第壱話 還りゆく、星の道 <序>

 

 

 数刻前まで皓々と降っていた光りは、雲に遮られていた。
 軒を連ねる瓦房(いえ)の明かりは消え、路(とおり)に人通りはなく、城市(まち)全体が深い眠りに就いてる。
 しん、と張りつめ、闇も息を潜めた夜。
 瓦房の間を縫う胡同(ろじ)の奥で、凝り固まった黒が沈んでいた。湿った音が、辺りのしめやかな静まりに障っている。柔らかいものを引きずり、捏ね回し、水を啜るように鳴る音。
 蠢くものはしかし、闇に飲み込まれ、姿が見えない。
 最初は、ゆったりとしていた音の繋がりが徐々に間を狭め、急いて来た。もどかしく、力任せに引きちぎる継ぎ間に、昂ぶる息が漏れる。
 水音が跳ね、地に落ちた。
 ひた ひた ひた
 足裏を冷たく地に張りつかせて、影は通りへと進んだ。一歩歩を刻むごとに、頼りない足取りが確たるものになって行く。
 ひた
 足が止まるのを待っていたかのように、青白い紗が天から降りてきた。
 群雲から覗いた白い面を、影は仰ぐ。
 白くけぶる長い髪に囲まれた顔は肉がそげ落ち、痩せ細った線を描いていた。見る者がいれば、怖れ――異形、と呟いただろう。肌、外気に晒された皮膚は全て銀白色の毛で覆われている。こけた頬と落ちくぼんだ眼窩が、異相さを増していた。口の周りに塗りつけられた赤黒い液体が毛に滴り、顎を伝って麻の長袍に新しい染みを作る。だらりと投げ出され、赤く濡れそぼった両腕。その先、爪は異常に長く、鋭い。
 月を睨むように、羨望しながらも苦痛を強いられるように細まった双眸。色素の薄い瞳の中で、猫のように縦長だった虹彩が、丸く膨らんだ。
「ぐ……ぐぅ……」
 くぐもり、濁った声。半開きの口から覗く犬歯は尖り、大きかった。絡みついた唾液が赤いものを滲ませて口元から垂れる。唇は弧を作り、空気が唸るように、そして小刻みに漏れた。
 嗤っていた。
 声無く、喉を痙攣させて息を漏らす顔は、歓喜を滲ませている。 
 ――と、
「時既に遅し、か」
 疲労が濃いながら、厳しさをはらんだ声に耳朶を打たれた白い影は、ぞわりと髪をうねらせて、声の主を探し首を巡らせる。
 先ほどまで路を支配していた闇が人形(ひとがた)を取り、忽然と現れたようだった。
 視線の先に立つ黒髪の人物が歩を進めると、襟元から下げられた銀環が、りん、と涼やかな音を立てる。長身を包むのは、立襟の黒い長袍。丈は踝までで、両脇には腰まで切り込みが入り、下には同色の長袴を身につけている。胴に撒いた剣帯には細やかな銀飾りが施され、柄に房の付いた長剣を差していた。
「うぅ……ぐぅ……」
「美味かったか?」
 斜め上から射す月明かりで陰影がついた顔立ちは若く、少年のあどけなさを持ちながら、怜悧さの印象が強い。気の弱い者に直視する事を許さない研ぎ澄まされた眼光が、人好きのする顔とは無縁のものにしていた。
「く……くる……う……くう……くるう」
 喉を鳴らし音を空回りさせ、その者は怖じたように後じさる。
「それは貴様の利己であり、俺は、天の道に従い、貴様を封じるのみ」
 闇を裂き、空を切り開いて、銀光が白髪の者の胴を貫いた。
 聞く者が身を竦め悪寒を覚えるような絶叫が、路に響き渡り――静けさは、失われる。
 少年が、一瞬のうちに抜き払った剣を投げつけたのだ。
「天に拝し、遍満する四聖に礼し奉る」
 朗、と響く声。
 墻(かべ)に磔にされた者は、必死に四肢を動かして逃れようとするが、ままならない。どれほどの膂力によるものなのか――身を串刺しにし、墻に食い込んだ剣はびくともしなかった。
「此に在りし魔。一切を降伏し天帝の御心の大護をなす」
 剣の刀身が、月明かりに負けぬ目映い光を放ち始める。湯気が立ち上るように、もがく体を包み込み始めた。眼球が転げ落ちそうなほど見開いた目は憎悪に揺れ、醜悪さを増した顔を白光が優しく覆い尽くす。
「破砕したまえ」
 少年が、胸の前に掲げた両手の指を複雑な形に組んだ。
「忿怒したまえ」
 力を込めた言の葉を目に見えぬ刃に変えるように、低く鋭利に発せられる。
「害障を破摧したまえ」
 剣の生みだした光りが凝縮し、苦悶の呻きを上げる者の体に張りついた。体動は止まり、白い石像のように硬直する。
「滅」
 ほろり ほろり
 崩れた。無風の中で、白きかけらは砂屑に変わり、地に触れる前に宙に溶ける。
「生きて苦しむより、死んで人になれ」
 囁く横顔が、不意に翳った。
 月が雲に再び隠れる。

 戻った闇を――
 りん、と音が震わせた。


[HOME] [NEXT] [TOP↑]

Copyright Reserved by Kohki