<UP DATE:20030815>

 限界


 酒場に入ってきたビクトールは珍しい姿を見つけ、入り口で足を止めた。
 まだ日は高いために、客もまばらで、レオナはカウンター内で一服している。時折カウンターに座る人間にちらちらと目を向けていた。ため息を吐きそうな顔には、呆れが濃い。店主に扱いに困られている当人は、難しい顔で自分の手の中のグラスをじっと視ていた。
「よお、珍しいじゃねえか」
 そのまましばらく観察していようかとも思ったが、思う前にビクトールの足は動いている。顔見知りに暗い顔で居られると、どうにも放っておけない性分だった。
「軍主様がこんな昼間っからンなトコにいるなんざ、どういう風の吹き回しだよ」
 どかりと椅子に腰を下ろし、隣りに座っている人物の背中を叩く。すっかりぬるくなったジュースを眺めていた少年は、背に響いた痛みに顔をしかめた。
「ビクトールさん」
 どんよりとした空気を背負ったティエンに、男は訝しむ。思ったよりも雲行きが怪しそうだと判断した。
「ん? どうした?」
「何とかして下さいよ」
 ぽつ、と零れる。
「何を」
 レオナが運んできた酒を一口のみ、少年の肝心な言葉が抜け落ちた科白に片眉を器用に上げた。
「レンさんですよ」
 余計な事を探られるのを避けるためか、ぷいと顔を逸らされる。グラスを上げることなく、カウンターの上に視線を落とした横顔に、ビクトールはふと思い出した。
「そういやあ、お前、朝の軍議の後であいつに怒鳴ったんだって?」
 ティエンのグラスを持つ指がぴくりと震えた。
「誰に聞いたんです」
「フリック」
 ついさっきまで一緒に剣合わせをしていた青年は、昼間から酒を飲む不真面目さはないらしく、見回りだと称して本拠地から出かけてしまっていた。酒場の前で別れるまでの道中で聞いた話である。
「そのことは自己嫌悪に陥ってるんですから、勘弁して下さいよ」
 むすっと唇を引き結ぶ少年の機嫌は、どうやらかなりの傾きらしい。
「何で怒ったりしたんだ? お前が怒るなんて珍しいじゃないか」
 他の兵士の前では軍主らしい振る舞いを見せる一方で、ティエンはそれ以外の場では素の少年らしさをあまり隠そうとしない。シュウと言い合っている事は日常茶飯事だが、それでも本気で怒鳴ったりする事は見た事がなかった。フリックの話では、周りの者が固まるほどの大声を出したらしい。
「我慢できなくなったんですよ」
 ビクトールに言われて当時の状況を呼び起こされたのか、怒りと後悔を綯い交ぜにした声が呟かれた。
「何が」
 いちいち質さないと本意が読めない。ティエンは頭の中で考えを巡らせて、最後に出た言葉を口にしているとしか思えなかった。途中経過が見えない男は、聞き返すしかない。
「レンさんですよ!」
 急に語気が荒くなる。
「だから、レンがどうしたんだよ」
 愚痴に付き合うのは御免だなあと内心でぼやき、適当に言いくるめて退散しようかと脳裏を過ぎった。
「何言っても、大丈夫しか言わないんですよ、あの人は。ここ一週間、殆ど連日徹夜に近いのに、どうして大丈夫なんですか! 大丈夫なわけないですよ!」
「ああ」
 ビクトールはシュウに「居眠りするくらいなら出なくていい」と軍議からの追放命令を受けている身だが、次なる戦いに向けた準備に幹部が知恵を寄せ合っている事は知っていた。レンは乞われてその場に出席をし、乞われるままに煩雑な書類作業にも付き合っているのだろう。夜遅くまで、レンの自室の灯りが点いている事を何度か見かけた。
「何納得してるんです!」
 暢気そうな答えに、ティエンは視線を尖らせて男の顔を突き刺してくる。
「俺に怒るなよ。レンが大丈夫って言ってるんだろ?」
「ええ」
「じゃあ、大丈夫じゃねえの。あいつは本当に駄目なら、駄目って言う奴だ」
 男も、一日に一度は会っており、聞けば「大丈夫だよ」と笑みでかわされていた。あの笑顔を作ったら、何を言い募ろうと耳を貸さない事は知っている。
「前、駄目って言った事あったんですか?」
「いや、全然無い」
 解放戦争時代から、無自覚で無理をしてしまう少年は、相手を不安にさせる事だけはしてはならないと己に言い聞かせているようにも見えた。今も、そうなのだろう。
「やっぱり無理してるって事じゃないですか!」
 ティエンがレンを無闇に英雄視する事はないが、根付いた憧れをそうそう無にできるわけがなかった。公の場では抑えてはいても、無意識の内に特別扱いをしてしまう。さぞかしシュウの頭を痛めさせている事だろう、とビクトールは軍師の精神状態を思い浮かべて苦笑いした。
「見た目よりゃ頑丈だぞ、あいつは。少なくともお前よりはな」
 干したグラスを掲げて、もう一杯所望しつつ、ティエンに揶揄を向ける。
「悪かったですね、寝不足に弱くて。どうせ寝汚いですよ」
 ビクトールの指摘に不満そうな顔をした少年は、波立つ感情を抑えるつもりかグラスを傾けた。喉に流し込んだ液体のぬるさに、顔をしかめている。
「怒ったり拗ねたり忙しい奴だな。それで、レンにどうして欲しいんだ?」
「少しでもいいから休んで欲しいんです」
 自分の無力さを悔やむように、少年はきつく眉を寄せていた。細まった声に、男は少年の優しさを感じ取る。
「しかしなあ、他のヤツが働いてるのに、ただ休めと言ったって、あいつは休もうとはしねえだろ」
 自より他を重んじるレンの性格を考えれば、さほど難しくない推定だ。
「だから、困ってるんですよ! あの人に過労で倒れられたら困ります」
「確かに、そりゃ困る」
 よもやそのような事態になれば、レパントを始めとするトランの人間が卒倒するに違いない。同盟軍にいるレンを既知の者も顔色を無くすだろう。
「でしょう!?」
 初めて意見が合った事に、ティエンは意気込むように男の方に身を乗り出してくる。よほど腹に据えかねているらしい。このままでは他の事にまで支障が出かねない事を察知したビクトールは、頭をかいた。
 気が進まないが、レンの体が心配なのは、ティエンだけではない。
「ったく、しゃーねえなあ。じゃあ、俺が成功確実な作戦を伝授してやるよ。ただし、お前はシュウを説得して半日、いや一日は体を空けなきゃなんねえぞ」
 男が試すような視線を向けると、ティエンの顔に自信に満ちた笑みが浮かべられる。
「いいですよ。シュウには文句を言わせません」
 兵士の前で見せる同盟軍軍主の頼もしい顔に、ビクトールはにやりと笑った。
「おお、強気だな。結構結構。じゃあ、よーく聞けよ?」
 この先の楽しい展開に期待して、男の声は思わず弾んでしまう。
 二人の会話に密かに耳を向けていたレオナは、やれやれと肩を竦めた。

 空気の流れを頬に受け、レンは落としていた視線を上げた。紙面から急に明るく広がった視界に、軽く顔をしかめる。
「空気が淀んでるぜ、この部屋。少しは窓開けたらどうだよ」
 窓を開け放した青年があきれ顔で振り返った。
「ああ、夜冷えたから、閉めたんだよ」
 持っていたペンを机に置き、重い瞼を指で揉むようにほぐす。刺激する事で、逆に疲弊が表面化した気がした。いつになく、体が怠く感じる。
「もう午後だってえの」
 呆れた声が届く。
「そうなんだ。全然気づかなかった」
 瞼を上げ、青年の背にある窓の外を見れば、陽光が薄いカーテン越しに白く満ちていた。陽の眩しさと流れ込む風の心地よさに目を細め、人心地つくように息が短く漏れる。
「お前、寝てないんだろ?」
「ん? そんな事ないよ。合間に仮眠は取ってるしね」
 処理の終わった書類と目を通し終えた資料を脇に揃えて置きながら、答える。話ながらも仕事をする手を一向に止めようとしないレンの耳を、「はー、やれやれ」とわざとらしい声が届く。
「今朝、ティエンを怒鳴らせたらしいじゃねえか」
「軍議に出てなかったシーナが何で知ってるの?」
 新しい書類から顔を上げ、不思議そうに相手の青年を見やった。
「さりげに嫌味を言うなよ、お前」
 引きつりそうになる口元を堪え、シーナは乱されそうになるペースを戻そうと咳払いをした。
「ティエンだけじゃねえ、フリックも、キバのおやっさんも、お前の丈夫なフリを怪しんでるぜ」
 大丈夫と思っているのは本人だけだという事を何とか伝えたいが、細かく名前を挙げているときりがない。
「演技してるつもりはないんだけどね。そんな風に見えるかな?」
「んー、そうだな。お前が女の子だったら、無理矢理にでも寝かしつけてるところだな」
 困惑気味に訊ね返された青年は腕を組んで、まんざら冗談で無さそうな顔で答える。
「あはは、僕が女の子じゃなくて良かったよ」
 吹き出したレンは、声を立てて笑った。まるっきり真剣に取られていないが、原因はシーナの例えにもあるだろう。
「マジで、お前、少しは休めよ」
「だから、休んでるってば」
 いつになくしつこく食い下がってくる青年に、レンは苦笑を堪える。
「飯も食わず、仕事の虫になってるのにか?」
 青年の顎で示された先には、手つかずの昼ご飯がトレイの上に載っていた。
「ああ、後で食べようと思ったんだ」
 すっかり冷めた昼食を前にして、さすがに巧い言い逃れができず、レンは口ごもる。陳腐な言い訳を出して、嘘ではない事を示すためにトレイを引き寄せかけた。
 ドアのノック音に、二人は同時に扉を見やる。
「どうぞ」
 レンが応じると、すぐに扉が開く。レンの応答を待ちきれないような、間の空かなさだった。
「失礼します」
 気負いで強ばった面持ちで入ってきたのは、ティエンだった。窓際にいるシーナに気づいて目を丸くしたが、はっと本来の目的を思い出したように、机の側まで歩み寄る。
「ティエン君、どうしたの?」
 朝の確執はあくまで一方的だと言わんばかりに、レンは穏やかそのものだ。問われたティエンは意志を奮い立たせるように、キッと眼光を強める。
「レンさん、俺は、今度という今度は、いい加減腹に据えかねた。レンさんは真剣に取ってくれてないみたいだけど、俺は本当に頭に来てるんだからね。
  それをはっきりスッキリさせるために、レンさんには俺と勝負してもらうよ」
「は?」
 間の抜けた声を出したのはシーナの方だった。
「僕と、君が? 何故?」
 レンも少なからず意表を突かれたらしく、怪訝な顔になっている。
「理由は、引いては同盟軍のためって事で。俺と勝負して、俺が勝ったら俺の言う事を聞いてもらうから」
「ふうん。僕が勝った場合はどうなるの?」
 レンは頬杖を着き、少年に訊ねた。
「俺がレンさんの言う事を何でも聞くよ」
 負ける気は無い意思を表すためか、ティエンは敢えて軽い口調で返す。
「へえ、面白いね。でも、勝負って何するわけ?」
 英雄の肩書きが遠のきそうな無邪気さで、更に問うてくる。他意無く提案が楽しそうだと思えている証拠に、笑みは自然なものだった。
「釣りで勝負」
「よりにもよって釣りかよ!! うわ、ティエン、そりゃお前最初から負け……」
 シーナは、じろりとティエンに睨まれ、最後まで言い切れなかった。
「シーナは横から茶々を入れるな! 俺はレンさんに言ってるんだよ」
 睨んだ視線よりもきつい口調で少年に言われ、青年は「へいへい」と気のない返事をする。
「釣りかあ、久しぶりだなあ」
 二人のやりとりに頓着してないらしいレンは、笑みで顔をほころばせる。嬉しそうな顔に、思わずティエンも顔が緩みそうになった。
「い、今してもらってる書類終わったら、レンさんの仕事はひとまず終わりだから。シュウに聞いてきたからね。嘘じゃないよ、本当に」
 細切れの言葉では言い訳口調にしかなっていない事に気づく。どうやら自分が認識している以上に、舞い上がっているらしい。
「そう。じゃあ、夕方までには終わるかな」
 机上を見渡し、ざっと目算して肯いた。
「勝負は明日。デュナン湖で夕刻までに釣果の総重量が多い方が勝ちという事で。審判はルックにしてもらうことになったから」
「えー、あいつがそんなモン引き受けるか!?」
 舌の根も乾かぬ内にシーナが口を挟んだが、今度は痛烈な視線で刺される事はなかった。
「人間根性出せば、不可能も可能にできるんだよ」
 何処か達観したように呟いたティエンは、揺れるカーテンの向こう、更に遠い何処かへと目を向ける。茶の前髪が陽に照らされ、明るく揺れていた。
「ルックに根性なんてもんが通じたってのが、俺は不思議でならねえ」
「すごいなあ、ティエン君」
「……二人とも、気が殺げるから妙な感心の仕方しないでくれる?」
 シーナは揶揄だが、レンは本気で感心しているようだった。ティエンは萎えそうになる気力を何とか支える。
「君の努力に敬意を表して、勝負は受けさせてもらうよ」
 穏やかさは消え、戦いの時に見せる不敵な笑みがあった。油断ならない表情に変化した事に、ティエンも改めて緊張に引き締める。
「じゃあ、明日日が昇ったら、船着き場に来てよね。準備はしておくから」
 決戦は、明朝開始。
 レンは了承するように肯いた。

 東の空が白く輝き出す頃、デュナン湖のほとりにレンはやって来た。
 湖面には白い靄がなびき、冷たい風が寥々と抜けていくだけで、人影が見当たらない。少年は首を傾げた。
「おかしいな。もしかして早すぎた?」
 無人の船着き場に佇んだままで、する事がない。待ち時間があるなら本の一冊でも持ってくれば良かったと思いながら、レンは、刻々と朝の色に染まっていくデュナン湖を眺めやった。
 逢魔が時と違い、湖の青を清々しく磨くように照らしつける朝陽は眩しく、美しい。
 ゆっくりと景色を眺める時間を手にする事は、久しかった。最近の慌ただしい時間の流れに、今更ながら気づく。大量の文字群を相手にする事自体は苦痛ではなかったが、今こうして、いつなりと変わらぬ自然を目にすると、気づかなかった疲労まで癒されていく気がした。
「おはよぉ、レンさん」
 寝言かと思うほど寝ぼけた声が背に当たり、レンは体の向きを変える。
 半分目の開いていないティエンが、あくびをかみ殺しながらのったりと頭を下げた。その傍らには、腹立たしさを隠そうともしないルックが立っている。
「おはよう、ティエン君、ルック」
 にこやかな朝の挨拶に、ルックは柳眉をひそめた。
「相変わらず年寄りみたいに早起きだね、君は」
「年寄りは余計」
 三人の中で一番眠気を感じさせないのは、黒髪の少年である。ルックはいつもと変わらない態度のようであるが、機嫌の悪さの幾分かは眠気によるものだと、レンは見通した。
「とにかく、付き合わされる僕の身にもなってよね」
 よろけそうになるティエンの襟首を掴み、盛大なため息を吐く。
「審判なら、別に夕方来ても良かったんじゃないの?」
 素朴な指摘をされ、ルックは口の端を歪めた。酷薄な表情は、今ではすっかり少年の美貌に似合っているように見える。
「この嗜眠病人間に、朝起こしに来てくれとか頼まなければね、是非そうしたかったよ」
 憎々しげに吐き捨てた事に対し、「へえ」とレンは感嘆した呟きを漏らした。
「本当にすごいなぁ、ティエン君」
「何感心してるんだい」
 期待した点と見事にずれたレンの相槌に、ルックは苛立った視線を向ける。
「純粋に感動を。ルックは朝弱いと言う認識だったんだけどな」
「こいつほどは寝汚くはないよ」
 ふん、と鼻を鳴らすと、襟首を捕捉されたティエンがあくびを一つした。
「ティエン君、本当に大丈夫?」
 一向に本調子が出ない少年に、レンは気遣わしそうに眉宇を曇らせる。不安げな声に、初っぱなから精神的に負けてはいけないと本能に命じられたのか、ティエンは重く落ちようとする瞼をこじ開けた。
「大丈夫。道具は昨日の内にそこの倉庫に構えておいたから。デュナンの湖畔であれば、何処で釣ってもらっても構わないって事で」
 明瞭な切れはなかったが、現状では最大限眠気を払った声で答える。続けてあくびをかみ殺していては、頼りなさ過ぎた。
「湖畔って事は、船は駄目なんだね、わかったよ」
 レンは気合いを入れるように、加えて楽しそうな顔で大きく肯く。
「じゃあ、勝負開始って事で」
 ふかふかとあくびをしながら、ティエンが涙目で宣言をする。二人は、道具を取りに倉庫へと先ず向かった。足下がよろけている少年の肩を、レンが慌てて支えているのが見える。
「まったく、既に勝負着いてるんじゃないの?」
 ルックがぼそりと零したが、朝の風に流されてしまい、二人の耳に届く事はなかった。


 
 
 「いいか、まずは、レンに釣りで勝てるとは思うなよ」
 最初から負けの見えた勝負をするのは抵抗があり、不満そうな顔になる少年の鼻先にビクトールは太い指を突きつける。
「本来の目的が何かを忘れるな。心配すんな。もし負けても、レンならそんな無体な命令をしたりしねえよ、たぶんな」
「その、最後のたぶんって何ですか」
 ティエンは、目を据わらせた。さりげないつもりだろうが、聞き捨てならない。
「後で俺を恨むなって事だ」
 しっかりと予防線を張ってくる事は抜け目ないが、少年としては穏やかではなかった。ますますティエンは胡乱な目つきになったが、男には通じていない。
「あいつは許されりゃ、一日ずっと釣り糸を垂れてる。十分な休息になるさ」
 それに、と続ける。
「もしお前が勝てば、あのレン・マクドールに拒否権無しの絶対命令を下せる絶好のチャンスだぞ。お前も男なら、頑張ってみろや」
 大袈裟に言葉を飾って、景気づけのつもりか背を叩かれる。手形が着いたのではないかと怪しむほどの強さに、ティエンは息が詰まりそうになった。少しは手加減してくれよ、とごちてしまう。
「レンさん巧いんでしょ、釣り」
 ひりひりする背中の痛みは、なんとか堪える事ができた。
「俺直伝だぞ? 元々筋もが良かったしな」
 自慢げに言われ、正直面白くない。勝てる条件よりも先に、勝てない条件を次々並べられているような気分だった。
「俺は昔川で釣った事があるくらいだよ」
 ふてくされる少年を、まあまあと宥める。
「全くの初心者じゃねえんだろ。上等だ。
 後で俺のお薦めの釣りポイントを教えてやる。数はさておいても、一日釣り糸垂らしてりゃ、でかいのが釣れるはずだ。ま、やってみろや」

 ビクトールに教えてもらったポイントに腰を下ろしながら、ティエンはあくびを飲み込んだ。
 レンとは、道具を取った後別れている。全く別方向に行ってしまったが、今頃は良さそうなポイントを見つけている事だろう。ルックはと言えば、何処にいるのか行っているのか不明である。石版の前に戻って、夕方まで来ないような気もした。
 釣り竿の先を眺め、かすかすぎる波紋以外平穏な湖を見ていると、厭でも眠気が猛威をふるってくる。
 一日空けさせるための交換条件として、普段なら丸二日はかかるであろう書類の束を今朝方までかかって処理していた反動が見事に出ていた。「普段からそれほど勤勉であって欲しいですね」と正軍師に嫌味たらたら言われたが、生返事だけ返して、必死になって片づけた。確かに、普段もあれくらいの処理能力を発揮できれば、気苦労も減るだろうと思わないでもない。
 書類作業は苦手で、相変わらず好きになれなかった。 仕事量がどう増えようと苦にしていないレンに感心したのは最初の頃。レンの仕事の速さ、正確さを、素直に言葉にはしないがはシュウも賞賛している事は知っていた。おかげで、軍としても予想以上に作業を早く進められている事は、誰もが認めざるを得ない。ティエンは、非凡な才能を見せつけられて劣等感を感じたりする事よりも、文句一つ愚痴一つ不満の表情一つ見せないレンを見ているのが怖かった。いつか、倒れやしないか、その思いが日に日に強くなって、昨日の朝爆発してしまったのである。
 思い出すと、またもや気分が憂鬱になりかけた。レン自身が全く気にしてない分、余計に耐えられない。
「うー、ねみ……」
 ぴくとも揺れない浮きを見ていると、瞼が視界を塞ごうと徐々に塞がって来た。さわさわと頬を撫でる風が優しくて、あまりの心地よさにこのまま倒れて寝てしまいたい衝動に駆られる。
「駄目だ。眠すぎる」
 がくり、と上半身が傾ぐ瞬間に自分で驚き、ティエンは眠たがる目を擦りながら睡魔との戦いを続けた。

 
 陸上で船を漕ぎ始める少年とかなりの距離を空けた場所で、レンは釣りの体勢に入っていた。ご無沙汰ながら、慣れた手つきで針と浮きを付け、餌もつけて湖に放り込む。
 朝陽に細かい輝きを散らす湖面に目を細め、ふうと息を吐く。のんびりとした時間の流れが心地よく、レンは安らかさで満たされていくのを感じた。
「遍はし、自ずから在りし、彼の美しさは永久なりき……か」
 歌うように呟いた口元が、苦く引きつれる。
 −−守りたいのに、優しさを抱きたいと乞い願っているのに、訖には破壊してしまう醜い命すら慈しんでくれる。
 仰いだ天の広さは、差し伸べた掌で覆い尽くせるようなものではない。右手に包まれた包帯の中で、少年の言葉に応じるように疼く。応を示しているのか、否を示しているのかわからない小さな痛みに、レンは薄く笑みを浮かべた。
 −−どうして、人は戦うんだろう。
 尽きない繰り言は有史以来消える事なき命題で、明答は何処にもない。いくら巡らせようと、自身の行動を否定されるだけだ。
 今、自分にできる事は、この戦いを早く終わらせるための一助となる事。そのためにも、早くティエンを普通の少年に戻してあげるためにも、力を惜しむつもりはなかった。
 立ち止まる事は何処でだってできる。休む事はいつだってできる。諦める事は誰にだってできる。
 この戦いが終わらせられれば−−休むのはそれからでいい。そう思っていた。
 緩く頭を振り、微動だしない釣り糸に意識を向け直す。
  ティエンのせっかくの好意を無駄にはできない。昨日の朝の剣幕には驚いたけれど、少年が重ねた我慢を思えば他人事のように同情してしまう。自分の思う限界は、傍目には随分低く設定されている事に気づかされた事は、今に始まった話ではない。私情を抜きにして、見た目が見た目だけに仕方ないのだろうとは思った。人の判断材料の中で、視覚的要素が占める割合は大きい。
「ここはやはり、食べられる魚を釣りたいよな」
 本日のささやかな目標を立てると、レンは煩雑な思いを頭から追い出して、釣りに没頭し始めた。



 「ちょっと」
 頭に衝撃を受けて、ティエンは目を開けた。白い太陽が見事視界に入り、顔を背ける。
「ん? んん?」
 一瞬自分のいる状況が飲み込めなかったが、見下ろしている冷ややかな目に合い、意識が完全に醒めた。
「何寝てるんだい。暢気だね、君は。もう勝てるだけのものを釣ったのかい」
 さっきの衝撃は、どうやらルックに頭を蹴られたものらしい。軽くかも知れないが、ブーツの靴先というのは結構な攻撃力をもっている。
「ふああ、あー、よく寝た」
 蹴られた部分を撫でながら起きあがると、大きく伸びをする。ふう、と息を吐くと同時に肩を落とすと、眠気は消えていた。
「釣りは」
 ルックは腕組みをし、表情を変えずにティエンを見下ろしている。
「ああ、うん。一匹釣れたよ」
 ほら、と水の中につけた魚篭を引きずり出すと、中で水音がはね、口から背びれが見えた。籠の大きさからすれば、なかなかの大きさである。
「一匹」
「そう、一匹。結構でかいし、後、もう一匹釣ったら悪くないよな、と思ったらいつの間にか寝てた」
 参ったよと笑って見せたが、返されたのは冷徹な光りだった。
 湖畔にある緑よりも鮮やかで柔らかな色なのに、凍てついた双眸に、ティエンはぎょっとなる。
「僕を引っ張り出しといて負けた、なんて承知しないからね。手を抜かないで真面目に釣りなよ」
 審判をルックに頼んだのは、周りは予定の詰まった人間ばかりで、手の空いている者が他にいなかった事もあった。レンの部屋に行く途中、シーナに会っていれば、シーナに頼んでいただろう。よりにもよって、まずい人選をしてしまったかなと冷や汗をかく。好奇心で即決をしてしまうと、ろくな事がない。
 頼んだ時はルックは渋い顔をしていたが、事情を話して拝むようにしてもう一度頼むと受けてくれたのだ。思えば、奇蹟だったかも知れない。
「抜いてないって。眠いから寝てただけ」
 正直に答えると、ルックは笑みを浮かべた。
「永眠させてあげようか?」
 眸の冷たさを表情にまで浸らせた笑みは、ティエンの脳裏で危険が喚起される。
「その顔では冗談に聞こえないぞ、ルック。まあ、まだ半日あるしさ。
 ……って、何これ」
 ずい、と差し出された籠の中を覗くと、包みが二つと飲み物を入れた竹筒が二本入っていた。手の中にあるものが自分たちの昼ご飯だという認識の前に、運んできた人物の意外さが先立つ。
「昼ご飯だよ。僕がわざわざ届けて上げたんだよ。よくまあ、この暑い中、日向でぐーすか寝られるよね、君は」
「何処でも寝られるのが自慢だからな」
 居眠りの正当化を訴えてみせたが、そのまま聞き流されてしまう。
「とにかく、あいつには君が届けなよ。敵情視察も兼ねていいだろ」
 捨て台詞を吐くと、ルックは肩で風を切るように踵を返し、城内へと戻っていった。
「素直じゃないなあ。心配なら心配と言えばいいのに」
 細い背中が見えなくなってから、ティエンは籠を片手に立ち上がる。釣り竿をしっかり立てて置くと、レンを探しに出ることにした。
 十分眠ることができたらしく、体も軽い。寝不足には弱いが、一度寝れば回復は早かった。
 日中のにぎわいを見せる船着き場を横切り、本拠地を回り込むようにして湖畔を歩く。切り立った崖の麓は、狭い緑地が続いており、所々岩場が湖に張り出していた。頭の上では木々が風に鳴り、日陰に入ると暑気が払われる。
 行けども見当たらないレンの姿に、不審に思いかけた矢先、足を止めた。目に入ったものに息を呑む。
 少年の立ち位置からは、左手にある岩場に半分体を隠すようにして、レンが倒れていた。ティエンに背を向ける形でぐったりと横たわっている細い体に、血の気が引いていく。
「レ、レンさん!!」
 慌てて走り出し、駆け寄る。気配にも慌ただしい足音にも、レンはびくともしない。普段のレンであれば、考えられない話だ。
「レ……」
 傍らにしゃがみ込み、「ん?」とティエンは眉を寄せる。規則正しくゆっくりと上下している肩に気づき、厭な予感は別の意味に切り替わった。
 恐る恐る顔を覗き込んで、一気に脱力してしまう。
「寝てるよ……」
 寝息も静かな横顔に、ティエンはがっくりと肩を落とした。同時に、全く騒がしさに気づかない深い眠りの虜になるほど、レンが疲れていたのだとわかる。
 −−あいつはな、釣りしてる時が一番のんびりできるんだとよ。
 懐かしそうに、少しだけ愁いを帯びた横顔で言ったビクトールを、思い出した。
 解放軍時代のレンは、他人に休みを与えても、自分を甘やかそうとしない軍主だったと言う。恐ろしいほど自分の状態には無神経で、どれほど周りが冷や冷やしたかわからなかった、と男はごちた。たまに、ごくたまにできた休息に釣りに出かける事が、レンの唯一の楽しみだったと言う。
 今、こうしてティエンの前に居るように、穏やかな時間に包まれたレンの眠りを妨げる事は、罪深い事のように感じた。
「どうやったら、もっと自分を労ってくれるんだろな」
 やり切れない呟きが頬に落ちても、レンは目を閉じたままで、眠りの海から戻ってきそうにない。
  寝顔は、ティエンよりも幼く見える少年のものだった。レンの持つ真なる紋章は継承と共に成長を止めてしまうのだと、ルックに聞いた事がある。幼さの残る器の中には、ティエンがどうあってもかなわない才能が詰め込まれている。出会った時は、子供じみた僻みや妬みを抑えられなかったが、今は冷静に受け止める事ができた。
 −−僕にはなくて、君にしかないものがたくさんある。それは良い事も悪い事も全部合わせて君という人間を作る大事な要素なんだよ。無理して変えてしまったら、君は君でなくなる。……そんなの、“君らしくない”だろう?
 レンの言葉は、穏やかな笑顔と声と一緒になって記憶に刻まれている。
 愚かな言動を繰り返した自分にレンの優しさが痛いほど染みて、情けなくてたまらなかった。この人にはかなわない、と思った瞬間だった。
 もちろん、負けたくない。でも、自分は自分で、自分らしい軍主になれればいい、と思うようになった。
「それにしても、どうしようか」
 この暑さでは、昼ご飯の賞味期限はそれほど悠長ではない気がする。躊躇った末に、ティエンはレンの肩を揺すった。
「レンさん」
 軽く揺り動かすと、覚醒を促されたレンは眉をきつく寄せる。
「ん……」
 仰向けに体の向きを変え、手で陽を遮ると、レンは目をゆっくりと開けた。昼日中でも、紺碧の眸の深さは同じで、今までの熟睡が嘘のように眠気はない。
「レンさん、起きて。昼だよ」 
「ティエン君?」
 頭がはっきり冴えてないのか、レンは体を起こすと、ぼんやりとした仕草でティエンを見た。
「どうしたの?」
 怪訝に訊ねる。
「それはこっちの科白。無防備にもほどがあるよ。こんなところで寝転がって」
 人の事は言えないのだが、レンに説教するという立場が少しだけ嬉しい。
「だって、来たのは、ティエン君でしょ」
「うん。そりゃそうだけど」
 心外そうに言い返され、今度はティエンが怪訝になる。
「だからだよ」
「?」
 謎かけのように言われ、訝しさが深くなった。
「敵意や殺意、害意があったら、僕もそれなりに対処してる」
 すっと、一瞬だけ眸を怜悧に薙いで見せる。
「だから、だよ」
 にこりと笑う。
 親しい者だから警戒せずに寝られていた、と言外に含めていた。真意に気づいたティエンは、かあっと耳まで熱くなる。嬉しいのはわかるが、何も赤くならなくても良いだろうと自分に突っ込んだが、上った血の気を容易には調節できない。
「これ、昼ご飯持ってきたんだ。レンさん、お腹減ってない?」
 誤魔化し方としては稚拙すぎるきらいもあるが、持っていた籠を突きつけるように差し出した。
「へえ、ティエン君が作ってくれてたの?」
「違う違う。ルックがレストランから取ってきてくれたみたい」
 朝のあの状態で、弁当を作る余裕があるはずがない。
「すごいよ、ティエン君」
 何に関して感心しているか、大体の所は察する事ができた。だが、今回に限ってはルックの自主性によるものである。そのことを元にして、ルックもレンの事を心配していると引き合いに出したかったが、堪えた。
「食べていいかな?」
 確認をきちんと取る当たり、育ちの良さを窺える。同じく育ちが良いはずのシーナでは、差し出された時点で遠慮無く手を伸ばしているだろうけれど。
「うん。俺もこれからなんだ」
「じゃあ、一緒に食べようか」
 対決しているはずの二人は、湖を眺めながら昼食を摂り始める。味を賞賛し、のどかに会話を交わしていたティエンは、はっと我に返った。
「レンさん、調子どう?」
 ルックに言われたからではないが、聞く事は聞いておかなければ、と己に命じる。
「調子? 釣りの事?」
 口の中のサンドイッチを片づけてから、訊ね返してきた。水筒の口を開けながら、レンは得心したように首肯する。 
「なるほど、偵察に来たんだね」
「う」
 ストレートに質され、ティエンはサンドイッチを喉に詰まらせかけた。
「残念ながら教えられない。夕刻までね」
 むせる少年の背をぽんぽんと叩きながら、レンは微笑む。変わらない笑みのようで、強かさを秘めており、ティエンを怯ませた。
「釣れた?」
「さあ、どうだろう」
 笑みをそのままに肩を竦める。おかしな事に、はぐらかされていると思わせない。破る事のできない障壁をすっかり張られてしまったのだと、ティエンは悔やんだ。
 −−勝てっこない。
 仰のくと、澄み広がった蒼穹が遠い。日暮れまで、まだ遠い。


 暮れなずむデュナンを眺めながら、集合場所である船着き場で、ティエンたちは未だ来ないレンを待っていた。
「遅いじゃないか。何やってるんだい、あいつは」
 組んだ腕を指で叩きながら、ルックは苛立ちを抑えず言葉を吐く。待ちぼうけには十分すぎる時間が既に経っていた。
「さあ」
 まさか再び昼寝に突入してそのままなんだろうか、と思う傍ら、適当な相槌を打つ。ティエンの足下には三尾分の尾鰭を除かせた魚篭が置いてあった。
「三匹ねえ、勝てる自信あるわけ?」
「結構でかいの釣れただろ?」
 まるで勝てる気はないが、率直に口にすれば、ルックの毒舌の餌食になる事は目に見えている。敢えて愚を犯す事はしなかった。
「あ!」
 船着き場の反対側から、細い人影が入ってくるのを見つけ、ティエンは声を上げる。
「なんだい、あいつ、手ぶらじゃないか」
 ルックが、呆気にとられたように呟いた。
「やあ」
 二人に手を挙げ、笑みを浮かべたレンが歩み寄ってくる。確かに、手には何も提げていない。
「レンさん、魚は?」
 ティエンの問う声にも、力が入っていなかった。
「あ、これティエン君が釣ったの?」
 答えようと口を開きかけたレンが、ふとティエンの足下に目線を落とし、魚篭を覗き込む。
「全部食べられる魚だね」
「は、はあ」
 嬉しそうに言われ、どう返して良いか分からず、間の抜けた反応しかできないティエンの前に、レンが笑顔を上げた。
「君の勝ちだよ」
 横からの朱の残光に照らされた端整な顔が、和らいだ。
「え?」
「君の勝ち」
 レンが笑顔を浮かべている事も、優しげな眼差しで自分を見ている事もしっかりと認識できた。ただ、レンの言っている事が飲み込めない。
「どういう事?」
 思わず隣のルックに問うと、侮蔑に満ちた目で見られた。
「頭悪いね。あんたの勝ちだって言ってるじゃないか」
 肩にかかる亜麻色の髪を指で払いのけ、吐き捨てられる。心底馬鹿にされた口調をされているのに、その事に気づく余裕がティエンに無かった。
「まさか」
 この期に及んでも信じられない。
「嬉しくないの?」
「嬉しいけど」
 肩すかしを食らったような気分で、ティエンは実感が少しもわいてこなかった。
「レンさん、釣れなかったの?」
「釣れたけどね。持って来なかった」
 あっさりと言い、少しも負けた事に悔しそうな素振りがない。
「どうして? 大きかったとか?」
「大体、食べられる魚じゃなかったしね。他にも釣れたけど、小さいから逃がしたんだ。何にしろ、君には負けてるよ。だから、君の勝ち。おめでとう」
 淡々と事実を並べ、最後は心からの讃辞を込めた笑顔で締められる。
 レンにとっては、食べられる魚でなければ釣果に入らないらしい。ビクトールに聞いていなかった事実だった。
「じゃ、約束だからね。何でも言ってくれていいよ。僕に何して欲しい?」
 レンの態度と反比例するように、滑稽なほど混乱を極める感情を、ティエンは必死に静めようとした。
「え……ええっ、ちょっと待って。そんな急に言われても」
「考えてなかったの?」
 レンは驚きを露わにして、軽く目を瞠る。
「まさか、レンさんに勝てると思わ……」
 横顔に突き刺さる氷の視線に、口ごもる。
「いや、いっぱいありすぎてどれにしようかなあ、なんて」
 笑いは乾いてしまって、空しい風が胸を吹き抜けた気がした。
「そんなにたくさんあるんだ?」
「そう言う訳じゃ……ないけど」
 参ったなと言い淀む。
「やっぱ、初志貫徹かなあ」
 そのための勝負だったから、これからのためにも言ってしまうのは良い考えだと思った。個人的な願いを込めた命令も魅力的だったが、これも悪くないよなと内で自認する。 
「次から、俺が休んでくれって言ったら、ちゃんと休んでくれたらいいや」
「……それだけ?」
 レンに首を傾げられ、折角取り戻していた落ち着きを呆気なく手放してしまった。
「い、幾つも良いの?」
 一つで良いと謙虚さを示すには、この機会を逃す事が惜しすぎる。
「休ませてもらったからね。御礼も兼ねて、後一つくらいなら」
 本人が言うまでもなく、ここ数日冷や冷やさせられた疲弊の色はきれいに消えていた。
「じゃ、今度また一緒に釣りするってのは?」
 そんな時間を再び作れるか非常に怪しいが、実現の可能性が高い夢を一つくらい持っていたい。
「勝負でなく?」
「うん。二度はない気がするし」
 今回はビクトールの情報のおかげで、魚をこれだけ釣れたのだとわかっていた。だから、二度目は無い。
「いいよ。じゃあ、今度ね」
 命令というより約束と化してしまっていたが、既にお互いどうでも良くなっている。もしかしたら、レンは最初から勝負に勝つつもりがなかったのではないか、ともティエンは思った。
「大体、審判なんていらなかったんじゃないの?」
 ルックが挟んできた声音は、研ぎ澄まされている。顔を見るまでもなく、腹の立て具合は相当なものにできあがっているようだった。
「今度はルックも一緒に釣りするかい?」
 レンの誘いを、ルックは「お断りだね」とぴしゃりとはねつける。
「全く馬鹿馬鹿しい事に付き合わさないで欲しいよ」
 冷徹な吐き捨て具合を披露して、踵を音高く鳴らして城へと戻って行く。憤慨している事が、周りの空気にも現れている。触れれば切れそうな、刺々しさを纏ったルックが城内に消えるのを見届け、ティエンは肩を竦めた。
「あんな事言ってるけど、ルック、レンさんの事心配してたんだよ」
 こっそり耳打ちすると、レンはくすりと零す。
「素直じゃないからね、ルックは」
 笑みに馴染むように、優しさが広がった。レンの笑顔を見て純粋に穏やかになれる事に、これほどまでに安堵してしまう。
  ティエンも応えるように肯いて、口元が緩んだ。

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