邂逅
−−裏切られない事は容易だ。
最初から信じていなければ、裏切られる事はないのだから。
ハイランドからの休戦協定の申し込み。
予想だにしなかった問題の提起に、同盟軍の軍議は紛糾した。
−−罠ではないか。
それが最も多い疑異であり、現在はハイランドの勢力図の中にあるミューズで和議を交わすという相手側の条件が、さらにその危惧を濃いものにしていた。
結果的には、ルカ亡き今、同盟軍が優勢な現段階であれば、こちら側に有利な条件で協定を締結できるだろうと相成る。その判断の下、ミューズ行きの有志に選ばれたのは、ティエン、テレーズ、ナナミ、ルック、フリック、そしてレンだった。
テレーズは同盟代表の1人として、ナナミは強引について行くと言い出したのだが、その他の要員は武器を解除された場合、万一の時に戦力低下を避けるため、魔法行使に長けた人員を選んだ故である。
レン自身は、自分に疑いを向ける者に試されている事を承知していた。
クルガンと既知の関係であった事が原因なのは、言うまでもない。斥候ではないかと飛躍的な猜疑を向けられはしないものの、複雑な想いが絡み合った末の派遣者への抜擢を断る術はなかった。
デュナンを船で渡った一行は、コロネで一晩泊まり明朝にミューズに向かう事になった。
コロネに着いたのは夕刻。宿に部屋を取って間もなく食事を済ませると、それぞれが席を立つ。息苦しい沈黙が居座る雰囲気に、常日頃明るいナナミですら言葉少なく、少女は早々に部屋に戻っていった。
レンは宿の外に出ると、襟口を緩めて軽く息を吐く。日の入りをとおに過ぎた通りに、両側の家屋からは温かな明かりが漏れ、家人が談笑する声が遠かった。
少年は、剣を忘れず佩いていることを確かめ、通りを進んだ。体術に覚えがないわけではないものの、丸腰で歩き回るほど不用心ではない。剣帯を付ける事自体久しぶりだったが、今はもう違和感はなくなっていた。
体が戦いに慣れてしまっている事実を否めない。
戦場から離れて3年の間も、身の危険を払う手を休める事はできなかった。やむを得ない時だけとはいえ、棍で、剣で、矢で奪った命。その遺体を弔う自分の行為が偽善に思えた日もあった。
少年は、じわ、と熱を発する右手の甲を押さえる。
それでも、右手の紋章だけは使わないよう己に禁じていた。ただ1度、真なる紋章の化身である獣と戦った時を除いて、それは遵守できている。
危険と対峙する時、存在を主張し行使を訴えてくる紋章。そのたびに、隙を衝き力を発動させようとする“自我”を抑え込まなければならなかった。
−−ほんと、お前は我が儘で困るよ。
聞き分けのない子供をあやすように優しく撫でると、じきに鎮まる。
辿り着いた船着き場は無人になっていて、さざなむ水音しかない。今夜は、黒い湖面に揺れる月も居なかった。空にちらつく星明かりは、地を照らすにはか細すぎる。
湖面を撫でてきた風にあおられる黒髪を押さえようとして、レンは視線を背後に流す。
今し方通ってきた倉庫脇に佇む銀髪の青年と目が合うと、頭を軽く下げてきた。
「クルガン殿……」
少年は無言のままのクルガンに、軽く目礼をして応える。
少し前から後をついてきている事は気づいていたが、声をかけてくる気配もなく、このまま気づかないふりをしていたらどうしたんだろう、と緊張感のない好奇心も沸いてしまう。
「あなたは、同盟軍側につかれていたのですね」
青年の無感情ながら、何処か詰る色を秘めた科白にレンはくすり、と笑った。
「……おかしな事を言われますね。休戦協定を結ぶ相手側の人員など意を成さないのでは?」
体の向きを変え、クルガンと正対する。2人の間に流れるやわい空気は、急に熱を奪われたように張り詰めた。
「……たとえ休戦相手でも、あなたの存在は脅威なのです」
青年の碧眼の奥で尖る光りは、油断無き強さで少年を射す。
「買いかぶりですよ」
レンは敢えてクルガンから顔を逸らし、ため息に疲れを滲ませた。ぬるい風に的確な間と言葉をさらわれたように、しばし青年は口を噤む。
「今からでも遅くはありません、ハイランドに……」
「それはできません」
はっきりと語気を強めた事に、青年はレンの真意を求めるように目を眇める。その表情を酌みながら、少年は柔らかな笑みを浮かべた。
「クルガン殿、私はこの身で戦う事が嫌いだというきれい事は言いません。ですが、こんな私でも許せないものがあるんですよ」
「……それは?」
この光の乏しい闇の中でも視認できる黒眸の深さに、クルガンはわずかに怯んだように眉宇を寄せる。
「裏切りです。
私は、信じてくれた人を裏切らない」
例え1人でも信頼を渡してくれる者がいる限り、その思いを切り離す事は出来ない。今ではいっそ、信念と言っても良かった。
「……」
腕組みをしたまま、凝らすように細めた目で黙り込む銀髪の青年に、レンは首をわずかに傾ぐ。
「私が応と言わなければこの場で死を、と考えてませんか?」
2人の会話が始まった辺りから、周囲をハイランド兵の影がうろついていた。町内を巡回するように見せながら、此方に注意を向けているのが分かる。十分すぎるほどに満ちた敵意−−合図1つで行動を起こすつもりなのだろう。
「……まさか」
少年の伺いを一蹴するには歯切れの悪い間が空いた。。
「その脅しは私には利きません。あなたがその剣を抜く前に……紋章を使う前に、私はあなたを葬る事が出来ます」
殺意も敵意も見せず、ただ、凪いだ光りを浮かべた黒眸を向ける。静かでありながら、天の微かな光よりもはるか強い英気が、痩身に纏わった。
「紋章で、ですか」
クルガンの視線は、少年の右手へと向けられている。かつて見た光景を思い返してか、緊しさが長身を張りつめさせていた。
「さあ? 此処で手の内を明かすほど、私は愚鈍ではないですよ」
左手で柄を押し下げるように握り、レンは笑みを消さない。剣呑な空気に不似合いなほど、安らかな眼差しで告げる。
「お疑いでしたらどうぞ。ただし、2度目はありませんので」
静かな声音と共に深められた笑顔は、隙を全く見せず、不敵そのものだった。ただ其処にいるだけであれば、華奢な体つきをした大人しやかな少年が、眸だけでそれらの印象を拭う。
英雄と呼ばれ、かつては数多の兵を率いた傑士の存在感に、クルガンは緩く首を振る。
「食えない人だ」
苦笑混じりに呟くと、青年は踵を返した。それにつれ、兵士もじわりと気配を離していく。少年だけが残された場に流れ込む風は何事もなかったように、緩くおだやかなものになっていた。
レンはぐるりと船着き場を回り、来た道の1つ西にある通りの入り口で足を止める。そして、やれやれと言うように頭(かぶり)を振り、息を吐いた。
「ルック、盗み聞きとは随分趣味が良いね」
先刻クルガンの立っていた倉庫の反対側の角−−建物にもたれた少年に、揶揄を向ける。
「敵の士官と密談とはティエンの心証を悪くするだけだよ、わかってんの」
きつい眼光が返り、言葉の辛辣さはさらに情けがない。
「密談、か。
信じてもらえないなら、僕の力が足りないだけだよ」
逆に切り返されて、レンは苦笑を浮かべた。その反応が気に入らなかったらしく、ルックは眦を強ばらせる。
「そう言うのは謙虚とは言わないんだよ」
「わかってるよ」
「わかってないよ、君は。まったく、この3年で少しは器用になったかと思えば……」
露わにしたチ容を逸らし、吐き捨てる口ぶりの容赦無さも音だけだと、レンにはわかっていた。
「何、怒ってるの?」
無愛想で冷ややかなふりをして、奥に潜めたものをルック自身も気づいていないのだろう。
−−どっちが器用じゃないんだか、ね。
「別に怒ってないよ」
刺々しいいらえに、肩を竦める。
「怒ってるじゃない」
「しつこいね。僕は呆れてるだけだよ」
フン、と鼻を鳴らしてさっさとその場を離れかけたルックへと、手を伸ばす。
「待ちなよ、ルック。都合が悪くなるとすぐ逃げようとするんだから」
手首を掴まれた少年は、じろり、と睚みつけてきた。
「人聞きの悪い言い方止めてくれる?」
心なしか声音が低まっている。どうやら機嫌を損ねる事は確実にできたらしい。
「せっかくだし、話でもしようよ。2人でのんびり話なんて随分ご無沙汰だし」
浮かべた笑みで一瞬でも相手の怒気が引っ込み、ついでに毒気を抜く事が出来たようだった。その証拠にルックの腕の緊張がわずかに緩まる。
「僕には何も話す事はないよ」
愛想のない返事にも、レンは全く引く素振りを見せず「構わないよ」と言って続けた。
「僕が話をするから、適当に相槌を打ってくれたらいいよ」
「君ね……」
今まで占められていた憤りを呆れにすり替えて、続けるはずだったせりふをため息に混ぜる。
「何?」
聞き返すと、構えるべき応えに詰まったように顔をしかめた。
「人の手を離してくれる?」
振り解こうと思えば、いつでも振り解ける程度の拘束を見下ろし、ついで黒髪の少年へと視点を移す。
「逃げるんじゃない?」
「諦めたよ。君のしつこさも、全く変わってないね」
風に揺れる髪を後ろへと流し、大袈裟なため息を吐いて横に並ぶ。不本意である事をアピールするためか腕組みを解かない少年の怒りを焚きつけないよう笑みを堪えて、レンは黒い空を仰いだ。
目を凝らすと、雲が多い。
わずかに湿った空気は雨の気配を教えているようで、望みもしない不穏さを招き寄せられる気がした。
ミューズを囲む堅牢な白い壁はしんと屹立し、内包する険難を覗かせていた。門をくぐり、それが幻想でない事を一行は確信する。通りの彼方此方に立つのはハイランドの兵士ばかりで、物々しさは元より、空気が重苦しい。
そして予想通り、会場であるジョウストンの丘に上がる前に全員の武器解除を乞われた。穏便な物言いだったが、どうにも脅しめいた空気を感じずにいられない。会場まで案内するという名分で付きまとう兵士も同じ目、同じ態度だった。いずれも、休戦をする相手に対するものではなく、一行の気分が落ち着くはずもない。
クルガンはミューズに入った時点で、別行動となっていた。既に会場に入っているのだろう。
「休戦を結ぶ場に武器は法度か。わかるが、どうも落ち着かないな」
軽くなった剣帯に手を当て、フリックがごちる。
「たまには、剣じゃなく頭を使う良い機会じゃないの?」
複数の人間が居る場で会話に参加してくる事自体珍しいが、ルックの舌鋒はいつ何時でも容赦なかった。
「ルック、お前な……」
大人げなく語気を荒げはしないものの、青年の口元は引きつっている。
「何? 本当の事じゃない」
「……!」
ちら、と流した視線に明らかな嘲笑−−ただし、被害妄想の域−−をくみ取り、フリックは憤りを無音と化す事に若干の時間を要した。
「それにしても、ティエンのヤツが元気になって良かったな」
前方を行く、ナナミやテレーズと共に談笑しているティエンを見やり、話題の転換を試みる。売り言葉に買い言葉では、不毛さを味わうだけだと経験上身に染みていたからだ。
同時に、ここ数日、ティエンが笑顔を余り見せることがなくなっていただけに、緊迫した場にも関わらず青年は安堵した。
「オトモダチとやらと再会できるからじゃないの」
本人は何の気無しかもしれないが、言いぐさは毒を含んで聞こえる。
「……お前が言うと、どうにも棘があるように……」
「年取ると、そう言う事に敏感になるんだよね」
明後日の方向を向いて、これ見よがしにため息を吐かれた。
「お前な……!」
いい加減堪忍袋の強度が限界に達してきたのか、軋みを上げる。
「2人とも、暢気だね。何遊んでるの?」
挟まれた呆れた声に、2人は顔をしかめて振り返った。最後尾を歩いていたレンが、2対の視線を受けて、「?」と不思議そうな顔を作る。
「お前には遊んでいるように見えるのか?」
フリックはこめかみを押さえたい気分に疲労を感じながら反問した。
「楽しそうだよ、うん。仲良くて良いね」
本気で言っている事がわかるだけに、青年は返す言葉も作れない。心情を慮って欲しい一方で、それがあまりに儚すぎる願いだともわかっていた。
「……」
ふ、とフリックたちから視線を外されたレンの目が、ゆっくりと細められる。警戒をはらんだ厳しさに覆われるのを見た青年も、少年の視点へと見上げた。
−−ジョウストンの丘。太陽暦314年にジョウストン同盟が成立した場であり、盟約が交わされた場。後の434年には、ハイランドと同盟の休戦協定の際、2人の英雄が剣を交えんとした場だ。
低く垂れこめた雲の下、先人の想いまでもそこに沈んでいるように見える。
「まずいね」
ぽつり、とレンが零し、フリックは我に返った。
「まずい?」
「魔法が使えないよう結界を張られてる」
右手をじっと口元に当て、見えないものを見極めるべく目を凝らした様は、厭でも剣呑さを煽られる。
「わかるのか?」
「何となく、だけどね。ルックは僕よりもっとはっきり分かるんじゃない?」
レンにふられた少年は「さあね」と嘯く。
「……そう言うわけだから、僕は中には入らないよ」
伺いではなく、既に決定事項であるように言ってのけるルックを、フリックは思わず無言で見返した。もの言いたげなその顔を、面倒くさそうに見やった少年はさらに継ぐ。
「僕は誰かさんと違って、力自慢じゃないからね」
じゃあね、とさっさと一行から離れ、建物の傍らの広場へと突き進んでいく。周りの兵士の存在など我関せずと言わんばかりの後ろ姿に、青年は呆気にとられた。
「レン君、いよいよだね」
建物入り口を平穏に通ったところで、ルック並みに緊張感が感じられない少女がレンたちに駆け寄り、笑みでもって見上げる。親友であるジョウイとの再会が間近い事で、緊張より喜びの方に強く占められているらしい。
「ねえ、レン君。レン君はジョウイと会った事あるの? クルガンさんとも顔見知りみたいだったし……」
他の大人達とは違い、純粋な疑問だけを向けるナナミに、少年は間を置かず頷く。
「1度だけね。……君たちがルカを倒す前の話だよ」
ほんのわずかな時間の邂逅だった。なのに、鮮烈に記憶は残っている。
「そっか。ジョウイが結婚してたり、王様になったのには本当にビックリしたけど、コレで戦争が終わるならすごく良い事だよね!」
明るさに輝く表情に、レンも笑みで返した。
「そうだね」
胸の奥が鈍く歪む。
この少女が思うほど容易なものであれば、世変はもっと穏やかであっただろう。人々が乞う理想と言う名の平和も、遠くない夢であったかも知れない。
しかし、現実はあまりに愚かで、無情な流れを作り出していく。
「嘘だ!! 待てよ、ジョウイ!」
ティエンの叫び声が、ホール内に悲痛に響き渡った。蒼白になった顔は、目の前の現実を到底受け入れられる余裕なぞない。
「危ねえ、ティエン、早く逃げろ!!」
ビクトールに怒鳴られ、腕を掴まれた少年は、涙を滲ませた目で睨みつけた。
「何でピリカをつれてきたんだ!!」
「早く逃げねえと、その策も無駄になるんだよ、早くしろ!」
有無を言わさず腕を強く引かれ、返された言葉に、少年の眸は烈しい情動に燃える。
「策!? ふざけるな!! ピリカを道具にするつもりか!」
ティエンは周りの全てが己に叛意を向けているかのように抗い、腕を振り解こうとした。
「ビクトール!」
注意を喚起するレンの声が割って入り、退室したジョウイたちと入れ替わるようになだれ込んできた兵士の波に我に返る。
「ティエン、早く逃げよう!!」
ナナミの声で、一瞬竦んだティエンの隙を逃さず、ビクトールが強引に部屋から連れ出そうとする。入り口は狭く、殺到したところを狙い打ちにされては避ける事は難しい。
フリックは、テレーズを連れて先に脱していた。青年の腕を考えれば無事に逃げ切る事ができるだろう。ビクトールが連れてきた兵士も幾人か同行しており、それに、表に出ればルックも居る。
「キャア!」
兵士に距離を詰められた少女が、悲鳴を上げた。
「ナナミ!」
自分が何も武器を持っていない事に躊躇ったティエンが動くより先に、脇を影が走り、ナナミに斬りかかろうとした兵士がその場に頽れる。
「大丈夫? ナナミさん」
兵士の懐に飛び込み、肘を打ち込んだ上で手刀を強かに首に打ちつけた少年は、へたり込んでいる少女に手を差し伸べた。
「レ、レン君」
青ざめた顔が、ほっと緩む。手を受け、立ち上がろうとしたナナミは顔をしかめて動きを止めた。
「あ、イタ……」
「足捻ったんだね。ビクトール、ナナミさんを」
男に少女を託すと、レンはティエンに向かい、拾った兵士の剣で扉を指す。
「何をしている、君も早く逃げろ!」
その声に少年は現を取り戻すや、体を強ばらせた。軍主であるティエンを狙い、殺到してきた先頭の1人をレンは剣で薙いで牽制し、さらに後ろの兵士の腕に向かい剣先を払う。鋭すぎる風を避ける事も出来ず、手首を切り落とされた男は悲鳴を上げて後ずさった。
「此処は敵地だという事を忘れるな!」
敵、と言う言葉にびくりとなるティエンの背を押す。
「ビクトール、早く!」
「ああ」
ナナミを抱いた男は頷くと、ティエンを顎で促し、先に部屋を出ようとした。レンも背後を窺いながら後に付く。
「!」
出口を出たところで、横合いから飛び出してきた兵士に、咄嗟にレンはティエンを抱き込むようにして庇った。
長剣の刀身の殆どを避けきった−−と思った次の瞬間、痛みが脇腹を刺す。
「くっ」
体を捻って兵士の腹部に蹴りを叩き込むと、相手はよろめきながらも剣を振り下ろそうとしてきた。レンは、兵士の首筋に剣を突き出し、そのまま横に引く。容赦のない一撃。倒れ伏した体の下から溢れる血が、命が失われた事を証明していた。
血に怖じず、多勢に無勢な敵にも全く動じないレンに、ティエンは声を失っている。
「おい、レン、大丈……」
負傷した瞬間を目に留めていたビクトールは、最後まで言い切れなかった。
「僕の事はいいからから早く行け! 此処で軍主を失ってどうするんだ」
次々と迫る剣風に全く怯まず迎え撃つ少年は、膝を着いたティエンの腕を引いて立ち上がらせる。
「ジョウイ……」
呟きと浮いた視線に、レンはその先を辿った。
薄い金色の髪をまとめた細面の少年が、兵士の壁の向こうに見える。冷酷になりきれず、血の気を失った容色を視界から払ったレンは、飛び出そうとするティエンの体を押さえた。腕に力を入れると、傷に鋭い痛みが走り、温いものが新たに流れ落ちたのを感じる。
「ジョウイ!!」
激痛に一瞬緩んだレンの腕を逃れ、丸腰のままジョウイの元へと向かおうとするティエンに、機を逃すまいと幾つもの刃が迫ってきた。
「ティエンイ様!」
同盟軍兵士である青年がティエンを背に庇い、敵の剣を押し返したが、直後に別の兵士に腹部を斬りつけられる。夥しい血が溢れて床を叩き、膝を着いたところへ、矢の雨が降ってきた。レンが駆け寄り、矢を払い落としたが間に合わず、幾本かが青年兵の頚部に突き立つ。
「ティエンイ様、早く……お逃げ下さい」
赤黒い血と共に言葉を吐き出したのを最後に、青年兵は倒れ伏す。それを呆然と見届けたティエンは、なおもジョウイの姿を求め、歩を進めようとした。
「いい加減にしないか!」
声を荒げたレンに腕を引き戻され、見開かれた茶色の眸が顧みる。
「その足で逃げるのと、此処で気絶させられて連れて行かれるのと、どっちがいい。どちらもいやだというのなら、君は此処で死ぬだけだ」
敢えて叩きつける、非情な言葉。
ティエンの乱惑のほどはわかっていた。直接的ではないとはいえ、親友に命を奪われそうになるなど、信じたくないに決まっている。
絶望へと沈んでいく目から顔を背け、レンはティエンの腕を引いて走り出した。
ミューズの外まで走り通し、安全といえる地まで来てから、ようやく一行は休む事を許された。
体を動かす事は不慣れなはずのテレーズも、不平を言わず走ったものの、その場にしゃがみ込み荒い息を繰り返している。
「よし、此処まで来れば大丈夫だろ」
ビクトールは、ミューズの外壁を遠く眺め、ふう、と息を吐く。
「残った兵士はこれだけか……」
人員の数を目算して呟くフリックの顔は暗い。最初、自分たちと同行していた同盟軍兵士とビクトールが連れてきた兵士を合わせては20人ほどいたのが、現在この場には、8人ほどしか残されてなかった。
殆どが、ジョウストンの丘を降りるまでの間に犠牲になったものだ。
「どうしてだよ……ジョウイ……」
ミューズの方向を振り返り、ティエンは小さく呟いた。悄然と、そして悲痛な翳りに差された横顔が、虚ろな声を零す。
「ティエン……」
ルックに足に回復魔法をかけてもらいながら、弟を見上げるナナミも、泣きそうな顔になっていた。
「君は軍主である自覚がないのか」
不意に挟まれた声に、その場にいる全員が思わず見回す。
声の主は、黒髪の少年だった。表情から柔らかさをかき消したレンが、気圧されているティエンにさらに言を重ねる。
「相応の覚悟を持ってその地位にいるなら、仲間を危地に晒すような真似はやめるんだ」
厳しさの濃い声音で綴られた諌言。レンの静かな怒りを感じ取ったビクトールやフリックは驚きを隠せず、呆気にとられた。
2人の知る少年は、このような場で、更に相手を追い詰めるような言動をする人間ではないはずだった。
「……そんな……俺は……」
ティエンの唇が力無く震え、戻りかけた血の気が見る間に再び失われて行く。拳を強く握り、揺らぐ内を言葉にする力を得ようと、喘ぐように口を開閉させた。レンの言葉の正当性を認めながら、畳みかけられた現実への抗いをさらに責め立てるように。
そうして、少年の表情から平静の光が消え行くのを見咎めた者は、ナナミだけだった。
「ティエン……?」
不安げにかけた声は、ティエンの耳には届かない。
「あ……あなたに……」
全てを崩されそうになりながらレンを睨みつける眼光は、冴え冴えと昏く、いっそ敵意を酌む事の方が容易に思えた。
「あなたに何が分かるって言うんだ! 親友を見殺しにして紋章を手に入れたあなたに……俺の気持ちが分かるわけ無いじゃないか!!」
平原に木霊するような、大音声だった。抑えつけ堪えてきた屈託がねじ曲げられ、目の前の人物にぶつけられる。
「ティエン!」
制止の声を発したのは誰だったのか−−ナナミかフリックか、それともビクトールだったのか。
言い捨てたティエンは、息を呑む。レンの顔が感情を抑え損ね、強ばっていた。見た事のない−−想像もしなかった悽愴さが浮かべられたまま、時を止めたように黒眸が見返している。
押し寄せてくる情動に息を詰まらせた瞬間、その頬がパン、と鳴った。
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