君がくれたもの vitae aeternae
店を飛び出して、待ち合わせ場所まで走りきる事は、体力的にやや無理があった。暮れていく空気の中をかき分けるように走りながら、上がる息を呑み込んで足を動かす。
近づいてくるにつれ強まってくる焦りに、疲れてもつれそうになる足が叱咤される。
−−ちゃんと、待っている。大丈夫、ちゃんと居る。
逸る内心を抑えて、走った。細い影が視界に入るまで、安堵が浮かぶ事はない。
もしかしたら、今ここに居る事は夢で、次の瞬間目が覚めてしまうのではと不安が付きまとう。余りに平穏な日々が続きすぎて、懼れている自分がいる。
−−本当に、このままで良いのか。
温かさの中でいる事は心地良いに決まっていた。でも、それを失った時の事が頭に過ぎると、居たたまれなくて、落ち着かなくなる。
−−いつから、自分はこんなに弱くなってしまったんだろう。
ただ、弱さを自覚していなかっただけなのか、と思う。
朱と紫の混じる光りを浴びた橋の上で佇む痩身を認め、ほっとなった。頬杖を着いて、ぼんやりと西の空を眺めている。
「悪い、レン!」
声を上げると、ぱっとこちらへと顔を向ける。浮かべられた柔らかな笑顔が見えて、最後まで走りきった。
「なっかなか上がるタイミングが無くてさ。悪いな、待たせて」
毎度の言い訳。
「構わないよ。テッドは働いてるんだから……おつかれさま」
待ち合わせの時間にテッドが間に合う事は希有だったが、一度でも不満顔を見せられた事はなかった。ここから眺める夕焼けは綺麗だから、待っていても苦にならないんだと言われたのは一月ほど前。
「いや、やっぱグレミオさんの料理が冷めないように急がなきゃ駄目だろ。俺はもう、夕飯の事で気もそぞろだったんだぜ」
空腹を現すように腹を撫でてみせると、レンは笑いを零す。
「大丈夫だよ、グレミオは出かけに準備を始めてたくらいだったから、今行けばちょうどじゃないかな」
橋の上を過ぎる風に背を押されるように、二人は肩を並べて歩き始めた。無言で行き交う人々の沈黙に馴染むように、口を噤む。ゆっくりとした歩で橋を渡りきる頃、レンが口を開いた。
「ねえ、テッド……」
「ん? 何だ?」
ずっと内でタイミングを掴もうとしていた躊躇を感じていたので、テッドの反応は早い。傍らを見れば、レンはゆっくり顔を俯かせた。長い前髪で表情はほとんど隠れているが、もどかしそうに結んだ口元が見える。
「レン?」
顔を覗き込もうとする寸前に、レンは笑顔を上げた。さっき浮かびかけた懸念は徒労だと言わんばかりに、明るさを満たして作られている。
「今日、どういう日か知ってる?」
「今日?」
いきなり何を言い出すのか、と思った。今向けられた問いが、本来言いたかった事ではないのだとわかる。
なかなか答えを思い出せないでいると、レンの顔がかすかに曇った。
「テッドと会って一年目なんだよ」
「あ、そういや、そうだな!」
言われたからと言う現金さで大きく肯くと、レンは不審そうな目で見返してくる。さっき過ぎった悲しみは奥に押し込めてしまっていた。
「本当に覚えてたの? なんか怪しいなあ」
「年取ると忘れっぽくなるんだよ」
−−一年。
もう一年、まだ一年。言われて、時の速さにぞっとなる。こうやって時の感覚が曖昧なまま過ごして、訪れる別れの突然さに戸惑うのだ。同時に、流れの違いを思い知らされてしまう。
レンと会った日の事は、克明に思い出せる。最初見たレンの表情、自分の感情、記録されたものを読み起こすように蘇らせる事ができた。この記憶は、いつまでこうして鮮やかなままなのだろうか、とひやりと背を撫でられる。
「若いのに年寄りみたいな言い訳しないでよ」
何か言いたげな顔を瞬きでかき消したレンの肩を、叩くように抱き込んだ。
「いつかってことは覚えて無くても、お前と会った事実は覚えてるんだからいいじゃないか」
レンへの弁解と言うよりも、自分への誓いのようにも思える。今日、昨日、一昨日と彼方の日へと近づく毎に境は不確かになって行っても、そこに起こった出来事は残っていると、自分に言い聞かせている気がした。
「会ってなかったら、こうして話してる事はないじゃない。当たり前でしょ」
呆れたように横目で見、レンはふいと視線を宙にずらす。
「テッドって、たまに変な事言うよね」
テッドの情動に気づかないふりをして、やれやれとため息を吐く。人の気持ちに敏感で悟るのが巧いレンと、徐々に感情を押し隠す事が下手になってきている自分では、その差は縮まる一方だろう。
−−ずっと一緒には居られない。本当にどうしようもなくなる前に、離れるべきだ。
傷を深くする前に、自己保身だと嘲ってでも、今の内に離れてしまえ、ともう一人の自分が囁くのがわかった。何度も荷造りをし、心を固めようとした。マクドールの屋敷を出て、何度行った儀式だろう。一度だって成功していない。
「なあ、レン」
それでもいつかはと言う悲しみに、延々と続くであろう時の道を暗く塞がれる気がした。余りに弱い自分の心に、目眩がする。
「何?」
何の気ない風に返しながら、レンの肩が小さく震えたのを見た。おもむろに切り出すと、いつもそうだった。何かに怯えたように、一瞬表情を翳らせる。もしかして、察しているのではないかと思う事もあった。
「もし、永遠に生きられるとしたら、どうする?」
「……唐突だね」
今度の呆れは、完全に素のようだった。
「いつもの事だろ」
「開き直らないでよ」
レンにとっては脈絡不明な問いを向けたり、真面目に考え込むレンをからかったりして、こうした他愛もない会話は積み重なって、いつかは過去に流されていく。
−−忘れないように。いつまでも、忘れないように。
「永遠に生きるって……死なないって事だよね?」
真意を探るように双眸が深められ、何か思い起こす事があるのか、眉をきつく寄せた。
「そ。もし、そうなったらどうする?」
「無理じゃないかな」
レンの表情が慎重に静まって、テッドが見た事もないような冷たさで笑みを象る。
「物にとっての時間は限りがあるんだ。たとえずっと在るって言われても、形在る物はいつか終わりを迎える。この世界だって、いつかは滅びる。だから、永遠なんて生きているものが得る事はできないよ」
淡々とした声音で酷薄さを増した横顔に、テッドは口を開いたもののしばらく声が出なかった。
「シビアな上に、お前にしちゃ悲観的な言い方だな」
レンの言葉ではない事はわかる。そして、レン自身はその言葉を受け止めがたいと思っている事もわかった。
心にもない事を言い終えると、レンは普段の表情を取り戻す。
「テッドがいっつも屁理屈言うから、お返しだよ」
言われっぱなしで黙っていられるほど、レンの中身は柔ではない。不敵な笑みを見せられて、テッドはちぇっと舌打ちをした。
「俺は真面目に聞いてるんだぜ」
つまらなそうな顔を作ると、レンは笑みを潜めて目を細める。数多の想いを整えて抑えつける過程を見せないように、レンは先へと踏み出した。
「僕はね、ずっと忘れないようにするよ」
背を向けた格好で、レンはひそやかに零す。聖句を口にするように、厳かに、大切そうに紡ぐ。
「そんなに長い間生きてたら、きっと悲しい事も辛い事もたくさんあると思うけど、でも、そんな事ばっかりじゃないと思うんだ。ほら、こうしてテッドと会えて、友達になれて、すごく幸せだった時の事は絶対覚えてる。その事を忘れない。僕がずっと覚えていたら、僕の中で大切なものは生き続けられる。そうしたら、いつまでも一緒にいられるよね」
置いて行かれる悲しみも孤独の辛さも知らない甘さから来る科白だと、笑い飛ばしたかった。穢れのない世界で生きてきたレンだからこそ言える、きれいすぎる想い。屈託がなさ過ぎて、現にできる力を持つように強すぎて、胸に重く響く。レンの優しさと強さに、羨望を抱いてしまう。
−−いつまでも、一緒に。
この手に触れた物を永遠にできる魔法があれば。願う事は、何も罪ではない。だから、人は願う事をやめない。
「これも屁理屈だね」
そう言って笑いかけたレンの肩に縋り付くように、後ろから抱きしめた。もし、今振り返られたら、見られたくない顔を見られてしまう。抑えきれなかった弱さをレンに見せたくなかった。
「テッド?」
後ろにたたらを踏むのを堪え、怪訝に顧みようとする。
「お前って、単純すぎるくらい前向きだよな」
きつく肩に目を押しつけて、溢れそうになるものを抑えようとした。声の震えは抑えられた事に力が緩んだ腕に、レンの手が優しく触れてくる。
「もし、本当にそうなっても、僕には永遠なんて先は見えないから、今と少し先の事を考えるだけで精一杯だと思うよ」
腕を解き、右手を緩く握られた。大事なものを扱うように、温かさにくるんで微笑む。
「でも、僕はテッドとはずっと友達でいたいよ。今も少し先も、そのずっと先も」
これだけは譲れないと言うように、レンはしっかりと言葉に力を込めてきた。笑みの柔らかさと反する強い光りを黒眸に湛えてじっと見上げる。まっすぐ過ぎて、最初は目を合わす事が恐かった深過ぎる眸に安らぎを感じ始めたのは、いつからだったのか。右手に触れられる事はやはり恐れがあるけれど、はねのけるための脆弱な勇気がわき起こらない。
「レン……」
今までの三百年、これから同じくらいの時が過ぎても−−。
「俺……」
−−俺も、お前とは友達でいたい。ずっと。
レンよりも人の計りのもろさを痛いほどわかっていながら、願うように乞うように思ってしまう。強く強く。でも、声にする事ができない。思いが詰まりすぎて、言葉にできない。
「え?」
レンの追及を避けるよう、繋いだ手を引いた。
「何でもない。さ、急ごうぜ。俺がグレミオさんに説教受けて夕飯お預けじゃ、ひもじすぎだからな!」
「ちょ、テッド! いたた、引っ張らないでよ!」
走り出すと、レンはすぐに足並みを揃えて来る。
石畳を叩く靴音を追い越して、通りを駆けた。夜闇に眠ろうとする町並みに、何の懼れもなく踏み込んでいく。こうして繋げた手が大切なものの存在を伝えてきて、代替のない力として宿る気がした。
Nec possum tecum vivere,
nec sine te.
かなわない願いだからこそ、人は願う。
>>坊視点を読む
Copyright Reserved by Kohki