
「そのお酒、大事なものなんじゃないの?」
 空のゴブレットが手元に用意されているが、レンは手に取るまでに躊躇いがあった。
「だからこそ、お祝いに飲もうって言うんじゃないか」
 おかしなことを言うね、とでも言いたげに笑いを堪え、改めて促された好意を大人しく受ける事にした。
 褐色の瓶の中身は、光りの加減で琥珀色に見える液体だった。注がれたコップを口元に寄せると、長い間寝かされ、熟成して深みを増した香りが立つ。匂いだけでも、酒精分の高さが窺えた。
 目線を上げれば、パイシャンは自分のゴブレットになみなみと注いでいる。
「よし、それじゃあ、レン、決勝進出おめでとう」
 思えば、祝辞を渡されたのは初めてである事にレンは気づいた。
「ありがとう」
 女性が掲げるコップに応え、縁を軽く合わせると、ガラス製のものより鈍い音がした。パイシャンはぐいと勢いよく酒を流し込み、「うん、美味しいね」と噛みしめている。
 レンも倣うように−−するには控えめに、酒の味を確かめた。舌への刺激は意外に少なく、酒精の辛みをほのかな甘さが丸めているようだった。喉へと滑らかに流れた後に薬草の浅い香りが残り、清々しい。
「美味しい」
 いくら美味しいとはいえ、量が過ぎれば酔いが足下を危なくさせるだろう。
「そうだろう。こいつは寝かせれば寝かせるほど、角が取れて飲みやすくなるんだよ」
 間も置かず一杯目で酔いが回ってしまったのか、パイシャンの方は耳まで赤くなり、声まで大きくなっている。
「さ、たんとお食べ。あんたのために腕によりをかけたんだ」
 パイシャンの料理は変に凝ったものではなく、味付けはどの地方の人間の舌にでも合うような素朴さで、添えられた薬味を好みで足す事により味を変えられるようになっている。丁寧に下ごしらえをし、調理されたものは、何も加えずとも染み入るものがあった。
 何処か懐かしさを感じる深い味は、パイシャンの母親として培われてきた味なのだろう。レン自身は、母親の手料理というものを口にする機会はついぞ無かったが、想像すれば思い出されるのはグレミオの料理だった。美味しいと素直に言えば、毎度喜んで、嬉しそうにしていた青年の顔が浮かぶ。レンのために心を込めて作ってくれた料理は、いつだって美味しかった。今でも思い出す事ができるが、あの味を口にする事はもうない。あの笑顔も、大切な記憶の中でしか存在しない。
「レン? どうしたんだい? あたし、なんか変な味付けでもしてたかい?」
 手を止め、間を空ける少年に、パイシャンは急に不安そうな顔になって窺ってくる。
「違うよ。あんまり美味しいから……」
 誤魔化す言葉はいくらでもあったが、選ぶよりも先に心からの言葉を重ねた。
「本当に、美味しいよ」
 正直に口にできる幸せを噛みしめ、摂食行為を再開したレンを見ながら、もっと遠くへ据えたような眼差しでパイシャンは問うて来た。
「レン、あんたは、後悔ってした事があるかい?」
「後悔をしない人間っているの?」
 反問すると、酒を傾けたパイシャンが皮肉そうに口元を歪めるのが見えた。
「さあね、世の中大勢の人間がいるからね」
「僕も、もちろん後悔をした事はあるよ。でも、自分が選んだ結果だと思えば、悩む前に受け止める事にしたから」
 そうしなければ前に進めない事もあり、そうすることで確かに前へ進める力になった事が、幾度あったのか、今更その数を数えるような愚かな事はできない。
 レンの行動原理は一つではないにしろ、その信念はたった一つだった。
「あんたは強い子だね」
 しみじみと、重く零れる。ゴブレットを持つ手が微かに震え、言い切る少年を見る目は潤んでいた。顔を笑みだけで歪める事に失敗したまま、喉の奥で声を詰まらせながら、続ける。
「本当に、あんたが……あんたがこんな子じゃなかったら、あたしは怒って、憎む事ができたかもしれないのに……」
 やるせない声は涙に濡れて、詰まりがちになっていた。
 胸の奥がひやりとなったことを否めず、レンは小さく頷く。
「いいよ。パイシャンさんにはその権利はあるんだから」
 それでも、後悔をしていない事は揺るがないから、受け止める事しかできない。
「そんな事、できるわけがないだろう。そんな事したら、あの子にあたしが叱られる」
 二杯目も深く傾け、自棄気味と言うよりは、自分自身の中で沸き起こる感情を何とか宥めようとして、酒に力を借りようとしているようだった。
「あんたの記憶がおかしな事になっている時、あんたの知り合いが来たの、覚えてるかい?」
 まだ空けていないレンのカップに注ぎ足し、自分には三杯目を注いで、折りに訊ねられる。
「僕の……?」
 記憶が“戻った”のは試合中で、それまでの記憶は抜け落ちていて、未だ戻る気配はない。怪訝な顔だけで応えになったようだった。
「あんたの……あんたがいた軍の兵士だった若者だよ。シャオインに会いに来たみたいだけど、あの子はいなくってね。それであたしが話し相手になったんだ」
 レンが予想していたものと発露した経緯は違えてはいたが、結果は同じで、自覚できるほど動揺が浮かび上がる事はない。黙したまま、パイシャンの声を聞き続ける。
「自分よりも遙かに年下の人間をあれだけ慕えるってことは、それだけのものがあったって事だろう。わかるよ。あんたを見ていたら、想像がつく。あんたは立派な軍主だったんだよね。
 敵だから、仇だから、皆憎たらしい非人間だって思う事は確かに楽だけれど……そんな事したって何にもならないんだって、目が覚めたよ」
 そうした思いに行き着ける者は、決して多くはない。亡き者への思慕が、全てを振り払うだけの強さを何処かで留めてしまう故に、容易な事ではないはずだった。
 あくまでも第三者としての見方ながら、レンはそう慮い、パイシャンの強さを感じた。
「あの子はあんたに挑んで、あんたの方が強いから負けた。戦場で負けるって事は死ぬって事だ。そんな当たり前の事、どうしてわからなかったんだろう」
 悔しそうに、半分笑おうとして顔はくしゃくしゃになっている。
「シャオインは、私よりももっとあの子の死に近かったからこそ、振り切れないんだろうね。助けられなかった自分が許せないって思ってる」
 抜けきれず、もがき悩む様を冷静に評しつつも愛おしさを含み、パイシャンは自分の考えを確認するように大きく頷くと、レンとまっすぐに顔を合わせた。
「レン、絶対にあの子に負けないでおくれ。いくらシャオインが一緒にいたって、助けられなかったくらいあんたは強いんだって、諦めさせてやってくれるかい?」
「パイシャンさん……」
 強かな語調で乞われた内容に、構えることもなく怯まされてしまう。呆気に取られたレンを前に、パイシャンは翳りのない笑顔をつくってみせた。
「シャオインも、あたしの大事な……自慢の息子なんだ」
 

 闘技大会の決勝の会場は、予選が行われた広場のすぐ側だった。
 側とは言え、地下に作られた施設であるため、外からは全容を拝む事はできない。神子の拝殿へと繋がる門の傍らに入り口が複数あり、くぐって階段を降りていくと、ちょうど拝殿の真下と推せる深さに広大な空間が開けるのである。
 出場者は、途中で枝分かれした一方を辿れば、専用の待機場所に導かれる。出場者の総数である二十八人という人数を一度に収めても窮屈さを感じない十分な広さがあった。壁の一つには、決勝の組み合わせが掲げられていて、出場者が持っているものと同型の木札が下がっている。
 入ってきたレンは、自分に集まった視線に含まれる怪訝さに、自分の存在がこの場で浮いている事をいやでも認めなければならなかった。怪訝さはすぐに別のものに変わったが、気にせずに流してしまう。
 思い思いに散らばって、自分の居場所を構えていた出場者の中から、青年が一人駆け寄ってきた。
「レン様!」
 名を呼ぶ声を潜め、元解放軍兵士の青年は頭を下げる。
「こんにちわ」
 今の刻は、夜明けよりは確実に昼に近い。不審と好奇が見事に混ざった空気を感じながら、レンは暢気な挨拶を返した。
「レン様も絶対に来られると思ってましたよ。俺なんかが言うのはおこがましいですけど、その、おめでとうございます」
「ありがとうございます」
 にこりと笑んで、それでもいつもよりは控えめな緩め方だったものを穏やかに凪いで、レンは続けた。
「一つお願いがあるのですが、よろしければ聞いて頂けますか?」
「何ですか」
 謙虚で腰の低い物言いをする元上官に、青年は戸惑いつつ、表情を真摯に引き締める。
「もう解放軍は存在しませんし、僕は軍主でもありません。ですから、僕の名前は呼び捨ててください」
「そ、そんなこと!」
 狼狽える青年に、レンは相手を煩わせない程度の困惑を浮かべた。
「呼び方が変わっても、それ以外の何かが変わるわけではないでしょう?」
 「でも」と青年は引き下がる事にしつこくためらい、もう一度、「でも」と募った。
「……でも、俺は……俺にとっては、あなたは尊敬している方ですし、命の恩人だと……敬称をつけないなんて事……」
 おそらくは、この青年が自分に向ける敬慕が、リュウの怒りを諫めようとして宿へ足を向けさせたのだろうと、レンは青年を見る目をかすかに眇めた。
 己が、それほどの想いを寄せるに相応しい人間だとは思わない。あの頃、周りの誰とも違わず、むしろ誰よりも多くの命を奪い、犠牲を築いた。たとえ、事後に英雄と讃えられても、何ら誇りを抱かせるものではなく、むしろ贖いのような−−払いきれない罪を負っていることを実感するだけだ。
 こうして、かつて意思を共にした者と無事に再会できる事は、レンも嬉しい。ただできるならば、望むなら、肩書きのない今を見て欲しかった。
「あ、でも、やっぱり、まずいですよね。こんな場所ですし」
 無言のままで見つめ返すレンの表情が沈んだように察したのか、青年は慌てて、あっさり態度を変えようとした。
「間もなく、開会の儀が始まる。出場者は全員、案内に従い行動するように」
 遮ったのは、係員の無表情な声だった。促されるように声の主を見れば、足首まで丈のある灰白色のローブを着た男が、声と同じ何も浮かべていない顔をしてぽっかりと空いた扉のない入り口横に佇んでいる。自然の明かりが射し込まない薄暗がりの中で、そこだけが更に沈み込んでいるように見えた。必要以上の事を表に出さず、動く事もないように目の前だけを見つめている。何も映っていないような、虚ろな目だった。
 何処かで、「神殿の奴だ」と落とした呟きが、ささやきを底敷いた曖昧な沈黙の中で大きく聞こえた。
「開会の儀って、やっぱり神殿主催の大会みたいだから、祈祷とかなんかするんでしょうかねえ?」
 伝わったようで伝わっていないらしく、青年は丁寧な口調のまま、自分の考えを半分以上疑問形にして首を傾げる。
「神殿の?」
 レンには初耳だった。大会の関係各所−−入り口や受付場所くらいだが−−にいる担当者は、部屋の隅に置物のように黙り込んでいる神官よりはよほど、日なたにいる人間らしかった。第一印象という偏見に満ちた了見による判断ではあるが、とても同質の人間とは思えない。
「よくご存じですね。……あなたは、去年は出場されなかったんですか?」
 レン自身の言葉遣いも、青年と大差なかった。問われた青年は目を見開き、すぐさま首を振る。
「話は聞いていたので出たいなあ、と思ってましたけど、国に帰る方を先にしたので間に合わなかったんですよ」
 答えを聞いて、レンの中に別の慮いが引き寄せられてきた。そうして、今まで全く気にしなかった自分自身の視野の狭さに眉を顰める。隣の青年にはわからないほどの、わずかさで。
「去年、優勝された方は今年も出場されていたりしないんでしょうか。僕は一度もそう言う話を耳にする機会がなかったんですが」
 優勝者の賞金額は、大会出場者に対する規約の多さを秤にかけてでも出場する魅力が損なわれないと感じる者は多いだろう−−実際の出場者の数がそれを証明している。翌年、一度手にした栄光をもう一度、と思う者は少なくないはずだった。
「そう言えば聞きませんね。そんな強い奴がいたら噂でも流れそうですけど」
 言われ、青年も不思議そうな面持ちで頷く。
 同じ部屋にいる出場者たちは、決勝に出場できたという自信と昂奮で己を鼓舞するように、顔を毅然と上げ、それだけでも屈強に見える。この全員が全て闘技大会初出場と言う事は考えがたい。もし、経験者がいるのであれば、周りを牽制するためにも口にしてもおかしくなかった。だが、どの口からも上って流れては来ない。
 −−リュウも、初めて出場したのだろうか。
 思う前に、リュウの姿を探すように視点をぐるりと横滑りさせようとした中途で、ぽつねんと立つ神官の目に留められた。意志的に何も映さない、深く底のないうろのような双瞳に、本能が呼ぶ懼れとは異なるものが首筋を撫でるのを感じた。
 −−凝らしても見えない、闇の向こうのようだ。
 と、頭上から、足下まで響かせる唸りがのしかかってきた。最初は小さく、やがて大きなうねりとなって空気を強く震わすものは、人の声だった。上げている言葉そのものは不明瞭で、口にする者たちの思いは同じだと、錯過でなく確然と伝わってくる。これほどに人の思いを束ね、外す事のないものは如何なるものか、と。
「……俺たちじゃねえ、神子の登場が待ち遠しいんだぜ」
 少し離れた場所にいる、剣士然とした男が鼻を鳴らした。連れらしいものは側にいない。レンと−−青年が怪訝な顔をしたのを見てか、面白く無さそうに口の端をきつく上げる。
「ここの奴らは、神子とやらにぞっこんなのさ。十年ぶりに出てくるってんで、ありがたくって昨日は眠れなかったんじゃねえのか」
 手を擦り合わせて拝むような仕草をして、にやにやと笑う。男自身には信仰心というものが欠けている分、馬鹿馬鹿しいと思っているようだった。
「よく知ってるな」
 レンが青年に向けたものと同じ言葉を、青年が半ば感心したように男に向けた。レンの時よりも、もっと相応な知識ではある。
「十年ぶりって言うのは、どういうこと? 大会の度に出てこないって言うのは何か意味があるわけ?」
 神殿主催であれば、信仰対象である神子が大会の場に登場する事自体はおかしな事ではない。この町に根付いた信仰心の深さを見せつける、外部からやって来る者たちへの示威行動だと思えば、納得はいく。
 レンの問いに、男は目を丸くした。見た目同様、若すぎる声に驚いているようだった。
「神殿のしきたりとやらがあるんだろうぜ。俺は信者じゃねえし、人聞き程度のもんだから、詳しい事は知らねえよ」
 素っ気なさは、既知の事項の少なさをごまかすもので、レンとの会話を断ち切るためのものではなかった。その証拠に、首だけでなく、体の向きを整え直している。
「あなたは、去年も出てたの?」
「まあな。運がなかったんで、優勝はできなかったけどな」
 その場に居合わせず、男の力を知らない人間が聞いても負け惜しみにしか聞こえず、そうした事が本人もわかっているのか憮然となっている。
 背に佩びた剣は持ち主の身丈の半分以上あるような長大剣で、自在に操れるのであれば、男の実力はそれほど底の浅いものではないだろう。
「去年は、神子は出てきてなかったのか」
 レンの隣の青年がずれた部分を気にしている事に半分救われ、半分気分を害してしまったように、更に不満そうな顔になった。
「何をもったいぶってんのかしらないがな、そういうことだ」
「あなたは、もし今年優勝したら、来年もまた出ようと思う?」
 試す意図はなく、ただ事実を問う静かな声に、男は一拍置いた。見上げるレンの深眸から視点を逸らす事を忘れたように、そのままの顔の向きでひとつ瞬きをする。
「そりゃあなあ。普通はしたくなるだろうよ。優勝したらもらえる金の額を知ってんだろ? それに、決勝まで出りゃ、思う存分暴れられて、金までもらえるとなるんだぜ? これほどウマイ話はないだろうよ」
「決勝でも、相手に重傷を負わせたら負けなんじゃないの?」
 厚い肩を揺すって笑う男に、レンは先ずは浮いた疑問を口にした。それを怖じ気と錯覚した男は、陰湿な笑みを広げる。
「神殿の奴らが魔法でちょちょいと治してくれんだ。息の根を止めてない限り、大丈夫なんだよ」
 実際に出場した人間の言葉であれば、誇張はあれど偽りは薄いだろう。力加減の難しい者でも気楽な範囲が広がり、言葉を変えれば、予選の時よりも過酷な戦いになるということだ。
 −−決勝じゃあ、無茶をやる奴らが多いって話だ。気を付けた方がいいぜ。
 ルゥイの忠告は、今の男の言葉と重ねれば、危険性をはらんだものだと諒解できる。
「全員、階上へ」
 神官の情に温もらない言葉によって、地下の一室は囁きの存在すら打ち消された。
 先を行く者に倣い、壁をくりぬいただけの簡単な入り口を抜けると、予想を違えず、幅のない階段が急坂を作っていた。見上げても、先を上る人間の影で覆い尽くされていて到着地点は見えない。遙か遠い−−最高部の天井に白く薄ぼんやりとした伸びた光りの帯が、階上の闘技場から射し込んだものだと推せる。
 快適とは言えない狭苦しい段を上りながら、決勝の間近さに高揚してくるような事は一切無かった。胸の底で静かに溜まっていた淀みがあゆくような気分が後を引き、すっきりしない。
 命を賭さなければならない戦いでなく、気負うことも拘ることもない−−そう思っていた自分は気楽すぎるのだと、レンは思い直した。正確に自覚できたのは、いつからかはわからなかった。
 リュウの友人を戦場でとはいえ、斃してしまった事を知ってから。解放軍時代の兵士と邂逅してから。ルゥイと別れてから。いつからか少なからずあり、形としてわかるほどに成したのは、ルゥイと別れてからなのだろうう。
 −−決勝では勝つな。
 今更ながら、呪文のように蘇る少女の忠告。
 わずかの間でも薄闇に馴染んでいた目の奥まできつく突き通る光りの中へ、足を踏み出す。会場内の壁や天井の建材に何らかの加工が施されているのか、陽の下だと錯覚するほどの光に満たされていた。
 すり鉢状になった外周には観戦用の椅子が並び、ざっと見では空席が見当たらないほどの賑わいだ。開会の式が始まる前から出場者以上に興奮し、期待に胸を膨らませているのだろう。
 これだけの人間がこの閉鎖された空間にいれば、じきに空気が淀み、息苦しさを覚えそうだが、いかなる処置が施されているのか、清浄なものだった。日差しがないだけに、涼しさすら感じられる。
 地下に届くものより曇りを脱ぐように、更に鮮明に響かせる歓声が天を覆い、降り注ぎ、包み込んでくる。圧倒的な力さえ感じられた人の熱狂が波よりも早く引いたかと思うと、入れ替わるように耳に届いてきたのは、穏やかで清らかな旋律だった。
 神子を讃え、崇める人々の思いの歌−−
 静謐漂う空間で、闘技大会決勝の始まりは告げられた。
 


第一部「gaining through losing」完

 

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