第五章 白き約束の果てに

 

 「着きましたよ」
 情けなくも目を閉じてしまっていたルヴァンの肩にイザティスが手を置かれ、慌てて瞼を開いた。
 目の前に広がる奇妙な光景に瞬いて、ぐるりと見渡す。側に二人がいなければ、もっと怖々な動きになっていただろう。
 森、とクロエが言っていた事は偽りではなかった。
 立ちこめた霧の向こうに木立が見え、葉を茂らさない伸びやかな幹や枝は全て白に染まっている。今少し霧が濃くなれば木の存在を認めることは不可能だろう。濃密に佇む霧はルヴァンの体に触れているが、湿っぽさも冷たさもない。何かから遮ろうとしている意図を示威しているように思えたのは、ここが普通の場所ではないと最初からわかっているからだった。
「変わった、場所ですね」
 そう言い表す他ない、率直な感想だった。
 三人の前には切れた木立が作った細道が伸びているが、霧のためにほんのすぐ手前ほどしか道を視認できない。
「私たちから離れないでね。はぐれちゃうと、私たちにも見つけるの難しいから」
 耳をそばだてる存在があるかのように、クロエは声を細めた。物騒な忠告に、ルヴァンが気を引き締めかけたところで、剣を持っていない方の腕に、クロエが自分の腕を絡ませる。
「でも、こうすれば大丈夫だよね」
 少年に吃驚した顔を作らせることが目的だったのか、相手の表情を見て屈託のない笑い声を立てた。
「クロエ、ルヴァンさんをからかって遊んでないで、あの方にお詫びする言葉でも考えたらどうですか」
 ルヴァンを挟んだ反対側から、イザティスの憮然とした声が割り込んできたが、言われた当人はきょとんとなって首を傾ぐ。
「お詫び? 何の?」
 とぼけている本意は明かで、青年は苛立ちの濃いため息を吐いた。真面目に反応して憤りを示すことも馬鹿らしいと思っているようだった。
「無断で飛び出して、連絡一つ寄越さなかった事ですよ」
 声の尖り具合を察している様子もなく、クロエは「ああ」と軽く相槌を打つ。
「イザっちが行ってきてくれたじゃない。話してくれたんでしょ?」
 間に挟まれていたたまれなくなっている少年の表情に気づいていないのか、クロエは組んだ腕に力を込めて答える。
「私は事実を申し上げただけです。あなたのことまで、何故私が」
 苦々しく言い捨てて、何処までクロエが言い当てたかは探らせない冷たいものだった。
「そもそも、あの人は私が本気で謝ってると思ってないから、いいのよ。無駄なことして機嫌悪くさせるのも馬鹿らしいじゃない?」
 理が通って聞こえる耳心地の良い賢しさに、イザティスは言い連ねるのは無駄だと判断したのか、口を噤んでしまう。
「あの……聞いても良いですか?」
「なあに」
 見通しの悪すぎる白く霞む道を進みながら、クロエの声だけが明るい。何の気無い、場所を選ばない無邪気さに救われたことは、今までにも幾度もあった。だから、時に肝心な部分で黙されても、悪意がない事だけを拾ってこられたのだろう。 
「その、これから会う人って……どのような人なんですか? 精霊のお二人よりも、上にいる人って……」
 冷静に考えを募らせていこうにも整然とならず、曖昧の加減に問う声もはっきりとならない。
「この世界一の堅物ね」
 まんざら冗談ではない口調に、「クロエ」とイザティスが窘める。
「本当は優しい方なんですよ。そうでなければ、私たちを側に置こうとは思わないはずです」
 滲む苦渋はいずこに向けたものなのか。イザティスは淡々とした口調へ戻せないことがやるせないように一つ息を吐いて、継ぐ。
「最初の生命、最初の人、最初の竜、適切な言葉はいくつもあって一つもないのかもしれません」
 謎掛けのような言葉を落として目を細める青年の横顔を、ルヴァンは見上げる。
「竜?」
 既に絶滅したはずの生き物であり、神代から歴史を引き継ぐ場所等で建築物の装飾として残っている程度で、現代人の実生活とは馴染み薄い。ルヴァンにとっても、架空の域からでないものだ。
「でも、人なんですか?」
 到底結びつかない二つの存在を抵抗無く並べること叶わず、少年は怪訝さを隠せない。
「……そうです」
 子細が答えられることはなく、また、イザティス自身も巧く言い伝えられないことにもどかしそうではあった。
 歩を進め後ろへと流してきた空気とは別に新たに生まれた風に誘われるように、ルヴァンは前方へと視界の中心を戻した。
 靄が薄まっていることに気づき、同時に両脇の白い木々も幻のように輪郭がさらに朧ろになっていく。景色の変化を認めた次の刹那、前方から純白の一線が射し込んできた。
 目が眩むと剣を持った手を顔の前に掲げたところで、光りは溶けるように広がり、柔らかく周囲を包み込んだ。
 明るさに慣れた目が最初に認めたのは、銀色に輝く白い大きな塊だった。もっと歩を下げ、仰がなければ全容が拝めないほどに巨大なものにルヴァンは声が出ない。
 辺りの翳りを払い、明るさで満たすよう自身が光を放って見えたものが不意に動き出した。
「!」
 驚きを飲み込んで、ルヴァンは後ろへとよろめく。
 塊から長い物が伸び上がったかと思うと、それが少年の方へともたげられた。いかなる季節の空でもいずこの海であれ例えにあげられないほど、美しく澄んだ蒼い眸が、ルヴァンを映す。圧倒させる白銀の巨躯と似つかわしく、その眸は深い智慧を湛えて静かだった。
「竜……」
 書物の中の絵とまさに重なる姿に、ルヴァンは呟く。 
 いつの間にかクロエの腕は離れており、見れば、イザティスと共に片膝を着き、深く頭を垂れている。目の前への者への敬虔な仕草にルヴァンも倣おうとして、曲げかけた膝を止めた。
 地を這うように低い唸り声が竜の口から漏れ出し、瞼が一度だけゆっくりと開閉される。
『よくぞここへ来た、人の子よ』
 頭の中で響く声は、言葉ほどに歓迎の意を滲まさない、怜悧に冷やされた若者のものだった。


 間の抜けた反応なら、思慮を伴うことなくできただろう。
 だが、ルヴァンは声が出なかった。驚きがまず最初にあって、次にやって来た戸惑いが腰を据えてしまう。怖じはないものの、言葉が舌の上で固まって、取ろうとする形が自分でも理解できない。
「あの、俺……」
『お前の名前など、ここでは必要ない』
 断ち切る冷たさに、ルヴァンはまばたいた。
 他との関わりを厭い、拒む意志は強く、クロエから事前に聞かされた知識にそぐっているものだった。その裏付けをする悲しみに気づかなければ、隙さえあれば固まろうとする空気の中で、もう少し落ち着きを得られたかも知れない。
『お前の望みはわかっている。門へと赴くだけの力を欲しているのだろう』
 先に相手が口にしてくれた事で、ようやく次への弾みを手に入れられる。
「そうです」
 不安を横に、しっかりとした音にできた。欲を言うならば、もっと毅然と顔を上げて、蒼い瞳と対峙したかったが、その意気地は、竜から発せられる威圧感に萎んでしまっている。
『それは、お前自身のためか』
 問われ、また言葉がつまづいてしまう。
 門の在処を知る目的は、アンフィーナの友人である少女の居場所に繋がる手がかりだからだ。少女の無事を切に祈るアンフィーナのためであって、厳密にはルヴァンのためではない。少女がどうあれ、ルヴァンの今までとこれからに及ぶ影響があるかというと、無いに等しいはずだ。
 しかし、知り合った女性が悲しみを募らせる姿を見たくない事は、紛れもなく自分自身の望みだった。
「違うかもしれませんけど、俺はそのつもりです」
 合わないつじつまも素直なまま、応えにする。たとえ飾っても、自分を見下ろすこの慧眼の前には全て意味を成さないと思った。
『それは優しさというものか? お前に何か報いるものなのか?』
 容赦なく切り込み、ルヴァンの心中を揺さぶる意図なのだろう。同時に、そのような問いを作りだしてしまう心情が痛かった。きっとこの存在も、昔は優しさを感じていたからこそ、このように質したいのではないかと思えてしまう。
「そんなこと……考えたりしません」
 誰かに問い、答えを思いの一つとして聞くことで、“何か”を得たいのだろう。落ち着かないものを平定して、穏やかにする何かを。そして、自分ではその乞いに応えられない、と思った。
「そんな……見返りがなければ成り立たない優しさなんて、違うと思います」
 派生させるもとは数え切れないもので、優しさの形もまたひとつではない。けれど、それに損得が絡めば、全く質を違えてしまう。
 竜の太い喉が低い唸りをこもらせ、ルヴァンは胸が竦んだ。
『私は、人には何も期待をしていない。信じる事はとうにやめている』
 だから、と何も続かなかった。続ける意義すら捨て去って、ぽつりと落ちる。
「フェリオ様、どうか、今一度お力をお貸し下さい」
 口添えをしたのは、クロエだった。膝を着き、頭を深く下げた姿勢を保っている。竜の名前はフェリオと言うらしい。きっと古代神聖語で意味深いものだろうと、そのくらいは推せた。
『お前に、私の苦しみがわかるというのか』
 怒りも何もない、無感情な声だった。一層に、悲しみを引き立てて聞こえる。
「あなたは、長い間生きてきたんですよね。それほど長い間に会ってきた人たちは、そんなに厭な人ばかりだったんですか?」
 ルヴァンは堪えきれず、口にした。アヴィアスにいる祖父やリミカのように、自分を守るためにも頑なになろうとしているのでは、と慮う。
 いらえは、深く長い竜の吐息だった。
「イザティスさんやクロエさんは人じゃないそうですけど、あなたのことをわかってくれてますよね。他にも、そんな風にわかってくれる人、いなかったんですか?」
 人間では想像もできない途方もない永き時を生きていれば、この世界の変遷、時に非情な流れを見てきたのだろう。世界の根幹に関わる存在であれば、なおさら、間近に感じてきたに違いない。目を逸らし、やがては死という忘却で途絶えさせる事ができる、人とは違う。それが、どれほどの苦難を伴うものか、ルヴァンが自問しても、しょせん同情は同情でしかない。
『よもや……お前は、記憶が残っているのか』
 ふと、こわばりが解けた声に、ルヴァンは訝りが先立った。
「何の、ですか?」
 もしや、自分に向けたものではないと思えるほど、おぼろげにささやかな声だった。
『何故、同じ事を……ありえぬ』
 長い首で宙を仰ぎ、蒼い眸が細められる。見えぬ天から返らぬ答えがこぼれ落ちる事を求めるよう、虚しさが影となり巨躯の下に落ちていた。
『お前は、信じるものがあるか』
 やがて、人に問う。
 ルヴァンは、この竜−−フェリオが抱え込む寂しさは、竜が落としている影よりも濃いのだと思った。
「一つなんて選べませんけど、あります」
 初めて、悩まず間を置かず答えられた。自信が笑みを浮かべるだけの余裕をやっと与えてくれる。
『お前のような者ばかりなら……』
 苦渋を押さえ、笑いが混じっていく。
 白い巨体が輝きを増し、全てを白に満たしていく中、ルヴァンは眩しさに眇めた。実際は目が痛みを覚えるようなことはなかったが、目の前にある意思の変化を訝り、直視を遠慮する思いがさせたようだった。
 光が凝縮し、人形を取ったことを認めた刹那、弾ける。
「懲りない愚かさよ、繰り言を諦めない、私も人と変わらぬか」
 一人の少年が対峙していた。
 肩口でそろえた髪はなめらかな銀色で、日に当たらぬ病弱さを誘わせる青白い肌は丁寧に整えられた美しさを象っている。新緑の柔らかさであると同時に鮮やかな光を備えた双眸が、ルヴァンを見据えていた。自分の弱い部分をも打ち消そうとする、熾烈さが宿っている。
「この姿の方が、話しやすかろう」
 涼やかな声とそぐった容姿は、やはり、親しみを欠けさせたものだった。
「人の子よ、お前のその思いが、お前の生在る内は偽りないものと証を立てよ。さすれば、望み通り、剣の封印は解いてやろう」
 間を取れず黙してしまっていたルヴァンは、竜であった少年の言葉に我に返った。
「証、ですか」
 一体どうやって、という真っ当な問いに、厭な予感が過ぎる。こうしたものに限って、よく当たった。
「力が全てではない。されど、意思の力は時に何よりも勝る。そう、かつての私は思っていた」
 まだ、人を信じていた頃の−−。
 音無き添えに、ルヴァンは提げていた剣の鞘をしっかりと握って現実の感覚を求めた。気を抜けば、フェリオの想いに圧され、ここにいる自分の存在は敢えなくなりそうだった。
「その剣にお前の力を託し、この剣の思いに打ち勝ってみよ」
 白く、幼さを感じるほどに細い手から、一閃の濃い白が伸び、星のきらめきを散らして一振りの剣を形づくる。
 ルヴァンの持つ剣と全く同じ拵えの剣だと、遠目にも認められた。抜き身の刀身は淡い光りを纏い、透き通るように清らかだ。人の命をも奪える凶器の悍ましさとは無縁の、剣でありながらあり得ない事実を信じさせる力を確かに持つ。
「それも、聖剣なのですか」
 聖魔大戦で失われ、シリュースが持つものしか残されていない−−そう、クロエは話していたはずだ。
「これは、全ての一。お前の持つ剣は、この剣から生み出された支えの一つでしかない」
 言葉と反し、誇るものは薄く、威光を見出そうと自身すらしようとしない。
「過ぎしあまたの想いよりも強い思いを剣に授けよ。そうでなくば、敵わぬぞ」
 顎で抜剣を促され、ルヴァンははっと息を飲んだ。急に剣の重みが増したような気がして、こめかみの辺りが鈍く痛む。
 抜く人間を選ぶという、計り知れぬ“意思”を宿した剣。
「大丈夫ですよ、ルヴァンさん」
 イザティスの声に振り返ると、後方に控えた青年がルヴァンの視線を受け、頷く。
「大丈夫」
 肩を並べたクロエも、しっかりと強い表情で頷いてみせた。
 −−ここに一人ではなく、信じてくれる“人”がいる。
 些細な事かもしれない。けれど、不安を消すに足る力になった。 
 柄を握る手に金属の冷たさが馴染み、あり得ない柔らかさとして感じた。左手で支えた鞘からも温もりを感じることは錯覚かと、しかし安堵しかない。手を引けば、覚悟した拒みはない。するりと滑り、硬さが触れ合うような感触は一切伝わらなかった。
 鞘からあらわになった刀身が清らかな光を溢れさせ、手にもまとわる。シリュースが抜剣した時目にした光は、距離の分だけまばゆく、熱すら感じる濃密さだった。
「行くぞ」
 先制を告げてくれたことは、せめてもの情けだったのだろう。そう思うしかないほど、相手の剣は、油断を禁じる言葉すらのんきなものだった。元より容赦をする気がない苛烈さに、ルヴァンは柄をしかと握り、剣を受ける。
 剣がぶつかる音を立てることすら許さない早さで、次なる薙ぎ、突きが迫って来た。
 まともな剣合わせは、ファーレスとのものしかない。彼の人の剣技は、女性とは思えぬ−−私情が烈しく絡んでいたにしろ、隙のない鋭さで圧倒して来た。だが、今押して来る剣は、感嘆も怖じも奪う、強さだった。
 ルヴァンよりも小柄で、華奢にしか見えない痩身で、決して細身ではない剣を自在に操っている。技量、膂力、いずれも抜きん出ているのか、人智を越えた力が働いているということなのだろう。
 −−頑張ってね……お願いね。
 アンフィーナの切願の声を思い出て、思わずとも防戦を維持しようとしていた自分に気づき、剣を持ち直す。
 −−俺たちはここで応援するしかできないけど、無理はしなくて良いからな。方法は一つじゃないんだから、きっと。
 どう結果が出ても、努力を讃えてくれるだろうセルイアーンの笑顔を思い出して、相手の剣の動きの終わりだけでなく、初めからも辿るよう、目を凝らす。
 誰かのためであって、自分のためにも。
 ここで、退くわけにはいかない。たとえ相手の気まぐれであろうと、屈するわけにはいかない。
「ッ!」
 ルヴァンは待つ事なく、剣を下から払い上げて牽制し、間合いを広げた。わずかであれ驚きにつられ歩を下げるフェリオの動きを追って、再び間合いを詰め、相手が身の前に構えた剣の面を叩くように打ち付ける。
 願うだけでは強くはなれない。だが、フェリオ自身が言ったように、想いを宿し思いを託す事はできる。そうして、この少年の問いに応えることができるはずだ。
 人を永く見守って来た存在から信頼を無くし、見放されてしまえば、ルヴァンを囲む世界が全て偽りになりそうだった。
 刀身半ばで弾き合い、相手の体ごと押すようにして返す。刃は透き通り、纏う光りは鋼でできているとは思えないほど儚く、ぶつけた衝撃は頑なで、弾く音は硬かった。
 他へと気を回す余裕の有無を慮うこともなく、フェリオの剣に打ち勝てる隙をひたすらに求めた。視る力を緩めず、剣を握る力もまた、弱めることなく全力を注ぐ。後悔しないための、最も簡単な方法だ。
 ルヴァンを捕らえる怜悧な碧の眸は、余計な揺らぎを浮かべず、完璧に感情は抑制されていた。それなのに、悲しく映り、胸を圧される。
 重い剣を受け止め、渾身の力で返す。
 この剣にも、長い間深く刻み込まれてきたものがあったはずだ。聖眷を受けたであろう、少年にしか見えないこの人物もまた、同じように眺めてきた、恐らくは。想いを抱く事に疲れ、いつしか長夜の夢のごとく、抜け出せないしがらみに捕らわれてきたのだろう。視界を閉ざし、こうして長き天をも望めぬ場所で過ごした。これ以上、辟易を重ねないよう。そうやって、完全の終(つい)に甘んじる事だけは避けてきたのか。
 まだ、信じてもらいたい。
 諦めて欲しくない。
 道は、ひとつではないから。
 剣を持っているという感覚はもはや薄れていた。金属の打撃音や擦れ合う音が現実味を帯びさせる中、フェリオの眼光に正対し、体も、精神も緊しく張りつめて、いっそおぼろげに浮わつきそうになる端境だった。
 銀色の髪の少年がいつの間にか別の姿に変じていても、何故か驚かなかった。経緯を見留められなかったことへ疑念を置くこともない。
 黒髪の−−何処かシリュースに近似した美貌に悲しい眸の少年が佇んでいた。
「俺は……あいつが愛したこの世界を守りたかった……失いたくなかった……本当に……」
 はっとなる。明確に覚えていないはずが、引き起こされるように記憶の中で符合した。セイカーナの王城で会った“アレイス”が呟いた言葉だった。
 頬を泣きそうに歪ませて、涙を許さない気丈さが凛とした光りを悲愴に映す。
「それだけだった。俺の、願いは……」
 記憶と重なり、沸き起ころうとする不穏を遮る力はないとわかっていても、ルヴァンは言い返した。
「守れてますよ」
 あの時より事情を少しは識ったから、答えられた。幻のように現れた目の前の人物は、多くの人が知らぬままに、幾つもの悲しみを生み出した過去の犠牲者の一人なのだろう。
「この世界は存在してます。だから、あなたの願いは叶ってますよ」
 創造主たる神は喪われても、精霊に満ちたこの世界は美しいまま在り続ける。きれい事ばかりで眩ませてきたのであれ、美しさは疑う事なき現実だった。
 誰もが失いたくない、たった一つの美しい場所。
「あなたが誰なのかはわかりませんけど……この世界を守ろうとしてくれたんですよね? 自分はきっと辛いのに、それでもこの世界を守ってくれたあなたに、俺は感謝します。今を俺たちにくれた、あなたに」
 心からそう思うから、笑顔を浮かべられた。
「ありがとうございます」
 黙っていれば伝搬してきそうな悲しみを払って、精一杯謝意を笑みに込める。そのくらいしか、自分にはできない。
 いつの間にか剣は動きを止め、黒髪の少年は青年へと成長し、ルヴァンを見つめる眸の翳りが揺らいだ。悲しみを押し込めた切なさが、口元に淡く笑みを形づくっている。
「あんた、この世界が好きか?」
 少しずつ、かけ離れた場所にあったはずのものが繋がっていくようだった。
 アスガールの城で、蒼い月闇の中で出会った青年は、ルヴァンに問うた。
 −−あんた、この世界が好きか?
「好きです」
 あの時、答えられなかった言葉をここで、確かに。
 −−……行く未来(さき)に、光り多かれ。
 自身を蝕む死を顧みず、そう願ってくれたあの優しさは本物だとわかるからこそのやるせなさに、目の奥が熱くなる。
「あんたは、幸せか?」
 数多の想いをつめた優しさを湛えて、また、問われる。
「この世界に生まれて、幸せです」
 頬を流れる涙は恥じるものではないから、滑るままにした。誇るように胸を張り、答えられる自分が嬉しかった。
「俺は……」
 黒髪の青年が続けた、聞き取れなかった言葉は笑みが代弁する。作ったものではなく、自然と浮かべられたものは、解けた心なのだろう。
「ありがとう」
 欲しくてたまらなかったものをようやく手に入れられた安堵に満たして、青年はほっと頬を和ませた。優しい顔と声が、この人物の常のものであるのなら、周りの者も安らげたことだろう。そう思えるほど、惹かれ、捕らえられる深い力を持つ面差しだった。
「他でもないあんたがそう言ってくれるなら、俺もあいつもみんな……きっとサティエも、意味のある事ができたんだと思える」
 サティエ−−鍵であり、門を開いた術者であり、シュルドの最後の王子は門で通じる世界に執着し、人を憎み、その命を代償として求め、成し遂げられなかった鍵としての罰を購おうとしていた。
 救われたかった、誰もが。
 幸せになって欲しい人に、幸せになって欲しかった。
 それだけの、簡単なこと。
 けれど、現実は頑なで、風は思うように吹いてはくれず、望む場所へ導いてくれない。
「謝りたい奴も、言いたい言葉もたくさんあったけれど、会うことも伝えることも、もう叶わない。けれど、あんたが幸せで、あいつらも、少しでも幸せだと思ってくれた時があったなら……それでいいかもしれないな」
 達観から来る顧みない強い言葉ではなく、還らないものを受け止めるしかないやるせなさだった。不思議と、無力感はない。悔やみは誰にだってある。全てを認めて、諦められる人間はいない。完璧を求めても、決してなり得ない残酷さを知っているからこそ、振り切れず凝るものがあるのだ。
 この青年も、“サティエ”も、クロエもイザティスもフェリオも、アヴィアスで会った見知らぬ青年も、普通の暮らしでは無縁な経験を果たして来たのであれば、なおさらだろう。
 想像できない人生に意味づけをできるだけのことを、ルヴァンは持っていた。門をくぐり、生き延びた人たちの子孫で、こうして“外の世界”で生きられている。幸せに生きられている。
 それでいい、と青年は笑ってみせた。少なくとも、一つは叶っているからと。
「あな、たは……」
 アスガールに由縁のある者で、聖剣を抜くことができる者。もしや、と言う思いがちらつくたびに、まさかという気持ちが押し塞いで来た。
 −−アスガールができて八百年、いない。
 セルイアーンが教えてくれた、シリュースの愛剣の謂われと照らし合わせて見れば、応えに悩むことは、本当はなかった。
 世界を救った英雄は、誰よりも光りを受けた存在で、アスガールの祖として讃えらてきた。そう、信じてきた。人が耳にし、語り継いできた英雄譚の主人公は悪を屈する強さの象徴で、翳りなぞない。
 だが、事実は、必ずしも真実ではなかった。
「俺は、アストイン。というより、いつかは存在して、今は何処にもいないかつてのあんただよ」
 気を留めない、有り体な調子で言われたことに、ルヴァンは耳を疑った。まともに辿った後、困惑が開いた口を塞がせない。
 驚きを宥められないまま、差し伸べられた剣を持たぬ手を、握り返した。現の手応えからは、剣を握ってきた戦歴の強さと包み込むひたむきな温かさが伝わってくる。全てあますことなく感じるように、ルヴァンは力を込めた。
「最後にあんたにこうして会えて、よかった」
「俺も、です」
 声が震えて、半分泣き笑いになっている自分が情けなかった。深い黒眸には静かな優しさがあるだけで、揶揄や謗らわしさは無い。 
「行く未来(さき)に、光り多かれ」
 別離の言葉として、どういうものが相応しかったのか。自分では気の利いた振る舞いは無理だとわかっていたから、再びの言葉を黙って受ける。万感に、何もできず言えそうになかった。
 黒髪の青年−−アストインが消え、銀髪の少年が何事もなかったように佇んでいる。鞘に仕舞われた剣を腰に佩びて立つ姿が纏う霊気は不可侵なもので、近づきがたさを増して見えた。
「誰を見た?」
 作り物のように引き結ばれていた唇が問うてくる。
「アストイン……でした」
 そうか、とも相槌は何一つ音としては無く、双瞳の緑が揺れたように見えただけだった。本当に錯覚だったかもしれない。
「知って、たんですか?」
 問わずともわかっていることを敢えて問う行為を、きっと怜悧な少年は愚行だと思うことだろう。わかっていて、ルヴァン自身も答えを欲していたわけでもなかった。口にすることで、夢と違える事ができるような気がしただけだ。
「でも、俺は何も覚えてない」
 心許なく呟いたところで、いらえはあった。
「転生とは、何も記憶まで移るわけではない。人の世の敢えなきことのように、思いもまた擦れて朽ち果てていくのだからな」
 およそ、己の想いを紛らせない響きだった。本当は思いもしない、致し方ない現実で固めることで何も内から誘うことがないよう、意固地さはひどく人間くさく感じられる。
「何も覚えて無くても、いいの。それでよかった……私は、そう思うわ」
 クロエの声に顧みて、頷く。向けられる優しい笑みに、アストインの笑顔が重なった。他人へ、無為に作られた笑みは、これほどに心強くさせる。
「確かに、お前は一つの思いを越えた。……約定は守ろう」


 こうして出た結果は、一縷も望んでいなかったのか。
 しかし、フェリオは落胆の翳りを見せることもなく、無言で無表情だった。歩を下げてルヴァンとの間合いを広げ、手にした剣を足下に突き立てる。土のようなやわらかさはなく、人の造った硬さを持っているわけでもない地は、音もなく剣先を受け入れていた。
 いかなる些細な挙動にも何らかの意を含んで思わせる、侵されざる示威のようだった。誰かが口を開かなければ、他の音は全て吸い込みそうに、静けさが白く沈む。
「剣をおのが身の前に掲げよ」
 静寂に馴染む声に、既に始まっているのだと気づいた。
 語らいを挟まなかった事は、けして時を惜しんでいるわけではないだろう。余計な無言の間は、それこそ望まないものを生み出しかねないと−−そう懼れているのか。あまりにも人間らしく、論うことは悲しすぎた。竜の姿を取り、華奢な少年の姿を取り、永い長い時間を過ごして、フェリオが抱え込んできた想いの比にならずとも。
 ルヴァンは至って重みを感じさせない剣を、自分の胸の前に立てるようにして持ち上げる。
「全ての素とならん力を封じし楔を、ここに解く」
 何も促し、促されることはなかった。
 クロエとイザティスは予め決まっている動きに沈黙をつれ従い、ちょうど三人の立ち位置を結べば、ルヴァンが中心にくる場所へ移動する。一言も口を利かない。ルヴァンの気負いを払い、労いを渡すことも忘れたように、二人は真摯に表情を整えていた。知らない人のようだと素っ気ない錯覚を覚えることはない。本来の質を取り戻して見えるクロエたちは、目の前のことに一心を傾けているだけだ。
 ルヴァンたちの願いを叶えるための、もう一歩を辿るためにできることを。
「我、天と地の至高なる存在を讃えん、
 而(しか)して、此(こ)と異(い)なる戒めを解き、
 重ね、累ね、彼(あ)と変じん」
 いつかも聞いた、詞(ことば)が紡がれ、唯一の音となって凛と響く。
 白さを、さらに研ぎ磨かせるように細かな光りが宙にともり、すぐさま数を増やし始める。隣り合う光りの粒が融合し、膨れて周囲を飲み込んでいった。
 清められ、濃密になる“力”が肌で感じられ、ルヴァンは気を引き締める。思いに応え、掲げた剣の刀身が透き通っていく様子は、夢のように美しい。
「我、御方の名の下、今此処に堅し契りの証を照覧せん」
 フェリオが目の前に立つ自身の剣に掌を翳すと、浮かび、広がっていた光りがその柄頭へと集約していく。長き軌跡を引き、清らかなきらめきを零して、光りが見えぬ力を編み出す。視認できない事実を認識できている自分に、ルヴァンは訝りを抱かなかった。普遍の現象であるように、全てを受け入れられる。
 クロエとイザティスが両腕を前方に差し向け、瞑目していた。わずかに仰いだ顔は静謐を湛えていて、無、だった。長い、光りと闇色の髪を背に流し、ただ立つ姿は至宝と讃えられる彫像のようでもあった。
 意識を澄まし、姿勢を留め−−フェリオの詞(ことば)だけが生を宿らせたもののようだ。
「ムめありき天意継ぎし、曼衍せし理を映す光暉、彼の遐かな日の約定へと繋ぐ渉りとなれ」
 一層張らせ、あふれようとするものを押し止める強かさをこもらせた音へと変わる。“人”の作った声(おと)ではない、生を宿らせぬ、ただの音だった。音であるために。その意を具現するためだけに謳われるためだけに存在する“音”だ。
 ルヴァンは、満ちていく力が自身を高揚させていくのを感じた。意思は伴っていないはずが、眠りから覚醒へと繋がる流れに似て、意識がつり上げられていく。
 光りが熱を帯びて溶け、空気そのものになっていくのを見た。肌で感じたと言った方が近いのかもしれなかった。やわらかな蝋のように、とろけた重みが肌の上を滑り落ちていくように感じる。抱えきれなくなったものを弾かせるように、視界に満ちていた光りが瞬いた。
 −−ねえ、これで、みんな幸せになれるのかな?
 銀色の髪の少女が訊ねる。身に着けた鎧は、勇ましさを誇示するためだけのものではなく、痩身にしっくりと馴染み、重くのしかかって映る。不安を覗かせながら、見返す空色の瞳は深い。
 −−わからない。でも、誰もが願うなら、きっと……。
 自分から発せられる、自分のものではない声だった。若く、少年の甘さを残すが、凛と澄んだ声だ。
 変わる場面。目の前に立つ、繊細な縁取りで整えた美しい顔立ちをした黒髪の少女が口を開く。何処かセルイアーンを彷彿とさせる美貌でありながら、手折れそうな印象が強い。背に落ちる影すらも守らなければと思わせる、儚さの具現のようだった。
 −−きっと、これで終わりです。あなたに導かれた未来が、穏やかなものであると、私は信じております。
 染みこむように穏やかな声が、色薄い唇から零れた。
 閉じていた瞳がゆるりと開かれ、貴石ヴェンス・ブレアを溶かし込んだ色に彩られた双眸が外気に触れる。少女の美貌を神秘的に、かつ不可侵のものにすることをそつなくしてのける、世にも希有な紫。惜しむらくは、その瞳が何処か焦点を失って、何処も見ていないことだろう。
 −−その未来に、あんたはいるのかよ。
 先刻とは違う少年の声、深い悲しみを抑え込められず、わずかに震える音をルヴァンは既知のものと重ねた。
 アスガールで交錯した過去の悲しい蒼さが囁いた声、フェリオの姿から変じ、顕れた青年が揺るぎない強さを通して渡してくれた優しい声−−今は何処にもいない、かつての自分のものだった。
 少女の美貌が刹那の翳りを拭って、微笑む。言葉にならない想いを閉じこめ損ねた悔いが、頬をかすかに歪ませるのを見た。胸迫る切なさに、触れる空気までも涙を落としそうに震える。
 じんと目の奥が鈍い痛みを起こして、目の前が暗転したのは瞬後のことだった。不快さはなく、瞼を閉じ仮初めの闇を作り、再び開いたようにあっけない繋ぎだ。
 変わらず剣を眼前に立てている自分の腕を認識し、刀身の変化に息を飲む。今までの記憶で一番近いものは、水晶だった。しかし、ここまで曇りも傷もない透明なものは見たことがなく、チェスアで目にした、レヴィ・ハルアを思い出す。全ての光りを吸い込むように輝き、人の手によらぬものだからこそ、濁りのない美しさそのもの。
「封印は解けた。後は、お前の思い次第だ」
 煩わしいものを全て刮ぎ落とした表情をしたフェリオはため息でもって締める。自ら欲した行動でないだけに重ねた疲弊が、柳眉を寄せさせていた。目線をルヴァンと合わそうともしない。人の感覚では計り知れない時を過ごしてきた事を思えば、この人物の頑なさはそうやすく解けるものではないのだろう。白い頬に過ぎった痛ましい翳りは、他へではなく自身へと向けられる断罪のかけらのようだった。
 静かに、元通りになった白い空間の奥へと歩んでいく。言葉も、一瞥すら残さず、フェリオの姿は消えた。
「ありがとうございます」
 白さに溶けていった背へと、深く頭を下げた。自分が言えることは、他になかった。そのまま伝えたいのなら、飾らない方がいい。そう思ったからこそだった。言葉を増やせば、それだけ別の想いが紛れ込んでしまう。
「お疲れさま、ルヴァン君」
 肩に触れる温かさに見れば、クロエが立っていた。自分のために一つ果たせたと、晴れやかな笑顔に、ルヴァンも自然と頬を緩める。
「クロエさんも、イザティスさんも……お疲れさまです。ありがとうございました」
 銀髪の少年に対してと同じ気持ちで、頭をしっかりと下げ、これ以上ない感謝を巧く伝える方法が見つからないもどかしさが悔しかった。
「いいのよ。私たちは、したかったからしたんだから。お礼なんかいらないわ。ねえ、イザっち」
 同意を求められた青年は、いつも真面目に結んでいる唇をそのままに、小さく肯く。
「ルヴァンさんなら、その力を過たず、正しく使えるでしょう」
 そう、信じている、と。想いの深いみどりの瞳は、フェリオよりも強かだった。切実に現へと託す想いが、光りとなって映る。
 自分が見たアストインの姿は、自分以外には見ることはできなかったのだろう。会いたくても会えない−−会って伝えたいことがお互いにあったはずで、それでも会えなかった。長い永い時を生きてきた人ならぬ者だからこそ、巡らせたおもいはルヴァンには計り知れないものだ。
「アストインは……アストインも、ちゃんと使えてたんですよね」
 闇を払う聖剣を携え、世界を救うために立った英雄の現実は、きらびやかに飾られた伝承通りではなく、悲哀の影を引き、その手を躊躇わせたことがあっただろう。イザティスとの間に落ちた、いつでも越えられたはずの越えられない川は深くなるだけで、悔いを沈めることになった。
「人のために正しいことであっても、誰もが望むこととは限らない。それでも、あの人は“正しい”と他人が評価してくれる選択をしました」
 自身のものを、少なからず犠牲にしたのだろう。
 言葉にならない痛みを頬に滲ませ、それは、フェリオの白皙と重なった。人智を越えた力を持ってしても、術無く、虚無感に苛まれてきた“人”たち。抱えきれない、零すことも懼れるように、その胸の中で飼い続けたもの。悲しみの一言ではやすすぎる、非情な苛みなのだろう。
「この、今の世界がその事を証明してくれていると思っています」
「きれいな世界です。昔のことは知らないけど、優しい人がたくさんいて、この世界のこと、好きだって思ってます、きっと。アストインや……イザティスさんたちのおかげで、俺たちはこうしていられるんですよね……」
 誰もと同じように、叶えたい願いを持っていても、全てを掬うわけではない不完全で残酷な世界だけれど、精霊に護られたこの世界は、やはり美しい。いくつもの慮い、かつて在った想いに触れても、変わらなく抱ける愛おしさだった。
 そうした“優しさ”を遺してくれた者たちへ向ける、適当な言葉はきっと見つからない。
「できるなら、あの人にも、この世界のこと好きでいて欲しいです。俺たちなんかより、ずっとずっとこの世界の近くにいるんだから、たまに厭になっても、それでも、好きでいてくれたら……諦めとか最後でいいんじゃないかって」
「ルヴァン君……」
 クロエも、イザティスも言葉につまづいていた。困惑と驚きがやるせなく相俟って、表現のしがたい表情になっている。
「偉そうなこと言って、すみません。でも、本当に、アストインたちが一生懸命守ろうとしてくれた世界なんだから、捨てたものじゃないってくらいには思っていて欲しいです、俺」
 同じ世界にいて、同じ時代にいて、同じ空気の中で共に過ごしたのであれば、アストインたちの願いの映りである現実の、この世界から悲観的なことばかり辿って欲しくない。それもまた、アストインの願い−−幻覚の中の美しい少女が望んだ“穏やかな未来”であるのなら。
 落ちた静けさは、ほんのささやかなものだった。
「大丈夫よ、ルヴァン君」
 クロエの貌が力を込めて、笑顔を作る。偽りを見せないことの証であるように、まっすぐに黒い眸が、まっすぐに言葉を向けて来た。
「あの人は、素直じゃないの。わかってるのよ、本当は。好きで好きすぎるから、色々悔やんでしまっているの、そういう人なの」
 しょうがないと諦念があっても、溢れる好意が尖ったものにしていない。奔放で明るく、曇りのないこの優しい笑顔こそ、クロエの本質なのだと思わせる。
「そうですね。目に映るもの全てを否定する気は、あの方もないはずです。あの人との約束ですから」
 主への気兼ねのない口ぶりに、いつもなら難詰するはずのイザティスも、同意を並べた。
 あの方はフェリオ、あの人というのは、アストインのことだと、ルヴァンは正すことなくわかった。
「約束?」
 どちらに決めて問うたわけではなかったが、答えたのはクロエだった。
「自分の分も、人の未来を見守って欲しい。彼らを少しでも哀れだと思うなら、見捨てないで欲しいって……本当に良い子だった」
 愛おしむ声だった。笑顔が緩んで、懐かしそうに揺れる双眸の光りは、悲しみを淡く溶かしている。
 約束を守ろうとしているのか、フェリオ本人に確かめることはできない。もしその願いが、アストインの無心の、最後の願いだったら−−同じようにこの世界を愛しているなら、無下にはできないだろう。あの悲しみは、やりきれず、反故にできない想いの裏返しかもしれなかった。
「おかげで、俺たちは生きてるのかな」
「そうね、全部じゃないだろうけど、あの子のおかげでもあるかもね」
 戯けたように声を弾ませて、クロエは笑顔は何処か悲しいままだった。目が意識的に合えば、その翳りを振り払って、笑ってみせる。
「行こう、ルヴァン君。みんなが待ってるよ」
 ここへ来た目的を託した人たちが待つ元へ帰る。ここで、実際はそれほどの時間が過ぎてはいないだろうが、セルイアーンたちに会うことが、ひどく懐かしく思えた。
「ルヴァンさん、私はここでお別れになります」
 イザティスの唐突な言葉に、ルヴァンはまばたいただけで何も返せなかった。
「あの人を今、一人にしておくわけにはいけませんから」
 青年の優しさは、主従という素っ気ない枠組みに従ったものではなく、イザティスの本質だと思えばこそ、ルヴァンは受け入れるしかない。
「イザティスさん、本当に、今までありがとうございました。俺、イザティスさんのおかげで、色んな事を知れたし、何度も……助けられました」
 聖剣の封印を解いた後の謝意よりも、もどかしさを宥められず、口惜しさにぎこちなくなっている少年に、イザティスはゆるりと頭を振った。
「それは……あなたのためだけではないかもしれないんですよ。私は、自分のために……あなた以外の者のためにしただけかもしれない」
「いいんです。俺が知ったこと、助かったことは事実ですから」
 はっきりと初めて答えられた気がして、ルヴァンは笑えた。
「あなたには負けますね、本当に」
 苦笑を堪え損ねた顔で、イザティスは肩を小さく竦める。たとえわずかでも笑みに緩めば、青年の瞳も優しさを帯びた。
「あ……」
 思いついたものに、ルヴァンは思わず弾みで声を漏らした。どうしたものかと思い巡らす前で、二人がその先を待っている。
「もし……またよかったら、あの、フェリオさんが許してくれたら、俺のとこ……ガスアに遊びに来てください。歓迎しますから。俺、得意料理ごちそうします!」
 シリュースが不満や愚痴を上げそうなものだが、イザティスたちに感謝の一端を示しても罰は当たらないことくらいわかっている。控えめに言っても正直とずれた観念を持ってはいるが、それだけの年は重ねてきている事も確かなはずだ。
「ルヴァン君、私は誘ってくれないの〜?」
 クロエの混ぜ返しに、ルヴァンは慌てた。
「もちろん、クロエさんもですよ! 二人で……あの、本当は三人でも……その……」
 言えば言うほど抜かりに気づき、ろれつまで怪しくなりそうで窮してくる。
「ありがとうございます、ルヴァンさん。お言葉に甘えて、いつか、必ず……約束させて頂きます」
 差しだした手は、会話を滞らせない青年の気遣いなのだろう。ルヴァンは予想しなかっただけに、驚きを飲み込んで、空かさず手を握り返した。
「ルヴァンさん、私があなたにしてきたことは、全てあなたのためではなかったかもしれません。それでも、あなたに出会えて……よかったと思います。あの人……アストインと出会えたことも、私は悔やんではいません」
 本当は当人に言いたかった、伝えたかった言葉なのだろう−−会えて良かった、と。謝罪ではなく、心からの感謝を。
 無骨さはなく、ほっそりとした青年の手から伝わるのは、人の温もりそのものだった。


 吸い込んだ空気の緑の深さに、ルヴァンは戻ってきたのだと実感した。肌をなぜる風も、ひやりとしながら、柔らかく馴染む。生きているもの、宿る精霊の優しさが息づいていて、フェリオのいた空間との対比に気づかされる。他の生命を厭う冷ややかさを抱き、静寥に浸されていた白いあの場所の、いっそ意固地な悲しみは重く響く。思い出すだけで、二度も赴く場所ではないとわかっている−−それこそ、招かれざる客になるだろう。それでも、胸に満ちる切なさは、光を求めてしまう。自分のためではなく、彼の地で喪失への悔いと哀しみに暮れることが、己の存在の贖いとしていた人物のために。
 −−いつか、それは叶うのか。
 隣にいるクロエが、にこりと笑った。ルヴァンの眼差しに応えた和らぎは、周りに溶け込む自然なもので、他意は映らない。こうして笑えることを喜びとして自らは受け止めるように、笑顔が深められる。ほっとなった。 
 移動したのは、村の宿ではなく、山へと延びる道の外れだった。人目に触れない場所をと選んだのか、いきなりシリュースたちと出会うことに余計な緊張を覚えさせないようにというクロエの気遣いかもしれなかった。
 どれだけの時間を要したのか。村に降りた時は、青く輝く空の高みにあった陽は、西に大きく傾いている。朱を帯びる端境の陽射しが、村に差し込んでいるのが見えた。
 今が同日なのか、翌日か、更に日を経たものかはわからなかった。それでも、今までを思えばささやかな不安だった。
「ルヴァン!」
 明るく弾んでも、きれいに澄んだ響きを損なわない声が、遠くで名前を呼んだ。
 長い黒髪を陽光に艶やかに揺らして、小柄な影が駆けてくる。ルヴァンと視線が交錯したことに気づくと、大きく手を振った。白皙が綻んでいるのが、遠目でもわかる。
「早かったな」
 ルヴァンたちの元まで駆け終え、肩で息をしながらも、帰還を喜んでくれていることは明らかだ。セルイアーンの歓迎を込めた朗らかさに、思わずつられて頬が緩んでしまう。
「どうしてわかったの」
 最初に浮かんだ疑問だった。
「精霊が教えてくれた。部屋に閉じこもっているのもつまらないし、ぶらぶらしてたんだよ」
 退屈を満喫するなら、狭い場所より、自然の多い屋外の方が安らげる気持ちはわかる気がした。
「今って、翌日?」
「いや、当日。俺としては、もっと時間掛かるかと思ってたからさ。ま、滞りなく終われたってことか?」
 紫の眸が表情に似合う明るさを湛えて窺ってくる−−剣の封印を解く儀で見えた幻の中で見た同じ色の瞳とは違う、ひなたのものだった。
「うん……そうだね」
 歯切れが良いとは言えず、最後は笑みで誤魔化すにも、巧く行ったとは言えなかった。情けなさに、半笑いになってしまう。セルイアーンはそれ以上質すことはなかった。好奇心は旺盛だが、無遠慮さは持っていない少年の“らしさ”に救われる。
「殿下も目を覚ましてるぜ」
「そっか。よかったよ」
 意識消失がどれだけ続くかわからなかっただけに、思いの外早い回復に素直に安堵するルヴァンを前に、セルイアーンが可笑しさを抑えきれない顔を作った。
「アンフィーナさんがすごい怒ってさ。説教の勢いがすごかったよ。シリュースも唖然としてたくらいだぜ。あまりの剣幕に、俺は殿下にちょっと同情した」
「想像できないな」
 はっきりした言動はそぐうものだが、激しい感情をあらわにするアンフィーナの姿はぴんと来ないものだった。
「とにかく、帰ろうぜ」
 先を行くセルイアーンの横に足を並べることはすぐにできたが、会話のきっかけをうまく出せず、ルヴァンは開きかけた口を閉じた。沈黙が嫌いなわけではない。もっと色々と訊かれることを慮っていただけに、拍子抜けした気分だった。シリュースは何も訊かないだろう。それはわかっている。アンフィーナも、迎えに来てくれた少年に倣い、結果だけを汲んで労ってくれることだろう。
「もう、終わるんだよな」
 ぽつり、とセルイアーンが零した。思い巡らして、現が朧気になった間合いだけに、ルヴァンは首の動きと、声が同調しなかった。
 セルイアーンは、村へと繋がる道の先を見据えていた。白皙に差す陽が、淡い朱に染まり始めている事にぼんやり気づいてから、声が出た。
「え?」
 間が抜けた鈍いいらえに、紫の眸が横目に一瞥し、少しだけ笑った。目元に笑みを残したまま唇を少し尖らせ、拗ねた表情を作った時には、また前を向いている。
「……これで、門の場所がわかって……アンフィーナさんのともだちの居場所がわかったら、俺たちが一緒に旅するの、終わりなんだよな」
「うん、早く見つかるといいよね」
 他意無く答えれば、セルイアーンは笑みの質を変えた。自分本位さを自嘲するように、皮肉さが翳す。普段の少年には似合わない
「そりゃそうだ。そうなんだけどさ。俺は寂しいよ。こんなに長い間、アスガールを出て旅して回ったことなかったからさ」
 アスガールに帰れば、衆知の“セルイアーン”に戻らねばならず、依頼で“出る”ことはあっても、また一人なのだろう。誰も、魔法都市の嫡子と同行したがらない。
「セルイアーン……」
 ルヴァンには同情はできても、共感はできない孤独さだった。句を、それ以上継げない。
「すごく楽しかったよ」
 感を込め、沈んだ音を力無く漏らす横顔に、ルヴァンは、力を付ける様に息を強く飲んだ。
「セルイアーン、まだ終わってないよ。俺だってそりゃさみしいけど、まだみんな一緒じゃないか。寂しがるのは最後の最後にして、それから、また会えばいいだろ。別に……これで終わりじゃないんだから」
 終わりという言葉は、自分が思う以上に重く響いて、揺らがされた。ただ、自分が望むのは区切りという終わりであって、二度と続かない無情な終わりではない。そう思いたかった。
「ルヴァン君の言う通りだよ。悲観的な方ばっかり見ちゃって、考えを塞いじゃったら余計寂しいんじゃない? それに、らしくないよ、セルセル」
 クロエの口添えは、深刻さを含まない明るさで。からかわれたセルイアーンは吹き出すのを堪え損ね、細い肩を揺らした。
「ちぇっ、なんだよ。俺ってそんなに能天気に見えんの?」
 問われ、ルヴァンは答えようがないと首をわずかに傾ぐ。 
「ま、前向きさは俺も自負するところだからな。なんか、一人でいると、こう、色々考えちまうんだよ。それでちょっと愚痴ったんだ。悪い」
 そう言うと、今までの憂いは嘘のように消えてしまう。
 村の集落は、夕餉の支度に追われる暖かさに満ちていた。子供が無意味で無邪気な喚声を上げて走り回り、家の傍では、仕事を終えた男たちが談笑している。村に入ってきたルヴァンたちに気安く挨拶をして来た。辺境故に、予想できそうな閉鎖的な空気はない。
 宿に入ると、帳場で用事をしていた主人がもうすぐ夕食ができると告げてくれた。
 部屋の扉をノックすることなく、セルイアーンが入り、ルヴァンも続く。胸が緊張に竦み、片手に持ったままのシリュースの剣を強く握った。
 二人用の部屋だけに、決して広くはない。ベッドが二つと、窓際には簡素な卓と椅子が置かれているだけだ。
 椅子に座り、暇を持てあまして居眠りをしそうな顔つきだったシリュースが、目線を向けてきたが、何も言葉はない。予想通りだった。
「おかえりなさい」
 ベッドに腰を掛けたアンフィーナが、シリュースの分も笑顔を安堵で満たして迎えてくれた。隣に同じく腰をかけた青年が、軽く−−申し訳なさに怖じた表情で頭を下げる。 
 ルヴァンの記憶の中にあるアレイス王子とは、別人だった。内包するものが違うのだから、当然なのかも知れない。ルヴァンを見返す黒眸には、背を冷やした昏い想いはかけらもなかった。
「アレイス、ルヴァン君とクロエさんよ」
 アンフィーナの短い紹介に、青年は立ち上がった。立ち姿の印象も、全く違う。謝意に沈みがちな面だが、視点は落ち着いていて、芯を感じさせた。若者らしい、凛とした強さだ。
「アレイス・ルタニア・セイカーナです。このたびは、僕の無知が端を発し、多大なご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした。きっと溜飲していただけるだけのお詫びの言葉も巧く作ることもできませんが、謝罪させて頂きます」
 本来の身分から言えば考えられないほど深々と、ルヴァンたちに躊躇いもなく頭を下げて見せた。
 その横にアンフィーナも立ち上がる。並ぶと、アレイスよりわずかに低いだけだった。そして、頭を下げる。
「ルヴァン君がいない間に、私ができる限り叱っておいたから。私からも、謝らせてもらうわ。ごめんなさい。
 これで、少しは懲りたらいいんだけど」
 あからさまな口調に、青年は表情を弱らせた。
「少しって、アニー……」
 他へ助けを求めることもできない状況に、アレイスは困惑を深める。
「アスガールに戻ったら、誓約書を書かせるわよ」
「ごめん……」
 アニーの止めのような一言に、悄然となった。言い連ね、抗って自己の正当化を図ろうと言う素振りも見せない。二人の力関係を見事に物語っていた。
「あはは、アニーちゃんには頭が上がらないのね」
 クロエの明るい混ぜ返しに、アレイスは肩を落とす。
「昔からそうなんです。アニーに逆らったら……本当怖いんですよ。誰だって懲りると思います」
 ちら、と叔母である女性を横目にし、咎める視線に受けられて慌てて逸らしている。
「それで、話は聞いたの?」
「僕自身、記憶があってお話しできるのはチェスアまでで……その経緯は説明しました。本当に、弁解の余地もない話です」
 改めて自らも持ち出すたび、陰鬱な気分にならざるを得ないらしく−−もっともなことだろう−−視線は下がって行く。アンフィーナが盛大なため息を吐いた。
「国宝を持ち出して、こんな大事にしておいて、誰をも納得させられる理由を並べられるなら、あなたは大層な政ができるでしょうね」
「……」
 容赦ない舌鋒に返す言葉のないアレイスは、傍目にも気の毒なほどだった。セルイアーンがアレイスに同情したという気持ちがルヴァンにもわかる気がした。
「シリュース様たちには二度聞きになりますが、どうされますか?」
 アンフィーナの伺いに、もっとも視線を集めたのはシリュースだった。始終黙っているので、思惑がまるで伝わってこないためだろう。ルヴァンからすれば、口を開くのが面倒なだけだと察せられており、セルイアーンも恐らくわかっているはずだった。
「間もなく夕食ができるそうですよ。さっき宿の方が教えて下さいました」
 誰の声かと思えば、セルイアーンだった。アレイスの手前、猫かぶりを続けているらしい。今まで悉く素が出てしまっているだけに、妙な意地があるのか慎重さが面差しにあった。
 シリュースは頷いて立ち上がる。この青年にとって食い気に勝るのは、武器蒐集欲だけだ。
「あ、師匠、これ……ありがとうございました」
 返す間合いをすっかり逃していた聖剣を差し出そうとして、シリュースの視線に止められた。
「まだいるんだろうが」
 不機嫌そうだが、怒っているわけではないことにルヴァンは胸の片隅でほっとする。
「しーちゃんの言う通りね。借りてた方がいいよ」
 まだ、終わりではない。これからでもあった。


 シリュースがためらいもなく部屋を出て行き、目送を終えてから、いきさつのおさらいが始まった。話すのはアンフィーナで、役目を譲ったアレイスは隣で黙っている。時折、確認に答えるだけで、大人しい聴き手になっていた。
 アレイスがチェスアに向かうことを決めたのは、事件の四ヶ月前。学士過程進級のための論文提出期限までは半年と少し。余裕は十分あるとも、差し迫っているとも言えた。周到な学生などは既に論文執筆の段階に入っており、まだ論題も考えていない、暢気な学生はどちらかというと少なかった。
 論題は奇抜なものや新鮮なものを無理に選ばずとも、自分の考えをしっかり述べていれば、論題自体が減点対象になることは無いに等しい−−皆無と言うには、何事にも例外があるのである。だが、アレイスは、誰もやらないことをしたいと言い出し、マリーナも青年の気持ちを汲んで同意した。その、誰も選んでいないことを確かめるために、資料の確認に一ヶ月以上要した末に、セイカーナの王家が所有する古文書に記されていたある呪文を論題の対象にすることにした。誰も知らない可能性の方が高い、と当時のアレイスは昂奮にやる気を出していたが、マリーナは少なからず不安を示した。誰も知らない−−それだけ危険性が伴うのではないか。無鉄砲な言動の多い青年の分も慎重さを備えている少女の疑問に、アレイスは大丈夫の一点張りで、押し通した。何ら根拠のない主張だったが、終いには熱意にマリーナが根負けした形になった。
 呪文が特殊なものであることは想像ながら理解しており、アレイスは魔力の増幅をするため、場所と道具をも揃えることにした。場所は、一般人が周囲におらず、魔法を行使するための力場としては補助する魔力で満ちていると言われるチェスアの地下遺跡に決定する事は早かった。アスガールの学生証を使い、ギジェイドを縦断する事で、移動時間は短縮することもできる。アレイスは、半月前の帰省時に持ち帰ってきたものをマリーナに見せて驚かせた。国宝である、レヴィ・ハルア。国宝と言うより、一般人の目に触れることはない希少性が幻の貴石とまで言われていた。その貴重性を認識しているからこそ、少女は不安を募らせたが、これもアレイスが根拠のない安全性で言い通したのである。
 チェスアへの出立までも、移動時も、呪文の内容について吟味したが、意味不明過ぎる隠語の連なりは難解で、並ぶ字は正確に読めても、意義を精確に読みとることはできなかった。ただ、呪文が、異界への干渉をするものではないかと最初に気づいたのは、マリーナの方だった。
 しるしを刻みし 幾客(とき)の誓い
 彼の日の下(もと)、彼の星の光りに見(まみ)える月鏡に照覧あれ
 何処(いずこ)にか闇に沈みし、分かたれし影は赦せしものなりか 
 風に朽ちて流れに廃れなく 違えることなく その導(しるべ)の示すを待ちて仰げ
 汝の天に光り射し、煌(きら)は董(ただ)し、謂(おも)えらかん
 素(そ)宿りて、導きを灯(とも)せし内なるを捧げ、開き招け
 異なるは無く、内も外も違(たが)え無く、来たりし時を絶えなく告げよ
 呪文は諳んじられるほどになっていたが、ただ口ずさむだけなら、無力な言葉(おと)でしかない。
 チェスアに着き、地下遺跡へ入る許可が降りると、まずは実験に相応しい場探しを行った。五日ほどかかって広さと魔力の強さを持った場所を選ぶと、レヴィ・ハルアとの同調の練習を二人は重ねた。ただの魔法を封じた石ではない−−『神』の力を持っているとさえ伝えられる石だけに、それらしい形に整えられるまでで、初めてアレイスは焦りを覚えた。今までの行動が好奇心で占められていただけに、見ようとしなかった無謀さにひやりとなったのである。しかし、ここまで準備を整え、マリーナが一緒にいてくれているという状況に、腹を据えた。
 もし、この呪文の“正体”を掴めば、誰もが驚いてくれるに違いない。称讃より、青年はそちらを期待していた。子供の無邪気さを失っていないことが、良くも悪くも事態を留めなかったのである。
 一回目の呪文の行使実験では、魔力の練り方が足りず変化は何も起こらなかった。場に歪みをわずかに感じたが、それは自然に修復してしまった。マリーナが、その時「厭な空気を感じる」と怯えた。女性故か、マリーナの方が感覚は鋭い。魔法で明かりを灯さなければ真の闇に満たされる地中深くであり、空気の流れがないために澄んでいるとは言いがたい閉鎖的な場所が、そうした心理にさせているだけだと、アレイスは一笑した。実際は、青年自身も懸念を抱いていた。だが、怯えている少女を前に、自分までも腰が引けた格好の悪いところは見せたくなかった。意地になっていることを見破られていれば、諦めていたかも知れない−−最後の機会だった。
 三回目の実験で、ようやく手応えがあった。レヴィ・ハルアが光を放ったのである。マリーナと二人で喜び合い、だが、消耗が激しかったため、その日は用心をして一度宿に帰って休養した。
 そして、翌日。マリーナがすっかり慣れた流れで場の補助を行い、アレイスが呪文を唱えた。溢れてくる魔力を肌でも感じ、行ける、と信じた。だが、足裏から力を引きずり出されるような幻覚と、激しい耳鳴りに襲われた。一瞬、途切れる集中力。マリーナの悲鳴が聞こえ、目の前の明るさが奪われ、身を引き裂かれる様な激痛に意識を奪われた。
「それが、最後でした」
 アレイスは、何度思い返しても悔やみしかない事を恥じる様に、面を伏せていた。
「人の扱えるものではなかったのだと、その時わかったんです。いえ、本当は最初からわかっていたけれど、調べてみたかった」
 探求心は道を誤れば、先を示す光をも奪う。それだけの理知を本来身に着けていたはずの青年は、唇を引き結んだ。
 未知のものへの無知故の好奇心。研究においては、欠かせないものだろう。そこにある危険性を現実に反映させないためには、常に慎重さ、見極める冷静さを持たなければならない。この二つは、あるだけでは要をなさない。時とあれば、諦念で結ぶ決断力を引き出さなければならない。
 アレイスたちには、おそらく、慎重さも冷静さも本質としては十分に備えていたはずだった。
「何故、あの時止めなかったのか、何度も機会はあったけれど、僕は無視をした。それは誰にも褒められる事無い勇気でした」
 手にしたレヴィ・ハルア、誰も解明していないであろう呪文の詠唱−−明晰にならない想像をたぐり寄せようと、その昂奮が何をも抑え、結果は最悪なものとなった。
「マリーナが……死んでしまったと、僕は意識がなくなる瞬間感じたんです。本当に、目の前が真っ暗になる気持ちでした。彼女を失うことは僕にとって絶望と同じですから」
 だが、実際は死んではいなかった。マリーナは生きている。−−その言葉が聞こえて目が覚めたと青年は話した。
 実際は、健常に生きている状態とは断定できるものではないが、死亡はしていない事だけは確かだ。アンフィーナに後で説明されたが、夢なき現実から救われた事は変わらなかった。
「愚かなことを重ねた僕には、過分な赦しに思えます」
 意識がない間の所業−−罪状の数々は、アンフィーナからとうとうと並べられ、血の気が引くを通り越して生きた心地がしなくなったとアレイスは、自嘲に口元を歪めた。継いだ無言で意識を正し、そうして再び上がった眼差しは、揺るぎなく、強いものだった。
「アスガールからの処分がどのようなものであろうと、僕はいかなる断罪も受ける覚悟はできています。このような事態を引き起こしたのは、全て僕に因があり、マリーナには非はありません。
 ですから、マリーナを……どうか彼女を……セルイアーン姫、クロエさん、ルヴァンさん、お願いします」
 他人に頭を下げる。表情を隠すためではなく、心からの誠意をこもらせたものだった。
「大丈夫。きっと帰ってくるよ」
 安心を託すには深刻さが薄いクロエの笑顔に、なにか汲むものがあったのか青年の眦の緊張がほっと解れた。
「精一杯、私にできるだけのことを努めさせていただきますから」
 聞きようによっては、意図通りにならなかった時の防衛線の一つだが、セルイアーンのよそ行きの口ぶりと笑みの効果は絶大らしい。アレイスから返ってきたのは真摯さの深まりだった。
「お願いします」
 


 門の場所を探し、赴くことは明日以降となった。ここまで来れば、焦ろうと焦るまいと結果は逃げないと思えばこそ、取れるはずの一晩の休息を敢えて堪えることはない。
 アレイスは明日、このままアンフィーナと共にアスガールへ戻り、クルーアに報告を行い、指示を仰ぐ事になった。アンフィーナも門の場所への好奇はあったようだが、身内の不始末を優先したようだった。マリーナと、三人になれる遠くない未来を信じればこそ、できた自制だったのだろう。
 部屋割りは、アンフィーナとアレイス、クロエとセルイアーン、ルヴァンとシリュースとなった。セルイアーンはもの言いたげだったが、この期は諦めたようだった。
 食事は、鄙びた村にしては量も十分で、贅より家庭的な温かさに満ちており、腹だけでなく気分も満ち足りた。セルイアーンは、アレイスが席を立つまで粘り、その後、宿の主人の目を伺いながら摂食作業に励んでいた。健気なまでに周りの視線に気を使っている少年を見れば、アスガールでの心労はわかりそうなものだった。長年のことだけに、心労も心労と思わないほど自然なものかも知れない。
 ルヴァンは、自分が思った以上に疲弊したことを身に染みながら、早々に部屋に戻った。師である青年はまだセルイアーンと共に食堂に残っている。
 シリュースの剣は、いつも青年がそうしているように、ベッドの傍らに丁寧に立て掛けた。そうして横になると間もなく、とろとろと意識が緩んで来る。
 今までのことが細切れに過ぎるが、慮いを固めるには眠気の魅力には逆らいがたいものだった。だが、深い眠りには落ちこまず、浅いところを揺らめいて、それはそれで気持ちが良かった。
 ドアが開き、シリュースが入ってきた気配を感じたが、目は開けられない。そこまでの気力は、睡魔に呆気なく屈している。
「師匠」
 返事はないが、こっちを見た−−気がした。あまり機嫌が良さそうには見えない顔が見えるようだった。寝言だったら、とうてい許されそうにない。
「俺、今のことが片づいてしまったら、ガスアに帰るんですよね」
「お前、寝言なら夢の中で言えよ」
 案の定ないらえに、口元が緩んだ。 
「……お前が帰りたい場所だと思っているなら、それでいいだろうが。他にケチつけて意味をつけなきゃ納得できないもんなのか」
 起きていて、面と向かっていれば、きっと聞けなかった言葉の多さだった。憮然とした顔で言っているのだろう、と思った。
「早く帰りたいですね」
「まあな」
 青年としては、素直な返答だった。 


 最後、と言う言葉には、一つに収めきれない想いがありすぎた。
 アンフィーナとアレイスは、馬一頭を使い、アスガールへ帰ることになった。借りた厩は、アスガールにも同系列の店があり、返すことができる。川に沿って上れば、さほど遠くもない。
「シリュース様、セルイアーン様、ルヴァン君、クロエさん、本当に今までありがとうございました。思えばあっという間でしたけれど、得られるものも非常に多かったです」
 基準をシリュースたちに合わせている故に、丁寧な語調で整えたアンフィーナは、そう言うと頭を下げた。
「また、お会いする機会があれば、その時は、今よりは出来のいい魔法剣士になってお会いしたいと思います」
 アンフィーナの在籍している学士課程での主な修学内容は、実地訓練。すなわち、依頼を受けて仕事をこなし、担当教師に報告をして教示を受ける実習で占められる。最初、チェスアへ赴いたセルイアーンも、事態の深刻度を除けば、あくまで学課の一貫であった。
 復学し、本物の魔法剣士になるべく、さらに実地を重ね、アンフィーナは自分の夢を叶えるのだろう。
「きっとなれますよ、ファンティクスさんなら。殿下も、頑張ってください」
 セルイアーンの口調はよそよそしいものだったが、無責任な響きにさせない。にっこりと微笑めば、隣にいたアレイスなどは、感銘を受けた顔になっていた。それを見るシリュースは気の毒そうに−−皮肉に口元を歪めていた。さすがに、そこで真実を口にするようなことはなかった。別に、セルイアーンの立場を慮ったわけではなく、面倒くさいだけだろうとルヴァンは思った。
「このまま話していたら、気の早い話ばかりになりそうですから、私たちはこれで失礼します」
「ありがとうございました」
 アレイスが手綱を引いた。身内だからか、特に口に出して了解し合うこともないらしい。馬に乗るタイミングも、何の窺いもお互いに渡さしていなかった。
「本当に、ありがとうございました。そして、マリーナをお願いします」
 迫る別れを実感をしているからこそ、表情を静めることに努めながら、アンフィーナの眸は感に堪える様に揺れていた。
「お元気で。色々お世話になりました」
 ルヴァンが、馬上の人に頭を下げると、アンフィーナはそのまま沈みかけた面差しを安堵で晴れさせた。
「君も元気でね、ルヴァン君。……また会いに行くわ」
「待ってます!」
 社交辞令ではないとお互い思っているだけでいい。無意識に笑顔を作れたことで、湿っぽい空気にはならなかった。
 馬が道なりに去っていき、途中、二人は何度も振り返った。別離という区切りで、時を過去に置いていくことを惜しみ、確かめる様に。アンフィーナは手を振り、アレイスが頭を下げる。森を回り込んで見えなくなるまで、四人は黙って見送った。
 セルイアーンは、体の凝りをほぐすように軽く伸びをして、ふうと息を吐いた。
「俺たちも、やんなきゃな」
 これからが、最後で肝心な仕事であり、未知の部分が多いだけに、新たな緊張を生む。
「そうだね」
 魔法やそうしたことに、普段慣れ親しんでいないためか、ルヴァンの反応は暢気に聞こえたのだろう。セルイアーンは呆れながらも、苦笑する。
「ルヴァン、お前の一がんばりに掛かってるんだから、よろしく頼むぜ」
 その言葉に我に返されて、ルヴァンは瞬きをし、相手の少年を見返した。
「……俺?」
 何かの間違いではないかと問い返す顔に、セルイアーンはやれやれと肩を落とした。半ば演技がかっているが、呆れは最初より上積みされている。
「門の場所を探るために必要なものを持ってるのは、お前だろ。これに関しては、俺たちは本当、お前を頼ってんだから。なあ?」
 シリュースに同意を求めて視線を投げれば、無愛想に反らされてしまう。今度は剣呑な呆れに目を細めて、クロエに二つの同意を求めれば、笑顔が受けた。苦笑が混じっているのは、シリュースの相変わらずの無関心さへの同情だと取ることは、たいした期待も要らない。
「ルヴァン君、セルセルの言う通りよ。君がやらなきゃ、始まらないのよ」
 門の場所を探るには、聖剣の力以てしなくては、現代では叶わない。そのために、封印を解ける唯一の人物−−らしい自分が引き合いに出されたのだと言う現実を思い出した。
 ああ、という顔で頷く。項垂れたと言ってもいい、力が抜けた動きになっていた。
 この剣に関わった者たちの複雑で、深すぎる想いの交錯に触れたことを思い出し、胸が締め付けられる。唯一の救いは、剣のかつての持ち主−−アストインの翳りを潜めた面差しだった。
 −−最後にあんたにこうして会えて、よかった。
 社交辞令を渡すような相手ではなく、また偽りを口にする必要性がまるでないというように、そして無理が見えない顔に肩の力が抜ける。
 −−行く未来(さき)に、光り多かれ
 心から、そう願ってくれた。
 交わした最後の握手のぬくもりも、よみがえるようだった。
「できるだけのことはするよ。そのために行ってきたんだから」
「よっしゃ、その意気だぜ」
 まるで深刻性がなく、セルイアーンは軽い調子でルヴァンの肩を叩いた。少年なりの、気安い激励の形だろう。
「クロエさん、でも、どうやって何をすればいいのかわからないんだけど、俺」
 肝心なことを恐る恐る上申する少年に、クロエは首肯した。まるで何も問題はない気軽なことだという顔つきで、真摯さが笑顔を拭うことはなかった。
「今のルヴァン君なら、簡単なことよ。取り立てて難しいことじゃないわ。この期に必要なのは、覚悟とやる気だけよ」
 笑って、踵を返す。
「場所を移動しよう。ここだと、人の好奇の目に触れないとは限らないわ」
 足を向けた先は、村から山へとつながる道で、昨日ルヴァンの帰着点となった場所へ向かうようだった。
 誰も反論を上げず、クロエの後に付く。シリュースも渋々というには能動的な足運びだ。
「見られちゃまずいことなんだ、やっぱり」
 真面目に移動に努める自分の足先を見つめながら、セルイアーンの妙に感心した口調で零した。その横で、クロエが声を立てて笑う。今の天気にふさわしい、明るさに満ちている。
「ていうより、色々聞かれたら、説明が面倒じゃない?」
 どこまで本気か探れない、クロエらしい笑顔で返された。 
「もし見られても、見てなかったことにする魔法を使うとか……あるんじゃないの?」
 セルイアーンの問いに、クロエは肩を竦めた。一瞬、面をかすめた痛み。
「魔法でなかったことにするのは、確かに可能だけど、でも、そういうのは絶対に後でひずみが起こってくるよ。何もかも巧く隠し通せる……なかったことだってごまかし続けるなんてこと無理じゃないかな。事実は……現実は消せないもの」
 珍しく自ずから見せたと思えた深刻さは、すぐに消えた。見返す少年の顔こそ翳ったことを見たからかもしれない。セルイアーンが「ごめん」と考えの回らなさをわびると、クロエは一笑した。
「ちょっと格好つけて言ってみたの。なんだかすごく真実みがあるように聞こえたでしょ? ねっ?」
 隠し通そうとしてごまかそうとしても、無理がひずみとして出てくる。己の言葉を、クロエは具現していた。だが、ルヴァンもセルイアーンも、感じながらも態度には出さなかった。それぞれの慮いは、宥められることもないまま。
 緩やかな坂になった道を上り、途中で道をそれ、木立の中に入っていった。穏やかな日差しが葉陰からこぼれ、きらきらと空気が輝く中、鳥が頭上で歌っている。心を和ませる散策にはうってつけの場所だったが、やってきた四人は誰も、そうした自然を楽しもうとはしていなかった。余裕がないわけではない。少なくともルヴァン以外は、むやみに緊張しては見えなかった。
「到着〜」
 クロエののんきな声と共にたどり着いたのは、まばらに生えた木の間にできた草原だった。広くはないが、四人がお互いてんでばらばらに距離を置いて立っても余裕が十分にあるだろう。実際、関わりなさそうに間を取っているのはシリュースだけだった。無理矢理付き合わされたという往生際の悪さは態度に出していないが、つまらなそうなのは十分に現れている。好奇心も皆無ではないにしろ、それを素直に出す人となりではないことを、ルヴァンはこの場の誰よりも理解している−−シリュース自身よりも。
「じゃあ、ルヴァン君、私が言う呪文を復唱してね」
「呪文……はい、がんばります」
 師の剣がお守りであるかのように、ルヴァンは身の前で抱えて、強ばった顔を頷かせる。この期に及んで、再び緊張しかけていた。魔法に対して何ら抵抗を覚えないほど、やはり慣れてはいなかった。
「肩の力抜いて。大丈夫よ。呪文なんていうのは、あくまで形式的なものだから、思いを込めたら、少々間違っても詰まっても舌かんじゃってもいいの!」
 クロエなりの励ましらしい。気負いはしなくていいという語意は汲め、ルヴァンはこくこくと首を縦に振る。
「おいおい、ルヴァン、大丈夫かよ。最初の意気はどうしたんだよ。クロエさんも言ってんじゃん。無理に同じように言おうなんて考えなくてもいいんだよ。まあ、集中力はいるけどな」
「その点は、ルヴァン君は真面目君だから平気、大丈夫!」
 セルイアーンにも、確証を付けて口添えるクロエにも、緊張感はまるでない。未知なる−−少なくともセルイアーンにとってはそのはずである場所に赴くにも、危機感は感じられなかった。肝が据わっていることに感心しつつ、ルヴァンはこっそり嘆息した。自分なりに気合いを入れたつもりである。二人が気遣ってくれていることは確かで、申し訳なかった。
 ふと、シリュースを見れば、最初より不機嫌そうだった。不甲斐ないルヴァンに苛立ちに眉を寄せ、睨みつけるに等しい眼光を向けられる。
「大丈夫です、はい、やれます」
 一人ではない、少なくとも。
 そう思えて、覚悟はできた。
「じゃあ、剣を目の前に構えて。呪文は私が先に言うから、続けて言ってね」
 クロエはにこりと笑うと、かすかに顎を上げ、まぶしい緑を見上げた。
「其は彼の地にいまし、光の守護者
 我、御方の名の下、今此処に契りを交わす」
 いつかも聞いた音であることに、ルヴァンはほっとなり、すぐに後を追った。剣を鞘から抜けば、きざす日差しをもはじく清らかな光をまとい、輝いている。透き通った刀身に、セルイアーンが感嘆の息を吐く。
「我、天と地の至高なる存在を讃えん、
 而(しか)して、此(こ)と異(い)なる戒めを解き、
 重ね、累ね、彼(あ)と変じん
 原始なる存在、我に宿りて、其の力で満たせ。
 約誓の証を見せよ!」
 全身に広がる熱。それは、決して苦痛を伴わず、やわらかな暖かさに労られる様だった。一度目ではないからだろうか、とふとルヴァンは思った。
「言を作し力を生し、是成し封の環。彼の誓いを敬い我願う。今其の環を解き、閉ざせし封じ道を開き導け!」 
 光が咲き乱れるようだった。周囲の木立−−緑の景色はまばゆく、決して目を刺さぬ光に覆い尽くされた。息を呑むまもなく、足下の力が抜ける。地面が固さを失い、足が沈み込んだ。
 暗転。満ちた光は闇色に拭われ、足裏の不安定さを増させた。
「気持ちをしっかりもって、揺らがさないで」
 きっ、と厳しく立ったクロエの声に、緩みそうになった現実が叱咤される。力強く、“信じる”声だった。
 闇はどこまでも黒く深く、下へと滑り込んでいく体にまといつく怖気を払い落とそうとした。ここはどこなのか、何なのか、全くわからない中で、在る先を信じて堪えるしかない。諦めではなく、そう、思った。
 たどり着ける、きっと。
 まだ掲げたままだった剣が沈黙を終え、澄んだ刀身の内側から光をあふれさせた。最初生まれた光のようにまばゆく、そしてやわらかなものは、安堵だった。そばにいる、セルイアーンやシリュース、クロエの顔が見えるまで、照らし広がったかと思うと、幾条もの光芒が闇へと放たれた。
 闇と光が弾き合い、決して相容れぬもの同士が起こす軋みを感じた。人の呻き、苦鳴、慟哭など、昏く暮れた声が底から這い上がり、抑え込まれていたことに我慢ならないように一斉に響き渡る。光のほさきが未だ辿らぬ闇の中を、人の顔らしきものが過ぎった。憎悪、嫌悪、嫉妬、悲嘆で面を歪ませた表情が浮かび、消える。
 ともすれば、剣を持つ手が震え、膝を崩しそうなほどに強い負の存在が、聖剣の力に抗おうとしていた。一方清らかな光は、ただあふれ、落ち着きを保っていることにルヴァンは自分自身も動じずにいられているのだと思った。
 確かに、おぞましいほどの暗き感情に満ちていたが、一つ一つは誰もが−−誰かが持ち得る、人としての有り体のものだ。そう思えば、得も知れぬ闇だけより、よほど現実味を帯びている。
 そうして、ついには穏やかな光がそこにあったものを打ち払った。
 継いで、足が接地し、急に取り戻した安定さに、却ってふらつきかける。
 光は光であったが、最初は薄暗がりで頼りなく、周りを見渡そうとしている内に、徐々に照度が上がった。
「着い、た?」
 セルイアーンはぼんやりとした声で首を巡らせ、その顔は緊張を解いていた。
「着いたみたい」
 クロエもほっとした声を漏らし、ルヴァンに向かって肩を竦めた。
「でもまだ少し、ね」
 クロエが指さした先−−白い闇の中で、迷わぬよう導くための白い道が奥へと引かれている。終着点は凝らしても見取れなかった。そのまま、突然ふつりと途切れるのではないかと懸念が浮かぶ。
 かすかな振動を伝えてきた剣に、ルヴァンは視線を落とした。自分の手が震えているわけではないことを確かめ、怪訝を重ねる。
「剣が……」
 異常を訴えようとしたところで、クロエが頷いた。全てを言わずとも察知したのか、同時に誰よりも危機感を湛えていなかった白皙が翳っていることにルヴァンは気づく。
「きっと、共鳴してるんだわ……」
 ぽつりとやるせない声。
「共鳴? 何と? まさか同じような剣がここにあるとか?」
 セルイアーンの素直な驚きと不審さに、つられた表情を取ったのは相変わらず無関心で通していたはずのシリュースだった。剣という言葉に惹かれたのだと、ルヴァンは肩に掛かる新たな疲弊を感じた。
「鍵よ。鍵がまだ残っているのね」
 すうっと息を吐き、クロエはまぶたを伏せた。その上にかぶる切なさ。
「かすかだけど、感じる。間違いない……気のせいなんかじゃない」
 強まる確信に、クロエの中で悲しみがますます膨れあがっているようだった。潤みかけた黒眸から意気が失われない内にと、うつむきかけた顔が上がる。
「行きましょう。本当、後少しよ」
 そこで、全てが終わる。
 −−そのために、ここへ来たのだから。 
 踏み出していけば、一筋の闇が音もなく降り立っているのが見えた。地を穿っている、仰いだ天にあるはずのはじまりは見定められない。
 そのひそやかに、確然とある闇に寄り添っている細い影が見えたのはまもなくだった。側には、おぼろげな光点が浮かんでいる。
「人が、いる?」
 セルイアーンの声が軽く驚きに触れた。だが、不明なものへの警戒心は伺えない。まっさきに、思いもよらない存在の不思議さに好奇の方が動いている。
「こんなところに人が?」
 まさかという思いにルヴァンも思わず倣い、目を凝らした。だが、眇める必要はなかった。一歩踏み出すごとに、その影が詳細を映し出してくる。
 長い黒髪を艶やかに背へ流し、華奢で小柄な身をたたずませている。無心に立ち尽くしているというには、何か慮いを抱えたように静かな面差しは、無遠慮な視線を寄せ付けない。
 目を伏せたままだが、その美貌は遠目でも把握できるほどだった。完璧とさえ言える類い希な美しさを具現させたようで、また、残る幼さが、何も損なっていない。
「似てる……?」
 我知らず呟いてしまったルヴァンに、横に肩を並べていたセルイアーンが唇を尖らせた。
「似てないよ」   
 全然、と付け加えて憮然となる。腹立たしい思いを抱えるほど、先に立つ人物が自分に似ていることを認めざるを得ないのだろう。
 年も若干違い、そなえた空気はまるで違うが、そこに立つ絵だけを抜き取れば、同じと言っても過言ではなかった。雰囲気の違いで、同一人物ではないと踏みとどまれる。
「クロエさん、あの人……」
 唯一事情に通じている女性に訊ねようとして、収まったかに思えていた剣の鍔鳴りが復活した。先よりも小刻みに、力強い震えを伝えてくる。
 共鳴−−鍵の存在を察知した故の剣の反応。 
 導かれる、わかりきっていたはずのものに、ルヴァンは息を呑んだ。
 門を開く鍵であった、シュルドの王子。そして、対である閉じる鍵として存在した人物−−。
「あの人、も、セルイアーン?」
 問いは外に出ていないつもりだった。だが、呆然と零れていた。
「シュルドのお姫様、ってことかよ」
 信じられない思いは、隣のセルイアーンも同じらしく、気むずかしそうに眉を寄せている。
 −−何故。
 千年近く前に生きた人間がいまだ在ることに不審は速やかに繋がった。幻覚−−過去の投影ではないかと、順当な考えもあったが、この場からは確かめようがない。 
「あの子は、ずっといたんだよ」
 クロエの声は、感に堪え損ねたものだった。黒い眸は潤み、じっと見つめている。
 先にたたずむ少女が、動いた。そう認めた時には、できすぎた彫像ではないことの証として動きを見せた瞬間を見納めることはかなわなかった。
 伏せられた瞼はそのままに、白く澄んだ貌が自分の元へとやってくる者たちへと向けられた。
 警戒も、敵意も、不審もなく、ただ見返していた白皙が、不意に綻んだ。儚さしかなかった面に活きた緩みが起きる。
「また、お会いできた事を嬉しく思います」
 限りなく穏やかな声。それは、ルヴァンの中でぴたりと符合した。
 −−きっと、これで終わりです。あなたに導かれた未来が、穏やかなものであると、私は信じております。
 相手の心に染みこみ、落ち着かせることのできる静かな音だった。
 そうして、見開かれた眸。
 焦点の定まらない双瞳は希有な紫を湛えていた。


第五章 白き約束の果てに  完

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