
色薄い昊(そら)を陽が白く輝かせる昼下がり、韶仙皇国北府女泉省にある社殿に旅の道士が宿を請うて来た。
道士はまだ若く、二十を越えたかどうかくらい。同行者は二人。一人は道士より幼い少年で、もう一人はといえば、歩けるようになったかどうか怪しいほどの幼女だった。
道士に限っては、外見と実年齢がそぐうことは少ない。内に持つ神力が大きいほど、老化は成人する前でもって緩やかなものになる。儿童(こども)連れの青年が実は四十を越えていると言っても、知識のある者なら誰も驚かないだろう。
「長旅の途お疲れさまです、道士殿」
社殿の神主(しんかん)が心からそう口にしたのは、同行する面々から慮った故だ。黄天大殿発行の通行証が無ければ、邪推が頭を占めかねなかった。
「突然の拝殿にも関わらず、御快諾くださり、感謝致します」
丁寧な物腰と落ち着いた声音は、若年による浮ついた印象は微塵と伺わせない。
「鄙びた地にある社殿に皇都の道士様が立ち寄ってくださる光栄、こちらからお礼を申し上げたい」
応え、神主は深々と頭を下げかけて、青年の手に止められた。
「私はまだ若輩ですので、神官殿に頭を下げられるような人間ではありません」
社殿の女巫(みこ)が陶然となるのも無理無い面立ちに人好きのする笑みを広げ、続ける。
「一宿一飯の礼ではありませんが、何か私ができることがありましたら、おっしゃってくださいませんか」
「そのような事!」
とんでもない、と断りかけて最後まで言い切らないのは、機会を無駄にする行為への躊躇いだろう。神主は口ごもり、気まずそうに口を噤んだ。
「老師(せんせい)、来る途中聞いた話について聞かれてみてはいかがですか?」
その時に至って、幼儿(おさなご)を膝に抱き、じっと陳列品(おきもの)のように控えていた少年が口を開いた。
怜悧な印象の濃い美貌にふさわしい涼やかな声で言い、神主の視線に気づくと笑みを浮かべる。冷ややかさを拭った柔らかな笑顔に、男人(おとこ)もつられて頬を緩めた。
「そ、そうだな。
神主殿、聞けば幻獣の出現に居民(じゅうみん)が困られているとか。よろしければ話を聞かせていただけませんか?」
少年の申し出に驚いてか、青年は狼狽を誤魔化しそこねた。咳払いをし、神主に向き直る。
「お耳に入っておりましたか。私共の力不足をさらすようで、お恥ずかしいかぎりです」
恐縮したように肩を細めながら、神主は話し始めた。
女泉省に夜毎幻獣が現れるようになり、居民が犠牲になり始めたのは、半年ほど前。居民の不安は否応なく強まり、訴えに応えた社殿の道士が数カ月前に郊外に封じたと言う。だが、幻獣の力が強いのか、結界力は日毎に摩滅しており、そのたびに結界を張り直している。能力の見合う術士が社殿にいないのも、事態の完全な収拾を招けない原因となっていた。
「年軽人(わかもの)が試験胆量(度胸試し)にと出掛け、そのまま帰らない事も重なり、困っている次第です」
「幻獣のいる場所へ進んで行くとは」
青年は呆れに言葉を続けず、息を吐く。
幻獣を現す言葉は1つではない。“まがいの光りを纏う魔の者”、“人を惑わす美しい姿を象り、人の命を貪る禍しさを持つ人に非ざる者”、“獣の姿をとりて人を喰らう、残忍で狂気に満ちた異形の者”いずれであれ、人々の心を脅かし命を危ぶませる最も危険な存在だ。一旦幻獣に獲物として魅入られると、例え一度命拾いをしても、必ず幻獣に攫われ命を落としてしまう。だからこそ、力を持たない人にとって幻獣の存在は恐怖の具現である。
「わかりました。その幻獣を滅しましょう」
青年は悩むような間合いもなく、頷いた。
「しかし、封術士でなければ……」
幻獣の力を封じるのが道士、幻獣の存在自体を消すことができるのが封術士(術士)である。神主の戸惑いはもっともだった。
「こちらの少年が術士の技を心得ております。ご心配なく」
青年の促しを受けた少年は、にこりと笑みを浮かべる。知的な印象が幼さを抑えて頼もしさを相手に与える事が出来ていた。
「それでは、お願いします。あの、よろしければ、名字(おなまえ)を」
通行証の威光のためかすっかり失念していた男人は、遅まきの誰何を向ける。
「申し遅れました。私は、穂高(スゥイカオ)です」
青年は、変わらない礼儀正しさで頭を下げた。
「私は司(スー)です」
倣うように礼をし、少年は微笑んだ。
社殿前の参道でもある大路(おおどおり)は、何処(いずこ)でも賑わうのが常だ。しかし、晩飯前の人の活動が活発だろう時間帯にもかかわらず、2人の前に伸びる路は人影もまばらで閑散としている。
「試験胆量(きもだめし)に幻獣のいる地に行くとはなあ」
青年は、到底信じられないと天を仰いだ。
「愚蠢(ばか)は死ななければ治らない。死んでも治らない、か。
どちらであれ、この市鎮(まち)のためにも悪い話じゃないだろう」
ふん、と鼻を鳴らす音が受ける。
「司」
吐き捨てられた毒に、穂高は先刻以上に呆れた視線を少年に落とした。
夏と秋の狭間とは言え、日が暮れるまでは汗が滲む季節である。その中で、立て襟の黒い長套を着込んだ少年には暑そうなそぶりすら無く、額に浮く汗も見えない。
「それにしても、誰が老師だよ。驚いただろうが」
詮無いことを口にする事を避け、青年は話の筋を変える。
「俺が老師と言うよりはややこしくないだろう」
「それはそうだが」
不老を思えば、弟子が師の見た目の年齢を越える事は何ら不思議ではない。少年が言うように、納得までには疑念と戸惑いの障害があることは逃れられないにしても。
「俺が老師と呼ぶ人間は一人しかいない。喜びこそすれ、嫌がられる筋合いはない」
司の声は冷ややかさをはらみながら、揶揄も濃い。
「ああ、そうだな。全く寒気がするほどありがたいよ」
穂高は適当な相槌を返したが、少年の薄い笑みを横目にして憮然となった。
二人の付き合いは、次の冬が来れば六年を重ねる。司は黙っていれば理知的な美しい少年であり、赤の他人の前では、先の神官の前で披露したように卓越した偽装和善(ねこかぶり)で以て人の目も心も欺く。六年前、穂高も見事騙された。司に対し敬称を付け、老師と呼んで心から敬愛し慕っていた己の純粋さは、今となっては悪梦(あくむ)としか思えない。
司の本性を知った時の衝撃は、同時に多少の事では動じない強い精神を作り上げるきっかけになったとも言えた。とは言え、成長の一助となったんだから感謝しろと司に言われても、素直に従う気は毛頭無い。
無言の二人が大路を逸れるとさらに人寂しくなり、抜ける風も暑気を含まずに肌を撫でて行く。
「幻獣、太白の名残と思うか?」
太白の災い。ほんの数年前まで、韶仙の地を蹂躙していた恐怖。たった四人の、かつて記録に無いほどに狡猾で凶暴で残酷な幻獣に翻弄された五年間。四凶と呼ばれる幻獣たちがすべて封じられるまで、人々は怯え暮らした。
このまま闇に天を覆い尽くされ、人血に地を濡らして行くかに思えた暗き時代を終わらせたのは、一人の名も無き術士だった。
五人の神主長と幾人かの協力者と共に、一年の間に四凶を全て封じたのである。圧倒的な破壊力を持つ幻獣に怖じず、四凶に負けぬほどの霊力を振るい偉業を成し遂げた術士は、そのまま姿を眩ましてしまい行方は杳と知れない。
−− 太白の災 四凶封ずるは、天の遣えし彼の者なりか
平穏なる日々を取り戻す事が出来た人々は、深い謝意を含め、彼の術士を讃えた。 皇国を救うため天帝に遣わされた者は、再び天に帰ったのだと信じた人々の想いが、様々に色づけされた英雄譚を生んでいったのである。
「さあな。最初はそうかもしれんが、今は違うだろう」
司は、細い指で長い前髪を払いながら嘯いた。曖昧な言葉の並びに、穂高は眉を寄せる。
「大殿の術士の手抜かりと言う事か? 戒徒(チィエトウ)様はご存じなのだろうか」
既知である神主長の姿を懐かしく思い出しながら、 穂高は生真面目に推し量ろうとした。黒斗大殿は、皇国を守護する四聖の一つ、玄武を祀る神殿であり、北府の各省にある社殿を纏める地位にある。黒斗大殿の神主長である戒徒は、太白の災い時に四凶封じに貢献した英雄の一人であり、その点でも皇国で知らぬ者はいない。
「大殿は太白以来術士不足だ。地方の社殿が単に杜撰なだけだろうよ。直接実害が無ければ、自ら動こうとはしない奴らだからな。結界の張り直しも、実際はどうだかわからん」
期待に満ちない口ぶりで、黒眸には侮蔑がちらつく。
「太白からさほど時間も経っていないのに、情けない」
記憶は未だ確かに残っているはずが、危機感は月日が経つ毎に確実に衰えている。応じる穂高の口元に滲むものは苦い。
「人間というものは、忘れる事で生きていく生き物だ。具合の悪い事を押し込んで、明るい陽の中にいたいと思うんだろうよ。顧みなければ影は見えない。その方が断然楽に決まっているからな」
白い横顔の中で眇められた黒眸に不思議と難じる色はなかった。毒を吐いていた者と同一人物とは思えないほど厳かに静まった面が、かける声を失った穂高の方へ不意に向けられた。
にやりと笑う。
「当人共の胸倉をつかんで言ってやればどうだ? 怠慢もいい加減にしろ、とな」
無責任なけしかけに、青年は顔をしかめた。 意表を突かれた静かな表情は、やはり意図的なものだったのではとうんざりとなる。
「お前がやればいいだろうが」
玩笑(じょうだん)と真的(ほんき)の境界を見せず、探ろうとする思惑を強かな双眸で敢えなく断たれて、穂高は舌打ちを禁じ得なかった。
「俺は愚蠢の改心には期待しない。自分でやった方が早いからな」
穂高以外では悪意しか感じ取ることができない痛烈さに、青年の頭が鈍い傷みを訴える。
「黒斗に着いて、間違ってもそんな言葉を口にするなよ」
後三日もすれば、北府の首府である斗音に着く。斗音は、二人の最終目的地でもあった。
皇都を発って三週間。普通の旅程より時間を要したのは、幼すぎる儿童を連れているからだろう。同年齢の儿童に比べればはるかに手がかからないとはいえ、大人三人とは話が違う。余分にかかった日数分路銀が怪しくなったりしなければ、こうして社殿に押しかけて宿を乞う事はなかったはずだ。
「これから居座るところで、わざわざ自分から居心地を悪くする事もあるまい。まあ、戒徒は愚蠢ではない方だからな。手下も愚蠢で無い事を祈るばかりだ」
薄い笑みを浮かべ、 黒塗りの瓦屋頂に照り返る光りに目をわずかに細める。西に傾いた陽は白く空を撫で、浅く朱を混じらせ始めていた。
「手下じゃないだろ、神主(しんかん)だろ」
他人と関わることなく通り過ぎてしまっていれば、司の毒舌にさらされる数も少なかった事だろう。やり切れない思いで、穂高はため息を吐いた。
神主に教えられた場所に辿り着いた時、夜の訪れはさらに近くなっていた。
天は朱に染まり、見渡す限り地は白い。広がる光景を前に二人はそれぞれの想いを質すように無言で、風の囁きだけが静寂を密やかに揺らす。
「見事だな」
青年の声に感嘆がこもり、零される。
目の前の平地を埋め尽くすのは、白い花だった。幾本もの長細い花瓣(はなびら)が丸みを帯びて中心を包むように囲んでいる。
「何という花だ? 変わった形だが美しいな」
身を屈めて一本を手折ると、しげしげと眺める。茎の緑は薄く、つるりとして滑らかだった。
「やれやれ。さすがは舒(シュー)家の公子(お坊ちゃん)だな。医生(いしゃ)の勉強だけで頭が一杯だったと見える」
「悪かったな」
少年の揶揄にむっとしながら、手の中の花を眺める。
白くひっそりとした花から伸びる淡い緑の茎はしなやかで、楚々としていた。
「美しいけれど、どこか寂しそうな感じがするな」
同時に見出した寥蕭の翳りに、過日の麗容が重なる。
「この花を見ていると、何となく茅(マオ)様を思い出さないか?」
黄天大殿の神主長である茅は、神主として最高位の座に就いて日はまだ浅いが、国民の敬慕を一身に集めている。皇王の信頼も厚く、叡明と慈悲深さを兼ね備えた眼差しは、誰もが心服せずにいられないものだ。にもかかわらず、光に満ちているはずの玲瓏な姿から、孤影蕭然とした印象をどうしても拭えなかった。
独り言のように感想を続けたところで、司がいきなり声を立てて笑い出した。
「なんだよ」
憎たらしいほど沈着冷静で、声量を一定以上太めない少年の珍しい姿に、穂高は訝る。
「たまにはお前も楽しませることを言う」
満面の笑みを向けられ、いやな気分になるのは自分くらいだろうと青年は思った。
司が茅に対して好意どころか、寧ろ侮蔑を露わにする事がある事は知っている。知っているだけで、思いを根付かせる理由は分かっていない。
茅と司は、志を同じくして肩を並べていた時でも、言葉を交わしている場面は殆どなかった。目には近しい距離を挟んでいても、埋まる事なき深い溝を横たえていた。誰からも尊敬されるべき二人であるにもかかわらず、お互いが憎み合っているようにも思えた。信じられないからこそ、こうして茅の事を不意に口にする事があり、そのたびに司に冷笑される。
「何だよ、なんて花なんだ? 教えろよ」
花と茅の印象を結びつけた事が、図らずも少年を愉快にさせた意味がわからなかった。困惑を感じながらも乞うと、皮肉そうな笑みが浮かぶ。
「そのうちな」
白い花に囲まれた黒衣の少年はそう嘯くと、青年に背を向けてしまう。司の頭の中で何が巡らされているのか大かた察すると、穂高は風に揺れる白い原へと踏み出した。
天と地を繋ぐ部分が蒼闇に滲むように溶け行く。東の縁から昇ろうとしている月亮(つき)が、間もなく新たな照源になるだろう。
「結界は張り直したか?」
振り返りもせず、戻ってきた青年に司は問うた。
「わかっているのに聞くな。何処から現れるかわからんから、同じ枠にしておいた」
身体の疲労と言うよりも、術の行使による疲弊でため息を浅く吐く。
「結構」
慇懃な返りは穂高の予想したもので、怒りを覚える事もない。代わりに問いを向けた。
「お前は、何か策略(さくせん)でも出来たのか」
「策略? 何のだ?」
そこでようやく顧みた少年の双眸は、相手の発言を訝る色に深い。問い返された穂高は、こめかみを押しつける疲労に首を擡げた。
「何のってお前、幻獣を巧く封じるための策略に決まってるだろ」
「そんなものが俺に必要だと思ってるのか?」
むしろ発言者を憐れむような司の表情に、青年は頭を振る。
「思ってないんだろうな、お前は」
欠けの見当たらない姿を時間と共に見せ始めた月明かりは、西から射す昼の残光に抗うには控えめ過ぎた。山の稜線上に浮かんだ自身だけがひっそりと輝く事が精一杯なようで、儚い。
「しかし、ま、祥絢(シャンシュアン)を預かってもらえたのはよかったな」
辺りの空気に混じり始めるものをいち早く察知するために気を配しながら、穂高はお互い共感できるであろう唯一の事項を口にする。
「まあな。あれでは囮子(おとり)くらいにしか役に立たん」
真顔で返ってきたのは、情けというものが潜んでいなかった。 己の実の女儿(むすめ)に対してつれなすぎるが、祥絢に接する態度は口ほど邪険ではない。親としての優しさを垣間見せる事もある。本人の無意識の行為だからこそ、口で確かめる事はない。司から、素直な反応を得られるはずがないとわかっているからだ。
会話を交わす間にも、空気はさらに蒼さを濃くして行く。朱が崩れ、辺りが藍に染まり始めると、花の白が一層映えて見えた。
「近いな」
ぽつり、と少年が零す。その横顔には何ら警戒を促すものは浮かんでいなかったが、穂高は、ふと声をかけた。
「なあ、司」
「何だ」
別のものに意識を向けている司から返りがあっただけでも、大したものである。
「お前、剣はどうしたんだ?」
手ぶらで立っている少年を改めて眺め、厭な予感を覚えた。今更だと自嘲したくなる事に、青年の顔に弱い笑みが浮かぶ。
「忘れた」
短く答える司からは、焦りは全く窺えなかった。
「忘れたって、お前」
「あれがなくとも、こんな結界に閉じられる无能(能なし)は事足りる」
穂高の心情なぞ解する気は初めから無いようで、少年は事なき風に応じる。目に映る姿そのものは逞しさとは無縁なまでに細いが、青年には傲岸不遜な佇まい以外のなにものでもない。
「力強い言葉だな、安心するよ」
言葉通りの思いを込めるのは癪に障り、穂高は呆れのため息で終わらせた。
「お前も无能呼ばわりされたくないだろう。見えたらすぐに聖八環を唱えろ」
「ああ、わかってるさ」
少年の人となりも分かっているので、それ以上の反論は喉の奥に押し込む。口にした通り、司の令(いいつけ)は幻獣封じでは必要不可欠な施術だ。敢えて少年が口にするのは、ただ司の性根に因る。
「見ろ」
言われ、視線を上げた。
青ざめた月光を返し、静謐とも喩えられる輝きを放つ花で視界は満たされていた。だが、次に認めた異に青年は息を呑む。
「色が!」
ほぼ中央の辺りから、赤い染みのようなものが広がっていた。清浄なる光りの中で、それは毒々しい血色のように見える。錆びた臭いを風に感じたように穂高は顔をしかめた。
花の変化を質すよりも先ず、青年はやるべき事を忘れず指を複雑な形に次々と組み替えていく。
「天と地に祈り奉る。是れ大聖呪なり、是れ大明呪なり、是れ無上呪なり、是れ無等々呪なり。
此の呪、此の力、望む形とならん」
二人を中心に、清らかな風が舞った。力を持たぬ者でも呼吸が楽になった事に気づくだろう。満ちたのは穂高の神力そのもので、邪を払い術士の霊力を増強する場を作り出す聖八環と言われる術である。
幻獣の封術に於いては、術士の術を補助し、幻獣の魔力を減じるのが道士の役割だ。術士と息を合わせ、術士の施術をより行いやすくする事が要求される。
穂高の術が完成すると、次は司が口早に呪を唱えた。
「万象在りし、天象、地象全ての象り。
此の元に臨み、宿れ」
言葉に込められる念に応え、少年の手の中に光りが生まれる。それは形をすらりと伸ばし、片刃の剣となって握られた。
視線と剣の先、朱の海に影が忽然と立ち上がる。幻から現に変じるように、影の色は濃い。ゆうらりと頼りなく上身を泳がせるのは、銀光を纏った痩身だった。目を凝らせば、全身を覆う同色の毛並みを認める事が出来る。長い銀髪が風に揺(あゆ)く様は一見優美だが、肉が削げた顔の線と耳まで裂けた口が異形である事を示していた。
幻獣が歩を進めると、それにつれ紅き色が支配を広げて行く。異形の者を導くように、司たちの方へと徐々に魔力に満ちた路を伸ばしていた。
「我に破邪の力を
其の身、在るものを替(すた)れん」
凛と締まった音を響かせ、司は屹と眼差しを尖らせる。
「司」
穂高は場の維持に力を送り込みながら、現れた幻獣の姿から感じたものに意識を更に引き締めた。
「ああ、神主の話は大袈裟ではないな。かなりの数を食っている」
剣呑に目を細めた少年は、冷静さを崩さない声で分析を告げ、口の端に薄く笑みを刷く。
「だが、この程度では俺の相手にならん」
不敵な表情に箔をつける、強かな言葉。この態度がけして虚勢ではない事を、穂高はわかっていた。
青年の構築した場に近づくや、幻獣は穹(てん)を仰ぎ、咆吼する。
端境でたじろいだかに見えた血色が、弾けるように一線を越えて迫ってきた。司たちの足下の花まで紅く変じ、地に縫いつけようとする禍々しい力に、青年は純粋に怖気を感じる。
「威勢は良いな」
傲岸さを増して呟くと、少年は手にした剣を幻獣へと放った。空(くう)を裂き、風を追い越し、眩い一閃が目標物を突き通す。何の抵抗もなかったように幻獣の腹部に沈んだ光りが剣の形に戻ると、幻獣の歩が止まった。同時に、耳を塞ぎたくなるようなおぞましい絶叫が幻獣の喉から上がる。
「ぐ……ぐうぅ……」
自分の体を傷つけた凶器を抜こうとあがくが、剣は微動たりとせず、幻獣は苦悶に顔を歪ませる。
「哀れなものだ」
少年の深眸がひっそりと沈む。 己の呟きを嘲るように鼻を鳴らすと、司は空になった手で印を組んだ。
「天に拝し、遍満する四聖に礼し奉る」
厳かな音にのせるのは、世界を統べる至高の存在へと捧げる聖句である。それに応えるように、幻獣よりも月光よりも澄んだ、侵しがたい純白の輝きが剣を磨き上げて行った。
「此に在りし魔。一切を降伏し天帝の御心の大護をなす」
幻獣の色素の薄い眸が大きく見開かれ、縦長の虹彩が更に細長くなる。憎悪に燃える双瞳が司を捕らえる事は出来なかった。幻獣の全身をかすませる白い光りが、濃さを増して醜悪な顔を覆い隠してしまう。
「破砕したまえ
忿怒したまえ
害障を破摧したまえ」
力を宿らせた言葉が鋭く発せられる毎に光りは質感を増し、幻獣を白い彫像へと変えた。地を這っていた苦悶の呻き声も絶える。
「滅」
少年の細い指が最後の形を結ぶと、像は崩れた。ほろりほろりともろく姿を無くて行く。かけらは紅い花の上に雪のように舞い散り、宙に溶けた。合わせるように、花は色を消していき、元の色を取り戻して行く。
幻獣のいた場所を中心に赤は力を次第に失い、やがて、夜風に揺れる花の姿だけが残った。
「穂高、此処がどういう場所かわかるか?」
印を解いた司は、背を向けたままの格好で青年に問いを向ける
「? いや?」
前置きのなさに、穂高は相手の思惑を探るように眉宇を寄せた。表情が見えないので、巧くいくはずもない。
「此処は元々墓地(はかば)だったのさ」
静かに嘯かれた不吉な言葉に、青年はたじろいだ。足下に目をやり、墓石を踏んだように一歩身を退く。
顧みた少年は黒い眸を冷徹に薙いで、さらに継いだ。
「人の死と縁深い場所にこの花は咲く。天蓋花と言って、幻獣の魔力に反応し色を変える。食われた人の恨みや流した血を示すように、紅く色を染める」
身を屈めて一輪を手折ると、花瓣(はなびら)がひとひら、はらりと地に落ちた。
「別名は死人花」
ゆっくりと眇められた目にともる思いを完全に見抜くには、希薄すぎる。薄くとも、憐憫がたゆらに浮かんでいた。幻獣に対する時と同じだった。司は非情で冷徹な言動を異形の者に示しながら、相反するものを覗かせる事が時としてある。次の刹那に幻のようにかき消したとしても、偽りではなかった。
「ぞっとしないな」
名前に込められた言霊を感じたように、青年は呟いた。不吉なのに、孤独な悲しみを拭えない花の姿に哀れさを感じる。
花の名を知らずに表立つ印象だけを通して茅の姿を見た自分は、花の名も意も既知であった司の目には滑稽に映った事だろう。得心した穂高の耳に、少年がひそやかに笑うのが聞こえた。
「もっともこの花自身は、そんな名前で呼ばれたいとは思っていないだろうよ」
司は口の端を歪め、一人ごちるように呟く。
「そうだな」
神妙な顔で相槌を打つ穂高に、少年は笑みを深める。花を手離すと、寸前までの話題に興味を失ったように表情も静めてしまった。
「さて、俺たちは何処かで酒を仕入れて帰るとするか」
司は目線で促すと、白い花の波を捌いて青年と肩を並べる。
「今夜は月が見事だからな。何もない田舎だ。せめて月くらい愛でてやるとしよう」
少年の誘いに穂高は頷き、二も無く継ぐ。
「賛成だ」
二人は顧みることなく、立ち去った。
殺伐とした空気は既に無く、蒼く沈む寥(そら)の下で花は揺れる。
かつて失われた命を弔うように、今消えた幻獣へ恤(あわれ)みを手向けるように、花瓣は青白く濡れていた。
終
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