<UP DATE:20030331>

 共鳴


 響き、疼く。
 光に飢え、生に飽くなき闇。
 人という檻の中で蟠(わだかま)る昏い澱が、意識を絡め取ろうとする。
 精神を支配し、自由を拘束し、己の存在とすり替わろうとする慾望。
 抑える事は、何も難しくはない。
 ただ、時に感じる……。
 このまま身も心も委ねてしまえと、声が囁く。
 何もこの手に残らなかったこの身を哀れむような、甘やかなそれは……
 己から出た声なのか。
 それとも、右手に宿る闇からのものなのか。


 −−恐れたら、おまえの負けになっちまうぞ。
  大丈夫、お前なら、きっと使いこなせるさ……


 首筋の辺りを撫でるかすかな痛みに、レンは馬を止めた。
 空を遮る緑は隙間から陽光を零し、さわさわと穏やかな風が流れる。昼下がりの森のなだらかな時間の流れの中にいながら、少年の目は冴えていた。
 鳥のさえずりが途絶え、茂みを走る獣の気配もいつしか遠ざかり、生き物の存在が絶えたかのようだ。
「厭な感じだ」
 主人と同じく敏感に異常さを察知したらしい馬の首を軽く叩いて宥める。
 不意を打つように空気が唸りを上げたのは、その時だった。風が鳴り、梢の葉が舞い散る。錯覚とは到底勘違いできない害意にレンは鞍の横に渡していた棍へと反射的に手を伸ばす。
 意識の手を伸ばさずとも、間もなく凄まじい力の波動に触れた。
 それほど遠くはない。
「行かない方がいい気がするけれど……」
 右の甲が疼く。浅く、皮膚の表面を焼くような不快感に顔をしかめた。
「ますます、行かない方がいい気がしてくるな」
 遠くかすみながら届いた人の悲鳴に首を振ると、手綱を繰(く)る。本能的に危機回避が働くはずの馬は黙って少年の指示に従い、足を速めた。
 森と言うには木の生え方がまばらになった辺りで、鼻腔に流れ込んできた匂いに息を詰める。
 濃い、血の匂い。解放された空間であるにもかかわらず肌にまとわりつくような密なものに、レンは棍を抜くと右手に提げた。
 近づいてくる暴れ狂う気配、そして悲鳴が上がる。茂みが揺れ血塗れの男が這い出てきたのを見て、少年は馬から飛び降りた。
「ひ、ひぃ」
 恐怖に見開かれた目は涙に濡れ顔にはまったく血の気がないが、自身にはこれほどの出血を起こす外傷は見当たらない事を視認する。血は『誰か』の返り血だろう。男がハイランドの兵装をしている事に、レンは気づいた。
「大丈夫か」
 訊ねられた男は、ひぃひぃと息を喉の奥で震わせるだけだ。よほど恐ろしい状況に身を置いていたらしい。
「!?」
 膨れあがる殺意に、レンは棍を構える。男の前に回り込むと、空気を裂き茂みを薙ぎ開いて飛び出してきた金色の風の塊にためらいなく棍を打ち出した。寸でのところで裂けようとするものを、さらに踏み込んで打ち払う。
 強かな衝撃感が、腕にまで伝わってくる。だが、固い抵抗感から察すれば致命傷にはなっていない。
 耳をつんざくような咆吼が上がり、見事な金の毛並みを備えた獣が少年と対峙した。見た事もない生き物を眼前にし、レンは眉を寄せる。
 猛々しい獣性と狂気を持ちながら、少年を映す双眸には確かな賢智が備わっていた。
「一体……」
 不審に緩んだわずかな隙を逃さず、獣は新たな咆吼を上げレンに飛びかかってきた。巨躯の体当たりを正面から受けるような愚行はせず、兵士を茂みに押し倒すと同時に、自分は横へと身を転がす。すぐさま起きあがり、武器を手にした。棍ではなく先の兵士の腰から拝借した長剣だ。慣れない重みと柄(つか)の感触を、2、3度握り直して馴染ませる。
 間合いを計りながら、獣の背を切りつけた。
 キン
 甲高い音がして、刃は弾かれてしまう。明らかに毛の手応えではない事に、不審さは増して行く。
 じん、と鈍い痛みが右手を包み込んだ。存在に気づけと言わんばかりに訴えるものに、レンは唇を噛む。
「お前の出番じゃない」
 唸り声を地に這わせる獣と睨み合いながら剣を握る力を強め、今は余計な感覚を意識から払おうとした。
 と、蒼い閃光が大音量と共に視界を過ぎり、獣に降りかかる。火花を名残にして魔力を全て弾いた獣の額に輝くものに、少年は目を細めた。
 −−紋章。しかも、これは……!
 全くダメージはないにもかかわらず、怒りを増した獣が吠えレンに襲いかかってきた。空気をも重みを増して圧してくる巨体は、見た目からは想像できない俊敏さでもって、鋭い爪を凶器と化して切り下ろそうとする。
「くっ」
 咄嗟に身を捻りながら沈め、懐へと剣先を突き出す。毛皮の薄い腹であれば、と思った故の攻撃だったが、硬い応えが返ってきた。
「そこのヤツ、どけ!」
 乱暴な物言いが背にかけられ、継いで迫る鋭利な気配にレンは身を伏せる。
 先刻以上の威力を内包した響きが頭上を抜け、猛る獣に降りかかった。追う様に長身の影が銀光を薙ぎ、怯んだ巨体に叩き込む。
 ギャン、と犬と紛う苦鳴を上げてよろめくと、どうとその地に倒れ伏してしまう。
「……」
 待てどもぴくりとも動かなくなった金の獣をじっと見守っていたレンを、剣を片手にした男が振り返った。
 未だ若い。赤い髪が肩に浅くかかる青年だった。やや細身の剣を提げた佇まいに全く隙がない事に、少年は一抹の危惧を覚える。
「おい?」
 じっと見返しているだけのレンに不審そうな顔で、反応を促してきた。
「危ないところを、ありがとうございました」
 にこり、と笑みを浮かべて立ち上がると頭を下げる。
「いや、お前……何でこんなトコにいるんだ? この辺は一般人の立ち入り禁止にしてるはずだぞ」
 思いがけない丁寧な謝礼を受けて惑いながら、青年は疑念を刺して来た。
「すみません、方向音痴なもので。それじゃ」
 棍を拾い踵を返そうとするレンに、安全な場所に待避していたらしい馬が歩み寄ってくる。
「待て」
 不審さが増した声音に内心でため息を吐きながら、それでも笑みを浮かべて肩越しに顧みた。
「何か?」
「お前、こいつと戦って全くの無傷なのか?」
 顎で獣の死体を示し、目はレンから外さない。
「……あなたの助けがもう少し遅かったら、危なかったと思いますよ」
 笑みを崩さず応じるのは容易かったが、この青年の尋問体勢を解き逃れるには如何にしたものか、と軽い疲労を覚えかけた。
「シード、何をしている。獣を……」
 新たな男の声が割って入ったかと思うと、がさがさと茂みをかき分けて長身の男が出てくる。銀色の髪に切れ長の碧眼。帯剣をしており、同じく隙を見せない立ち居振る舞いだ。
「お、クルガン、いいとこに」
 シードと呼ばれた青年は、軽く手を挙げて応える。
 シード、クルガンという名前は、少年の知識の中からハイランドの武将のものと符合させた。もっとも自分が置かれたくない状況にある現状を自覚せざるを得ない。
「不審者を尋問しようかとしてたのさ」
 不審者、とレンは口の中で呟いたが、表情には出さず話の流れを用心深く傍観する事にした。下手に口を挟んでややこしくしないよう−−面倒事は避けるに限る。
「見たところ、普通の少年みたいだが?」
 クルガンがレンを一瞥しただけで興味なさそうな感想を述べると、赤髪の青年は渋面を作った。
「俺たちがこいつを見失って、どれだけの時間が経っている? 役立たずどもはあっという間に餌食になった。なのに、こいつは傷1つ負ってないんだぜ」
 なんとか連れに同意見を得ようとするシードに、やれやれと言いたげに短く息を吐く。
「……シード、我々は子供1人に時間を割くほど暇な立場ではあるまい」
 責言と言うには沈着な声音だが、逆に諫める威力があったらしい。不満そうな色を滲ませながら、シードが言い募るのをあきらめた様子に、レンがほっと息を吐きかける。
「!!」
 突如沸き起こった殺気に、身構えたのは3人が同時だった。
 息絶えたはずの獣が、飛びかかってきたのだ。驚愕は一瞬で、3人は迎撃体制に入る。
 シードが剣を構えると、クルガンが紋章の発動を仕掛けた。雷撃の魔法を帯びた剣が獣にし向けられる。息の合った連携はしかし、獣の腕の一振りで無に帰された。体勢を立て直す前に、獣は身を翻してシードへと標的を変える。
「シード!」
 次なる魔法の詠唱を中途で切らざるを得なくなったクルガンを追い越し、レンは地を蹴った。獣の背を踏みつけ、膝を軽く曲げる反動で獣を追い越してシードの前に降り立つ。
 棍をくるりと手の内で回すと、先を獣の眉間に強かに打ち込んだ。
「ギャウ」
 致命的ではないにしろ、苦痛は与える事が出来たらしい。
「早く、今のうちに!」
 背後のシードを促すと、半瞬後離れる気配があった。
 −−獣の紋章……27の真なる紋章の1つが具現したものであれば、生半可な攻撃では傷1つ付ける事もできない。
 ためらいは、戦いの中で致命的な隙を作る。重々、その事は身に言いつけていたと言うのに……。
「!!」
 出来てしまった“穴”を逃さない賢しさを、獣は持っていたようだった。
 黒い風が唸るのを残影にして、鋭い衝撃が肩口を深く抉る。寸でのところで身を退け獣の太い爪がかするだけで済んだはずが、空気を裂いた刃が服だけでなく肉をも切りつけた。
「おい!?」
 シードの声が驚きにはらむ。
「……ッ!」
 見る間に傷口が疼き、熱を帯びて来た。温かなものが赤く染め上げていく腕を振るったレンは、止めとばかりに襲いかかろうとする獣の眉間に再び棍を打ち付ける。
 取り落とさせようとする激痛を堪えて棍を翻し、先を左目へと突き出した。
 おぞましい咆吼が上がり、周囲の空気が震える。魔法の生き物といえど、目だけは鍛えられないらしい。
 無事な右目が怒りと憎悪に燃え立たせて少年を映すより早く、レンは右手を掲げていた。
「さあ、その飢えと渇きを癒すがいい。
 ……仇なす黒き暗き汚れし魂を漱(すす)ぎ、天と地の狭間を開き還らん!」
 呪(ことば)を連ねる音に同調するように右手に帯びる熱が力へと転じ、黒い闇が集約する。
 具現した闇は、見る間に獣の体を覆い尽くし飲み込んだ。紋章の魔力と獣の魔力がぶつかり合い、一瞬暗がりに包まれた森の中で唸りが震える。
 今までの鬱屈を晴らすように、体への負荷は傷口をも圧して来た。紋章の制御への集中力を苛もうとする激痛に、レンは唇を食いしばる。
 獣の体が霧消し、嘘のように穏やかすぎる白い空気が戻った。
 下ろした腕を伝う生ぬるい感触が不快で、抑えきれない呼吸の乱れが耳にうるさい。
 絶えたはずの右手の疼きが突如激しくなったかと思うと、指先から這い上がってくる悪寒が全身を撫で上げ、レンは息が詰まった。真なる紋章を宿していた獣が消えた事で落ち着くはずの右手が、さらに勢いを増そうとしている。
 −−喜んで、いる? ……何故?
 不審と同時に内で沸き起こる懼れを否めない。
 今までとは微妙に違う反応だった。宿主よりも早く強く何かを感じ取り、己の存在を主張するような……強い叫びに似た震え。
「おい、お前、大丈夫か……」
 赤い髪の青年の声が遠い。
「シード、どう見ても大丈夫じゃない人間にそう訊くのはどうかと思うが」
 今1人の青年が静かに口を挟むのも届いた。
「……お気遣いありがとうございます。僕は大丈夫ですので。失礼して、いいですよね?」
 脈動するように熱くなってくる右手で、強く拳を作った。額に滲む汗は、傷の痛みによるものだけではない。膨れあがる紋章の意志を抑えるために割く精神力が、確実に体力をも奪いつつあった。
 −−早く、この場を離れなければ。
 本能に急き立てられ、傷の痛みに構う事を意識から離す。
 呼ばずとも寄ってきた馬が、気遣うように少年の頬に寄せて来た。その鼻面を優しく撫でると、鐙に片足をかけ、左手だけで馬の背に上がる。体が重く、失血が思ったより多くなっている事が、酩酊する視界でわかった。
「お、おい、待て……!」
 シードの声を背にそのまま行きかけた耳朶を、ヒュッと鋭い音が打つ。
「!!」
 衝動は重く、馬の体越しに伝わってきた。苦鳴を上げて身を倒す馬から、寸でのところで飛び降りることが出来たものの膝に力が入らない。
 馬の横腹に矢が深く刺さっていた。篦が太く長く、よほどの強弓によるものだと推測できる。傷口から絶え間なくあふれ出す血は少年のものより黒く、致命的な血管を傷つけている事を証明していた。
 レンは己の傷を忘れ、馬の首を抱き上げる。ぐったりと力無かった首を擡げ、光を失いつつある瞳が少年の顔を映した。
「……!」
 疼く、右手。
「ふん、何故こんな所にガキが居る。
 貴様、何処から紛れ込んだ」
 声音に蔑みを濃く混ぜた若い男の声に、レンは顔を上げた。新たに現れた、シードたちと共にいる声の主を視点に定める。
 2人の青年を跪かせ、馬上の人になっているのは、おおよそシードたちと年の変わらなさそうな青年だった。黒い髪、そして同色の瞳は、あまりに強い。意志の強さというには、あまりに昏すぎる熱を込めた光に、レンの背を冷たいものが流れた。同時に本能が警告をしてくる。
 虚仮威しではなく、明らかな−−威圧してくる存在感。
「これがハイランドの礼儀だと言うのなら……恐れ入ったよ」
 馬の首をそっと横たえると、レンは怯みなぞ打ち捨て屹然と相対する。纏う空気を熾烈に灼く“力”は、少年の深眸の色をさらに精美なものに変えていた。


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