終章 Vixi et quem dederat cursum fortuna peregi.

 訪れられたことへの代償として言葉を奪われたような来訪者に、儚い人影はゆっくりと会釈をした。ごく、有り体なしぐさで、無視できない気品がある。出自を知れば、納得のいく話だった。
「ひさしぶりだね……セルイアーン姫」
 クロエは複雑にせめぐものを押さえることができないのか、声が震えていた。
 応えて、少女は微笑む。そうすることしか対応できないという悲しき術ではなく、相手の心を受け止める自然なもののように思える。無理は見えない。
「お久しぶりです、クロエ様」
 瞼は再び閉じられて、静かな美貌は笑みを含んだままだった。
「ここへいらした目的は、こちらでしょうか」
 繊手が上がり、傍らの光を己の前へと導いた。今にも消えそうに薄儚く、かすかに明滅している。
「まさか、これ……」
 セルイアーン−−少年は息を呑んだ。触れずとも、その不思議な光の正体は察せられたのか目を瞠る。ルヴァンは話が読めず、沈黙を保って先を待った。
「アニーちゃんのおともだち、だね」
 答えはあっさりクロエが出してくれた。
「歪みが起きて、間もなくでしょうか。こちらへと迷い込んで参りました。ここから無理に帰そうとすれば消えてしまう可能性もあった。そのため、わたくしの元にずっと。わたくしの力が至らないため、申し訳ありません」
 心苦しそうに眉をひそめると、儚さが増し、見る者の胸を痛める。
「あなたが謝るようなこと、ないよ」
 相似した容姿を持つ少年は、慌てて宥めを口にした。口にしてから、とまどいに唇を閉じる。改めて、よく似た顔と真向かったことを認めたように躊躇っていた。
 稀代の精霊使いと謳われていた少女は、微笑みを確かな笑みへと深めた。
「不思議な感じです。来てくださったあなたがたとは……クロエ様以外とは初めてお会いするはずなのに……懐かしい気がいたします」
 そっと胸を押さえ、嬉しそうに笑う。何もごまかさず、作為のないものはきれいなままに映った。
「あなたは、ずっと……ここにいたんですか」
 ただいるだけ、と言うには途方もない時間が“かつて”から流れている。とうてい、この痩身では耐えられそうにない、壮絶な孤独を思えばこそ、ルヴァンは憐憫を感じずにいられなかった。セルイアーン姫の意思を思えば、相手にとって欲することなき、侮辱的な同情でしかない。わかっていても、押さえられない。
「それが、わたくしの役目ですから」
 異界へと通ずる門を閉じ、隔絶する鍵−−世界において、唯一無二の存在。サティエが、門を開ける唯一の存在であった様に。
 その一言で言い切るには、少女にも当然乗り越え切れず、抱えたままの想いも深くあったはずで、白い頬に翳りが差した。どこか、自嘲に近い。
「兄の罪を食い止めることは、わたくしにしかできませんでした。それだけのことです」
 それだけではない。言葉にしたものが全てではない。浮かびそうになる想いを相手に汲み取られる前にと、笑みで遮ったようだった。
「門は、もうないんだよ、セルイアーン姫」
 クロエが零した事実にも、少女の表情は変わらなかった。
「わかっております。ここにある門が、残された一つです」
「もうそれは、門としては機能してない、のに?」
 ただ落ちる、黒い一線。本来の姿がどのようなものかわからないルヴァンたちは、もう一度見上げ、視線で辿ることしかできない。そうした行動では、何もわかるはずがないと認めていても。
「わたくしの至らなさが、人としての至らなさが、門を絶えさせることができず、過去の残滓を消しきることができませんでした……」
 初めて、少女の貌に苦渋が滲んだ。それでも、俯くことはなく、いかなる責めも受けて立つ強さがあった。形(なり)とは結びつかないほど、したたかだった。
「ここは、異なる世界への入り口でもあり、人の暗部にこごるものが集まりやすい。故に、さまざまな歪みを起こし、ありえなかったはずのものまで生み出してしまった。
 多くの人の尊厳を傷つける結果となり、あなたがたにも多大なご迷惑をおかけしたのではないかと思われます」
「きっかけは、不完全な鍵だね」
 アレイス王子が実験で行使した呪文。鍵である人物が発動して初めて、鍵として機能を発揮するはずの魔法だった。
「懐かしい。けれど、それはあってはならないものです」
 鍵の能力を持った者は、もうこの世には生まれない。則りはしずかに変成し、人の記憶に埋もれ、代を重ねて忘れられるだけのものとなっていた。
 事実は、数多の『真実(げんじつ)』から、人々が選んできた『現実(かこ)』によって作られた。闇は闇として、光は光として、在るべき姿にはめこむことで、後の世に障る全てを忘れようとしていた。
 だが、この儚い少女は、そうした現実も知らないはずだった。その上で、言葉を重ねる。
「もうずっとこのまま、ただ朽ちて無に帰していくのなら、それが最善だと思っておりました」
 死に等しい言葉を口に乗せることに、わずかの怯みもない。
「もう……終わってるんだよ?」
 クロエの悲しげな問いに、セルイアーン−−シュルドの王女は緩く唇を閉じた。整わないことばを、一度とどめるように静かに。
「……わたくしの中の、忘れえない気持ちが消えなかったために、終わりは足踏みをしています。今回のことは、全てわたくしの咎です」
 すっと息を吸い込む仕草で弾みをつけたように、深く頭を下げた。表情を隠す挙動ではない証拠に、顔をきちんと上げてから声は継ぐ。
「あの方に煩わしいもの全てを押しつけ、安全な孤独を選んだわたくしの罪深さをどうかお許しください」
「そんなこと……」
 自責は自虐ではない。それを察せられればこそ、ルヴァンは目の前の少女の抱えた辛苦の過酷さを感じずにはいられなかった。
「でも、あの方はやはり守ってくださったのですね。あなたがたにこうしてお会いすることができ、わかりました」
「でも本当は、悔いてなんかないんでしょ」
 クロエの指摘に、少女はひっそりと笑った。儚い美貌に染みこむ、かすかな想いは否定ではない。
「先ほども申しましたように、兄の罪を購うことがわたくしの役目。わたくしは、わたくしの役目を果たすことが、この世界への償いになると思いました。この門が残らず存在を消してしまうまで、まっとうするまでは、役目を放棄するわけにはまいりませんでした」
 誰かに課せられた義務ではなく、選択肢はいくつもあったはずだ。けれど、少女は自身に業を課し、努めた。そして、世界は救われた。
 −−人のために正しいことであっても、誰もが望むこととは限らない。それでも、あの人は“正しい”と他人が評価してくれる選択をしました。
 イザティスのことばが当てられた者は、アストインだけでない。“闇”に荷担した兄と対立し、そのたぐいまれな精霊使いの力で名を残すことになったシュルドの最後の王女も、また。今残る物語のほとんどは、当人たちの想いをすくってはおらず、美しく輝かしく、夢を与えるものになっているのだろう。
 少女は、決して英名のために行ったわけではない。アストインも。ただ気にかけているのは、誰かの幸せだった。
 −−あいつが愛したこの世界を守りたかった……失いたくなかった……本当に……。 
「けれど、ここに来て、鍵に近しい力を感じるとは思いもよりませんでした。そして、この門が門として存在する力の残片が反応をしたということです。もし、この門がなければ、たとえ鍵らしきものがあろうと、何も起こらなかったはずです。つまり、きっかけは鍵ではないのです」
 何が最初で、後なのか。本来の問題はそこではなかった。
 そうしたことは、少女自身わかっているのだろう。それでも、今回のことは全て、消えなかった門の存在ゆえ引き起こされたのだと、事実を罪状の筆頭にあげたかったのだ。自責の念に駆られているわけでも、そうして責護でもって赦しを請いたいわけでもない。少女のまっすぐな姿勢がそれを語っていた。
「訊いても、いいかな」
 自分と−−控えめな表現で近しい容姿を持つ少女を相手に躊躇を挟みながら、セルイアーンは口を挟んだ。
「なんでしょうか」
 恐れひるむものは何もないことを示す様に、毅然としたまま。これが、少女の強さだとすれば、手放しに感嘆することにはためらいがある。それは、ルヴァンだけが抱いた思いではなかったようだ。
「サティエ……君のお兄さんの精神が他の人間の中に入り込んでいた。これは、本人が君のようにまだ“生きている”からではないの?」
 普段より語調はやさしいが、緊張が柔らかさを損なっていた。それでも、知りたいことの一つなのだろう。
 アレイスの精神を乗っ取っていた憎しみの化身。幾度とルヴァンたちの前に現れ、ただの殺意など稚いと言える−−底見えぬ深さを持った憎悪をぶつけてきた。黒眸の中の暗い熾火は、青年にとって絶望と等しいものだったかもしれない。
「兄の魂はもうこの世界の何処にも存在しておりません。わたくしの言葉を信じて頂くしかありませんが、門を閉じた時点で、兄は消滅しました」
 死を直接的な言葉にしないことが、気丈に見える少女の精神に障る疵の深さと結びつくことはなかった。静かに、問いに答える。
「ここには、あり得ないものを作り出す、主に人が心の表に出ることを戒めたものがつどう場所なのです。あなたがたの前に現れた者が、もし、過去の者であったのなら、それらは全て、増長されゆがめられた虚像です」
「魔物も、そうなのね。あのころ、王子と共にいた……」
 クロエは最後まで続けられず問いとして成り立つことはついになかった。やりきれないように口を閉じる。
「兄の思いと、彼らの思いは強固に結びついておりました。許されないことでしょうが、人として憧憬を抱けるほどに強い信頼関係があった。異界の者たちは、自分たちの悲願を叶える者は兄しかおらず、縋る者が他にいなかった。兄にとっては、異界の者たちを擁護し、彼らの願いを叶えることが宿願でした」
 救う者と救われる者。言葉ではこれほどに単純でも、根付く思慮の深さは計り知れない。
「願い」
 誰かが、呆然と呟く。これもまた、やりきれなさによるものだった。
「この世界で住むこと。皆と等しく」
 救世(くぜ)の者の一人であったはずの少女は、皆、と並べることに何ら抵抗を示していなかった。
「人として、自分ができるだけのことはやり遂げました。しかし、結果としては、あまりに不完全でした。
 その後始末を、アストイン様に押しつけた。あの方のお優しさを当てにしてしまいました。最後まで、わたくしはあの方に迷惑しかかけることができませんでした」
 その悔いが、少女を今にしても存在しからしめている。言外に語っていた。声は弱く、伏せがちになった面は、今まで通じていたはずの芯を失い、あまりに頼りない。
「できるだけのことをやったのなら、いいじゃないですか。それ以上のことやれだなんて言う人は、あなたたちのことをちっともわかってない人たちなんだから、いいじゃないですか」
 堪えきれなかったわけではない。けれど、沈黙で埋めたくはなかった。
 シュルドの王女は、意識を叩かれたように顔を上げた。光点のない双眸がぼんやりとルヴァンに向けられる。
「アストイン様……」
 他人のものだからこそ、敏感に汲み取れるのか。少女の声には明らかに思慕があった。焦がれてもせんないものと堪えた辛さに、きっと本人は気づいていない。
「アストイン?」
 少女を見、ルヴァンを見、怪訝にセルイアーン−−少年が眉を寄せる。
「俺はアストインじゃないよ」
 転生とは違う、自分でも理解できたとは言い難い仕組みをとてもこの場で説明できそうにはない。
「……そうですね……失礼しました。それにしても、あまりに似ておられます」
 見えない目で何を見ているのか。少なくとも容姿ではないだろう。
「違うけど、でも、俺は、アストインの確かめたかった未来なんだと思う」
 王女の手が上がった。しめやかな動きでもって伸ばされる。その細い手をルヴァンは両手で受け止めた。不思議な感触だった。確かな実感を持ちながら、どこかおぼろげに軽い。小さな手は見た目以上に細く、あまりに頼りなかった。
 白皙が綻んだ。かすかな笑みが広がる。
「人が人としてこうして生きられる。そういう世界が早く訪れていれば、多くのことは起こらずに済んだかも知れません。それでも、今となっては全て繰り言」
 手放しで喜ぶには、複雑な想いに阻まれるのだろう。ただ、暗さはない。
「お姫様たちは、よくやったんだよ。誰にもできないことを誰よりも一生懸命やったんだよ。だから、もっと胸張っていいんだよ」
 クロエの狂おしさを押さえきれなかった声に、少女は小さく肯いた。こくりと幼い挙動だった。
「わたくしもアストイン様も、そして兄も、全ての人に等しく認められる行為を行えたわけではありませんけれど、信じる力はきっと同じでした」
 ルヴァンの手の中で、少女の手は逆に握り返してきた。触れている部分がほのかに温かいが、現実味は薄い。
「こうして、どちらの行為も間違いで通したことではなかった証明されています。
 ……あなたのお名前は?」
「ルヴァン」
 反射的といえるほど、間を置かずに答える。相手の知りたいと思う、自分も知り得ることを答えることが、少しでも少女たちに報いられればと思えばこそ、急くように己の名前が出た。
「ルヴァン様、あなたは生まれてきてよかったと思ったことがありますか? 幸せだと感じたことはありますか?」
 問う主は幾度と変わり、きっと望むものは皆同じ。
 またか、と飽くことはなかった。これほどに強く、王女たちを支えてきた思いだと胸を押される。
「あなたが思っているよりずっと、生まれてきてよかったと思うこともないくらい俺は幸せでいられてます」
 誇るように確固たる音に、少女の微笑みは澄んだ。翳りは見えずとも、どこか薄く覆っていたものも払い、晴れ上がったように映る。
「あの、あなたは……」
 ルヴァンは、少女の笑みが保たれている間に問おうとした。
「あなたは、幸せでしたか」
 門を閉じる鍵としてさだめを全うし、人に於いては気の遠くなる時間を独りで過ごしてきた少女にとっては、下手をすれば痛みしか伴わない問いだとわかっていた。けれど、他人の幸福ばかり気にかける優しい人たちに、同じものを自分へ向けて欲しかった。
「ええ。あなたが思っておられるより、ずっと」
 似合わない揶揄をかすめさせながらも、凛とした声に、ルヴァンは胸の底から安堵がじんわりと広がっていくのを感じた。
 よかった、と鵜呑みに信じ込めてしまう。
「アストイン様は本当にお優しい方でしたから、残ったわたくしに対してきっとご自分を責められたことがあったのではないか……そのことが、わたくしにとっての心残りです」
 本当のことをそのままにさらけ出すまいとしなかったのか、他人が知るよしもない、二人の間にあった距離のためなのか。王女の顔が、また翳った。胸を痛めている面差しとしては非常にわかりやすい、痛々しさが映る。
「優しい人だから、もちろん気にして気になって仕方なかっただろうけど、他人を思いやれるのは、自分が不幸だと思ってたらできないことだと思う。あなたのように」
 アストイン本人に確かめたわけではないが、封印を賭けた剣合わせの折りに現れた過去の投影−−青年は暗がりに塞がれた顔をしていなかった。
「……ありがとうございます」
 自分では気づけなかったものを差し出されたように、軽く息をはむ間があった。単調な驚きだけではなく、安らぎに似た穏やかさを残して、頷くそぶりとあわせ、笑みを浮かべた。心の向きをさだめ、意思を揺らがせない意気を確かめてか、強く。
「本当にありがとうございます、ルヴァン様」
 そっと手を離すと、王女は天を仰いだ。光はどこからも降り注がず、周囲に満ちた空気自体が力ない光を点しているようにぼんやりと白い。ぬくもりもつめたさもない空間に瞼を伏せ、厳かな面をつくりあげた。
「私が消えれば、この門も消滅いたします。この場所の存在も失われてしまいますので、どうそ、お引きとりください」
 己の消滅−−死に何ら抵抗がないのか、少女は穏やかなままだった。しんと凪がれた面は、告げる意を解する者の胸を手抜きなく圧す。
 死を迎える覚悟−−怖くないのか、という問いは、あまりに無遠慮で無知で、愚かなものだとわかっていればこそ、ルヴァンは唇をかんだ。
 この閉じられた場所で、閉じていく崇高な精神を宿した生命。
 もどかしさに駆られるようにルヴァンは手を伸ばし、王女の手を引いていた。
「行こう」
 思うより前に手が出ていて、慌てて声を追いつかせる。
「ルヴァン様……?」
 予想しなかった行動に、少女は躊躇いを浮かべた。
「せめて、今の世界を見てから……あなたたちのおかげで在ることができている世界を感じて欲しい」
「そう、だね。私もそうして欲しいよ。セルイアーン姫」
 クロエはルヴァンの申し出に心から賛同し、嬉しそうだった。強要まで踏み出さなくても、強い願いが込められている。
「でも……」
 見せた揺らぎはどちらへのものなのか。慮う間も置かずに全否定をしないことが語っている。
「できないなんてこと、ないよ。私たちがいる」
「クロエ様……」
 見えない双眸と共に声にも潤みが重なり、王女は白い貌から笑みを消した。浅からぬ躊躇による緊しさがかすめ、動かなくなる。悲しみはない。
「あなたが少しでも見届けたいなら、迷うことないよ」
 一押し、になれたのか。
 ルヴァンに手を預けた少女は、長い長い沈黙をつないだ。せめぐものは、昔日から抱え、計り知れないほど複雑になっているのだろう。強く願いながらついには見ること叶わなかった、同じ時を生きた者たちへの引け目が一番大きいのかも知れない。 
 肯く。
「感じたいです−−この目で、見たい」
 相手を立てるためだけのものではなく、押さえきれなかった、偽らざる願い−−最後の。


 最後の願いを口にしてから、ではすぐさまにとはいかなかった。王女には永き間守ってきた責務があり、この場を離れれば連動して門が消滅するというわけにはいかないのだろう。門の存在と−−自身の存在を止める仕上げが残されている。
 少女は、己の背後に突き立つ門を仰ぐ。ルヴァンとは手が離れていた。
 無音に立つ黒の一条は、凝らせば、境界を滲ませ、白と解け合おうと揺らめいている。ただ放置された過去の遺物ではない。意思のようなものがあった。
「申し訳ありませんが、戻る術の方をお願いしてもよろしいでしょうか」
 細い背が問う。
「うん、わかったよ」
 クロエが間もおかず答える。少女の気が変わらない内に、と逸らされているのかも知れない。
 ルヴァンは、ふと思った。戻る術−−この場から逃れる術を王女自身は持ち合わせていなかったのではないかと。門を閉じに赴く時、自分は帰れないことを承知していたことを改める非情さ。戻る道を断つ、死と等しい未来をどのような気持ちで受け入れていたのか。頼りなげで華奢な容姿には、同情を寄せつけない強かさがある。真面目な精神が当然のように選んだだけか、とルヴァンは思い、今の時代に生きる自分たちにはとうてい縁が遠い自己犠牲的な行為にやるせなくなった。
 誰かのために。
 ただ、それだけのために。
「彼の言に光りあり、董(ただ)し煌(きら)はうつつなり
 而して偽りなくも、あえなきものなり」
 少女の唇から、詞(ことば)が響く。呪文というには、伸びのある透明な声が美しく紡ぐものはまさに歌だった。
 はじまりを見たクロエが、ルヴァンを顧みる。
「それじゃあ、私たちは帰る道を作らなきゃね」
「どうやって、ですか?」
 自分の方に向かって促され、戸惑ってしまう。張りかけた肩を、クロエは軽く叩いた。
「ここへ来た時のものと同じでいいんだよ。あれは、いかなる場所へも道をつなげられるものなんだから」
 時間は多くはない。早くと言外にせかしていることを感じ、なおさら慌てる。
「其は彼の地にいまし、光の守護者
 我、御方の名の下、今此処に契りを交わす」
 忘れているわけではなかった。
 シリュースから預かったままの剣を握る。当の持ち主は、嫌々ついてきたというには複雑な渋面で、つかず離れずの場所にたたずんでいた。ちら、とルヴァンが見ると、苛立った視線が返ってくる。
「闇は闇なり、光は光なり
 斯くして端境を導くもの、なりたつことかなわず
 世の儚き、常はあゆき、さだまらず
 在りしは在りなき」
「我、天と地の至高なる存在を讃えん、
 而(しか)して、此(こ)と異(い)なる戒めを解き、
 重ね、累ね、彼(あ)と変じん」
 二つの異なった呪文が空(くう)で絡み合い、二つの違った力は相容れないものなのだろう。空気のきしみを肌に感じた。聖剣の力はルヴァンの手の中で満ちるに収まらず、あふれた−−まばゆくも、目を刺さぬ光として。
 闇が瞬き、足下が浮き上がった。そして、体に触れる空気が重く圧しつけてくる。耳鳴りを起こす甲高い唸り−−軋みは鬱積してきた人の昏き想いのなごりなのか、長引く悲鳴のように耳の奥で反響した。
「努、忘れることなき かなわぬは、儚き至らなさ
 乞う、赦しなく ただ虚しき
 閉じ封じ 絶えん やぶれぬ夢」
 王女の声は揺るがなかった。ゆるやかで優しい声音でありながら、周りの闇には全く動じていない強かさでもって通されている。
「言を作し力を生し、是成し封の環。彼の誓いを敬い我願う。今其の環を解き、閉ざせし封じ道を開き導け!」
 唱え終えたのは同時だったのか、もはや空気の唸りは己の内側から発しているのではないかと思えるほど大きなものになっていた。 
 見えない巨大な手に全身が握りつぶされるようだった。自分の体が浮いているのか沈み込んでいるのかも定まらない。息苦しさに声を奪われ、痛みも苦しみもあらわになることはなく、情けない醜態を周知のものにすることは免れた。
 逆らい、目を開けようとしたが、まぶたが重く閉じて上がらない。夢の中で目を覚まそうとして、どうしても目を開けることができない、あの感覚に似ていた。そのとき、自分が目を閉じてしまっていることに気づく。感覚が曖昧になっていた。
「あと、すこし」
 焦がれる声は細く、想いが強い。耐え抜く力を己に叱咤させている−−そう思えたのは、自分自身に据えようとしたからかも知れなかった。
 はるか昔、人に於いて気が遠くなるほど時の彼方、アストインや王女たちはこの闇に耐え抜いた。門を閉じることに邁進することに何の負もないはずがない。思うようにいかず、思いを叶えられなかった空しさはぬぐえない悲しみを培って、あの青年からも、この王女からも、心からの明るい表情を奪ってしまったのではないか。そう思い、気づけば、やるせなさが重みを増す。圧し潰そうと苦痛を押しつけてくる闇の力よりも、重い。
 悲願ともいえる、アストインたちの願いが本当に叶っていると、世界は今も美しく在ることを感謝の意として見てもらいたかった。提案をした時、反論の声は上がらなかったということは、他の者も少なからず同じことを思ったのだろう。思わずにいられなかった。
「頑張って」
 今度は、クロエの声だとわかる。活力を与える明るさが、導く一筋の光りとなる−−瞼裏に白く灼きつく光りを感じ、その強さに怯みながらも、欲する思いを抑えられずに見開いた。今度は抵抗無く、自分の力で押し上げることができる。
 光りの遮りが吹かぬ風に煽られ、晴れ上がるようだった。
 来た時より、やはり陽は時間の経過を知らせつつも、まだ空の青はそのままで、鮮やかに広がっている。目を刺すきつい陽光すら、愛しく思えた。森の端、切り立った崖の上にルヴァンたちは戻っていた。眼下には、一晩を過ごした村があり、安穏な昼に包まれている。その周りには緑が深く、果てへ果てへと視線を促しても、緑は途切れず、豊かに繋がっていた。
「……美しい世界です……」
 感に堪えかね、震える声は王女のものだった。
 光を失ったままの瞳で、少女は感銘を胸に封じ込めるように両手を胸に押し当てていた。大切なものを、これ以上失わないように。
 見えぬ瞳で、何処まで“見えて”いるのか。
 王女は周りの危惧をよそに、細い顎を少し上げ何かに耳を澄ませているようだった。精霊の声を聞いているのだとわかったのは、同じ名を持ち、同じ力を持つ少年の耳打ちのおかげである。
 聞きこぼしのないように、そして囁く者への愛情に満ちた横顔は、似た顔を見慣れてしまった目にも、きれいだった。純粋な想いだからこそ、胸を打つ。
「アストイン様は……守ってくださった。あの方に繋がる人たちもまた、守ってくださっているんですね……」
 それだけで十分だと声の震えを押さえられない白い頬に、透明の雫があふれ、筋を作った。言葉にならず、できそうにない想いをとめどなく流す。言葉はいらない。満ち足りたその顔だけで、十二分に伝わってきた。
「全ての命に幸せな世界など、ありえないこととわかっていても、少しでも幸せにと人は願ってしまうものです」
 愛想のない、現実への固持をもってしても消しきれない真実も、少女は誇らしげに顔を上げている。繊麗な貌に浮かんだ笑みは自然で、心からの笑顔だった。
 見えぬ紫の瞳が、ルヴァンに据えられる。
「ルヴァン様……わたくしは幸せです。誰に対してであろうと胸を張って言えます」
 かみしめるように、照れにはにかんだ美貌はあどけない。偽らざる本心を口にするにふさわしい、何も隠さない表情だろう。
「ありがとうございます」
 他に適当なことばがあったはずで、お礼を言うなど、かみ合わない無様な会話である気がした。そのおかしさに、どうしたものかとあぐねる少年に、王女は笑みを深めた。
「わたくしからも、お礼を言わせて頂きます。此処につれてきて頂かなければ、わたくしはどうあっても捨てきれず、抱えたままだったと思います。……わたくしは、諦めが悪いですから」
 自分を卑下しても、卑屈さも自嘲もなかった。かすかに笑う少女の姿に、向こう側の緑が透けていた。昼の光りもすり抜けるその足下には影は落ちていない。そよぐ風も、少女の姿には触れていなかった。元から、存在が希薄だった少女から、現実味を奪い−−存在する力が失われている。とうに消滅しているはずが長らえていた奇跡を、無情に消そうとする時間の隔てだった。
「ありがとうございます」
 完全なる死に怖じず、少女は顔を上げたままでいた。永遠に見る力を失ったかと思えていた双眸に、意思の光を見た。強くくじけず、澄み切った瞳は、色を違えても人を惹きつけることができるだろう。
「どうか、あなたがたの行く末に、幸多からんことを……」
 消えていく痩身に、誰も別れの言葉を渡さなかった。とうに肉体は失っており、精神だけで在り続けることを可能にしたのは、少女の想いの深さだろう。分かたれた人、分かたれた世界への思慕は、妄執とも言い換えられるかもしれない。
 完全に死んだ、ということは、あまりに非情な現実の表現な気がした。
「あの人は、この世界へ還ったんですよね」
 人生を賭してでも守ろうとした愛しい世界と、何にも阻まれず本当の一つになる。
「そうだね」
「そうかもな」
 クロエと、セルイアーンが感慨深げに同意し、離れた場所にいるシリュースは、無関心な顔で青く澄んだ空を見上げている。興味をまるで引かない様子でいて、少なからずのせめぎは他の者と等しくあったのだろうとルヴァンは思った。変わってないようで、普段よりしかめつらのようでも、アスガールの血が流れていれば、断ち切れる他人事ではない。
 クロエが深く息を吸い込んで、安堵の息と共に天に負けじと表情を晴れ上がらせた。
「おかえり、セルイアーン姫。今までお疲れ様」
 曇りのない声につられ、改めて囲む自然へ首を巡らせた。見慣れ、意識に馴染んでしまっている色だが、その尊さは当たり前だからこそ、だろう。精霊と光に満ちた世界を願い、深い疵を残すことを覚悟でやり遂げた人たちの偉業−−まさに偉業の末だった。
 アスガールを初めて訪れた時、その恵みの深さに感動したルヴァンの想いと近しいものを、王女はきっと感じたのだろう。無用な言葉を奪い、こみ上げる愛おしい気持ち。誰もがいつも感じられているなら、この平静の世はさらに長らえることができるだろうとルヴァンは思った。
「俺たちが当たり前と思えること自体、アストインたちのおかげってことだな」
 自分と同じ顔がいなくなったことでも安堵をしているセルイアーンが、趣深く零した。同時に、アスガールの次期当主としての自覚が促されたかどうかは、横顔からは汲めなかった。
「師匠」
 ルヴァンが呼ぶと、心底厭そうな顔が向いた。完全な帰路に着くまでは徹底して無関係を装いたかったのだろう。
 仕方がない性格だから仕方がないのだと、わかりがよすぎる諦念で深く追求はせずに、剣を差し出した。今度は、黙って受け取る。
「長い間貸してくださって、ありがとうございました」
 時間的には二日程度だが、青年にとっては晩秋の思いだっただろう。その申し訳なさも込めて礼を言ったつもりが、睨まれた。
「俺は貸したつもりはない。必要な時に必要な時が使っただけだろうが」
「やれやれ、シリュースは本当ねじ曲がってるね。自分じゃなくって悔しかったんじゃないの?」
 含み笑いをするセルイアーンを、さらに研いだ視線が刺したが、さらに笑みが深まっただけだった。
「俺はそこまで幼稚じゃない」
「シリュースの剣執着癖は幼児も真っ青だよ」
 今度は実力行使で頭をこづかれたが、けろりとして笑い出す。慣れても痛みは痛みとして堪えるルヴァンとは違い、元から強かなようだった。
「それじゃ、帰ろうか。お待ちかねなんだろうから」
 クロエの切り替えに、シリュースは憮然となる。自分への当てこすりに取れるだけ、自覚があることを見事露呈していた。
「その、マリーナさんは、どうするの? どうやって持っていけばいいんだろう」
 クロエの手元に浮かぶ光点は、陽光にかすむように弱く頼りない。消して近くはない距離をどうやって移動させたらいいのかと、セルイアーンは早くも不安を浮かべた。
「何も、心配はいらないわ」
 笑って、クロエは腕を掲げ、光りを高みに導く。よろよろとおぼつかない動きで倣いながら、輝きが増した。帰れる、という意思があるのか、喜びに力をつけたように見える。
「大切な人たちが待ってるよ」
 優しい声を合図に、マリーナの精神−−魂である光りは空へと勢いよく舞い上がった。最後に一度点滅をし、星のようなきらめき残し、見えなくなる。
「だ、大丈夫なの? あれで」
「大丈夫大丈夫。人の思いって強いんだから、あの子も帰りたくてたまらないんだから、絶対に間違えずに帰れる」
 あまりに簡単な作業を見守り、不安を上積みさせたセルイアーンに対し、クロエはあっけらかんとしている。絶対という曖昧な言葉で飾りながら、一理あることに、半ば納得する顔になった。
 高く蒼く澄んだ空、広がる森や草原を撫でてきた風を感じながら、誰も次をすぐには出さなかった。ルヴァンも、ただぼんやりと眺めるには惜しい光景を眺めつつ、決まった覚悟に自ら踏み出すことができない。寂しいのだと思った。思って、ああそうかと溜飲できるほど、胸の中の一部が虚しく冷え込む。
「これで、今度こそ全部終わりってことか」
 一番疎んじていたはずのセルイアーンが、致し方ない顔で口にし、ため息で締めた。
 せっかく上げていた視線を地へと俯かせて、ルヴァンよりも強く別れがたさを感じていることは一目瞭然だった。アスガールに帰ることや、継ぐことを厭うているのではなく、誰もが見抜けない“セルイアーン”に戻る空しさを感じているのだろう。何も気兼ねない−−比べようもなく気負いのない半年間を過ごしたからこそ、離れがたいようだった。
「ルヴァン君も言ってたじゃない。終わりは終わりだけど、終わりじゃない。これから始まるんだよ」
 気休めや、安易ななぐさめのつもりはなく、自信が信じ切っているからだろう、セルイアーンに顔を上げさせた。
「ちょっと感慨にふけってただけだよ」
 口を尖らせて、幼い拗ね方をするだけ、自省を促す照れがあった。美しい少女に見まがう美貌で、少年らしい笑みがかすめた。
「それじゃあ、どうするよ。ルヴァンたちはここからそのままガスア帰るんだろ? クロエさんは?」
「私もここから帰るよ。帰りたくないけどね」 
 さりげなく本心を付け加えて、セルイアーンと笑顔を見合わせた。だが、事を為し遂げた爽快感はどちらにもない。
「また遊びに来てよ、アスガールに」
 この場で、ただの名残惜しさから社交辞令を言う少年ではない。クロエが大きく肯いた。
「うん、行く行く! ガスアにも遊びに行くね!」
 約束を交わした“二人”の精霊は、根っこは同じ真面目さにある。だから、約束を忘れず、必ず守ってくれると信じてもいなかった。改めなければならないほど、相手に不信を持ってなどいない。
 未来への約束をできる、守れるとわかりきれる、その幸福を今更にかみしめた。
「はい、待ってます」
 答えるルヴァンの横でシリュースが厭そうな顔を隠さなかったことは、見なくてもわかった。音にして言わないだけ、まだましだろう。頑として態度を変えない“らしさ”に、苦笑が浮かんでしまう。 
「うーん、でもさ……帰るのは明日でもいいよな?」 
 言いにくそうに、切り出す。セルイアーンの間合いの良さが幼くもあり、場を和ませた。
 平和な−−穏やかな空気に包まれていた。


 少しでも長く、という気持ちは誰も同じで−−シリュースは消極的であるにしろ、反論がなければ同意とセルイアーンに片づけられていた。村の宿で出される料理がことのほか美味しかったことが、青年に一人帰路を急がせなかっただけかもしれない。そうでもなければ、一人で先に帰ると言いだしかねなかった。
 一晩中、半年以上共にした時間を振り返って話は尽きないかに思えた昨晩のなごりに、やはり寂しさはあった。無理をしてでも、笑って別れられたのは、次の約束をしたからだろう。
 セルイアーンやクロエとは現地解散になり、馬に揺られ、ガスアまでの道のりは近くはなかった。後に予定が詰まり、急がされることはないが、手持ちの金がやや心許ない。物見遊山気分で帰っていては、早々に底を尽きかねなかった。途上で仕事を受けて路銀を稼ぐことも案としてはあったが、同行している−−戦力的には主要な存在であるシリュースがとにかく面倒くさがりで、小さな仕事でも連続してこなすということをひどく嫌がる。まるで幼児のようなわがままさだが、もはや矯正のしようがない性癖だった。心を許しているから、包み隠さず主張をしてくれると、良心的な解釈をするには、ルヴァンは懐具合に落ち着かない。
「師匠、このままだと野宿続きになってしまいますよ。もう少し、頑張りましょうよ」
 懐にある金の計算をしつつ、暗澹たる明日を思えば、食事も味を満足に感じられない。
「別にいいじゃねえか。俺が料理する訳じゃない」
 全く気兼ねなしで普段並の料理を普段の調子で平らげている青年に、非難の目を向けかけ、ルヴァンは堪えた。ここで精神状態を悪化させては元も子もない。
「それはそうですけど、毎日似たような料理がいやだというのは師匠じゃないですか」
「それはつまり、似た様な料理でなけりゃ、俺は文句を言わないと言うことだ」
 少年の労を全く慮っていない。慣れない人間が相手をすれば、歯ぎしりをしたくなるほどの非協力的な態度だ。しかし、悲しきかな、ルヴァンにとっては取り立てることもない−−「ああ、またか」という段階でしかない。人の苦労も知らないで、などとシリュースにとっては馬耳東風だということも厭と言うほど知っている。
 理解をしているからといって、事態が好転するわけではない。
「どんな仕事があってもやる気はないんですね」
「気乗りしない」
 気分で仕事をこなしても構わない余裕が何処にあるのか、少年は喉まで声が押し上がってきた。
「報酬が何であろうと」
「ふん」
 その手には乗るか、と目つきが胡乱になっている。摂食に励む手は休まない。
「この町の鍛冶屋の主人、師匠と同じ剣を蒐集することがだいすっきーな人らしいんです」
「……」
 ますますシリュースの目は胡乱さを増しているが、興味は引けているという手応えを感じる。
「滅多に人に見せたりはしないんですけど、ご主人が困ってる問題を片づけて上げたら、見せてもらえると思いませんか。金銭の報酬はちゃんともらった上で」
 金はいいから、剣を見せてくれと言い出しかねない青年に対し、先手をしっかり打っておく。
「やはり、どんな悪癖でも、同好の士となれば、態度も違うと思うんですよね」
「悪癖とは何だ、悪癖とは」
 むっとしながらも、行動を促すだけの好奇心と、性根に染みついた面倒くさがりの阻みによる葛藤が起こっているようだった。
「お前、俺のやる気がないからって、でまかせ言ってんじゃないだろうな」
 自覚はあるらしい。そして、後一押しだと思った。
「俺は、師匠より人を見る目ありますから」
 うっかり余計な一言になった。普段であれば、無視して聞き流される可能性の方が高いのだが、興味を引いていただけに失言だった。
「どういう意味だ、それは」
 不機嫌さを顔に出して、摂食作業に専念し始めた。大人げがない。シリュースが一見沈着冷静なのは、他人の会話に加わるのが面倒で無口だからなだけである。
 発言自体ではなく、時機を外してしまっていたことに反省をしつつ、ルヴァンも摂食作業に戻った。失敗したな、と思う。シリュースが酒好きであれば、町で泊まる−−店で食事をする必要性も高まるだろうが、一滴たりと飲もうとしないし、興味の対象ではない。自分が酔うのも他人の酔っぱらいも大嫌い。酔漢は、青年にとって忌避すべき対象の一つであることは、長い付き合いでわかっている。酒も異性も愉しもうとしない分、熱意が剣の蒐集癖へ向けられているようだ。飲酒一晩分、異性と付き合う一日分、剣一降り分、それぞれ一回分で要する金額の平均の比較など、お話にならない。青年の識別眼に適うものは、一般人がおいそれと手を出そうと思うものではなかった。それだけ目利きといえば耳障りはいいが、後の経済状態を全く顧みない無計画さに被害を受けるのは、同行しているルヴァンである。できるだけ金を持たさないようにしているのだが、仕事を遂行して報酬を受け取るのは年長者であるシリュースだ。その直後に、気がつけばいなくなっていた、次に帰ってきた時には軽くなった懐の代わりに見慣れない剣を携えていた−−今まで何度あったことだろう。この剣に関しては、いくら苦言を並べても、青年の耳に入らない。
「早く帰りたいですね」
 とりあえず、ガスアに戻ってしまえば、こうした事態が起こることはまずない。薬師としての仕事で、それなりに食い扶持も稼げる。ガスアは宿場の割に物価が安く、家計に非常に優しい。
「まあな」
 ぶっきらぼうだが、反応は意外に早かった。シリュースもシリュースなりに、郷愁などというものがあるのかと珍しい共感を覚えた。
「このままでは無事に帰れるか怪しいです。飢えてよろよろになって帰り着くなんてこと、格好悪いでしょう。一つくらい仕事をしましょうよ」
 なかなか強引な話の戻し方だと自分でも思った。
「……」
 無視をされたが、激しい拒否はない。厭そうな顔もしなかったから、一時暗澹たる翳りが落ちた懐の未来に、希望はまだある。
 こうして、生活臭いことに頭を悩ませていると、不本意ながらいつもの自分だと感じる。セルイアーンたちと巡った半年−−聞いたこともない魔法や魔物を目の当たりにし、雲上の人と思っていたアスガールの者たちと会い、予想もしない形で出会った自分の故郷、全てが夢のようにも思えた。
 今、何処かの同じ空の下で、何をしているだろう、何を思っているだろう。
 感慨深くなりかけ、シリュースが黙々とルヴァンの皿から料理を奪取していることに気づき、現実に戻った。
 また会えるなら、きっと会える。
 曖昧で適当だが、信じていることは何より強い。
「そういえば、師匠」
「……」
 目だけが応えてくる。取った料理は返さないと警戒に満ちている−−気がした。
「俺、アストインが生まれ変わった人間なんだそうですよ。剣の封印解く時に言われました」
 笑い飛ばされるかと思ったが、意外なことにシリュースの目つきが胡乱になっただけだった。咀嚼が続く間は黙っている。
「……それで、何か違うのかよ」
 胡乱な視線のまま、アストインの子孫であるはずの青年は関心を引かれた様子もなかった。
 らしすぎて、こんなものかと納得する。
 確かに、何も変わってない。


 
 何事もなく帰着できた。何より喜ばしいことで、真っ先に出迎えてくれた−−到着に気づいた精霊たちはもちろん、町に入って面を合わせた−−何度会ったかどうか不明な人間にめざとく見つけられては、自らのことのように感極まって嬉しがってくれる。「ご無事で何よりです!」 一年近く行方不明だったのだ。父であり、アスガールを治めているクルーアが生存している旨を公表してあったのか、死人と対面した顔には出会わなかっただけましかもしれない。出会い頭に悲鳴を上げて逃げ出されば、厭な気分になるなというのが無理だ。これから、いやでも父親に会わなければならない。ただでさえ気分は憂鬱なのだ。
 足取りは限りなく重かった。馬を町内にある同系列の厩に返し、城へと向かう足は、次第に速度をゆるめてくる。
「セルイアーン様!」
 城の衛兵も、特に代わり映えのしない反応で歓迎してくれた。二人いる兵士の片方などは泣き出してしまい、何かの冗談かと顔が引きつるのを堪える。
「ただいま帰りました。長い間ご心配をおかけして申し訳ありませんでした。おかげさまで無事にこうしてアスガールに戻ってくることができて、あなた方にこうして再びお会いすることができて大変嬉しいです」
 幼い頃から身についたものというものは、精神との乖離なぞたやすいことだった。相手に合わせるよう、感慨を押さえきれない、それでいておとなしやかな笑顔でもって静かに返すことができる。
 衛兵が感激している間に、笑顔はそのままさっさと城の中に入った。
「セルイアーン!」
 入るやいなや、響いた華やかな声に息を呑む。吹き抜けになった二階部分から繋がる階段を駆け下りてくる細い影は、ラセロットだった。体動的には決して活発ではない、珍しい母親の姿にあっけにとられる。
「おかえりなさい、心配していたのよ」
 艶やかな銀色の髪を背に流し、浮かべている笑顔は少女にしか見えない。
「母上……ただいま帰りました。俺の勝手で心配かけて、すみません」 
 今度は演技でなく殊勝な態度を作る。旅をしている間も、アスガールで気がかりと言えば、母親の心情だった。ぶちあければ、他はどうでもいい。セルイアーンが懸念を抱かずとも、神経の図太さは並ならないことはわかっている。その中で、見た目同様繊細な精神を持つ母親にだけは、長期間の音信不通になってしまっていることに罪悪感を感じていた。
「でもこうして無事に帰ってきてくれてほっとしたわ。あなたのことだから、どこかで無茶をしてないかクレールとはらはらしていたのよ」
 ラセロットへの手前、反論したい衝動は堪えた。母親はともかく、父親は本気で心配などしていない。たちが悪いほどに見通していて、“わかっている”ことにわざわざ心労を割くことはない。きっと、自力では思い出さない時間の方が長かったはずだ。薄情なのではなく、何にし対してもそういう人間なのである。クレールを神格化し、敬愛している人間には、同情を禁じ得ない。
「後で、親父にも謝るよ」
「そんな厭そうな顔しないの」
 母親から見ても、あからさまに出てしまったらしい。久しぶりの対面はそれほど厭なようだった。たしなめる視線を向けられ、肩を落とした。
「ごめん。だって、ろくなこと言われないのわかるもん。いやになるって」
「まあ! クレールがそのようなこと言うわけないでしょう。あの人も本当に心配していたのよ」
 真面目な顔で、窘めを強められてしまう。
 母親の目に映るクレールは、一般人のそれに近い。唯一理解できない、したくてもできない部分だった。
「長い旅だったんだ、疲れていては、疑い深くなってしまうものだろう」
 −−出たな。
 母親に見えない方向に顔をそらし、セルイアーンは忌々しさに頬を歪めた。
 帰還をねぎらってくれるクレールの顔は、側近含めた学院関係者や生徒、ようは他人に向けるものと全く同じ穏やかな顔で、“他人”であれば、緊張と敬慕で舞い上がってしまうだが、セルイアーンは渋面のままだった。冷静になって弁護すれば、別に父親を憎んでいるわけでも嫌っているわけでもない。いや、どちらかといえば嫌いだった。この、いつでも穏やかに沈着を崩さない父親が苦手なのだ。何を考えているかわからない。
「そう、疲れてるからさ、あんたの顔はできれば見たくなかったよ」
 率直に敬遠をすれば、クレールは笑みを浮かべた。隣に並ぶラセロットの笑顔と一見同じだが、セルイアーンの目には同じには映らない。
「何も今、お前に小言を言うつもりはないが?」
「誰もそんな心配してない。……ていうか、するつもりだったのかよ」
 これだから、と舌打ちをぐっと堪える。あまり口論−−あくまで息子の見解による応酬のし合い−−を続けていると、母親が悲しそうな顔になってしまう。しかも、たしなめられるのは、セルイアーンだ。腹が納まらなくなり、父親に八つ当たり気味に反感を覚えることまで目に見えていた。
「そういや、アンフィーナさんと殿下は帰ってきたのか? 殿下への処分とかどうなったんだ? あ、そうだ! あの、友だちは……」
 思い出していなかった事実を矢継ぎ早に並べ、はっとなる。聞き忘れる可能性を無事逃れ、焦りと安堵に息を吐く息子を見越したように、クレールは笑みを深めた。間合いが悪すぎる。もう少しずれていたなら、余計な疑心で苦手意識を上積みすることもなかったかも知れない。
「三人とも帰ってきている。殿下への処分は審議にかけているから、保留状態だ。今のところ学院に戻っているよ。三人ともな」
 三人とも、元の学生生活に無事に戻れたという現実に、アスガールに到着した時よりも強く満ち足りた気分になれた。もっとも、三人にとって再出発の本当の始まりだ。空白の期間による支障を修正するには、少なからずの時間を要するだろう。長期の空白ができてしまったことは、セルイアーンも他人事ではない。基礎課程の再履修だけは免れたいと思った。
 にこり、と作られる父親の笑顔に、よもや心中を読まれたかと身構えてしまうほど、クレールへの意識は根深い。途中報告や、調査目標の変更を未報告のまま行方知れずになった自分への処分もやはりあるのかと、憶測は後ろ向きに駆けめぐった。
「三人に会いに行くんだろう?」
「あったりまえだろ!」
 即座に答えた自分の声が余分なほど明快で、その後の父親の顔を見るのも厭で、隣をすり抜けて駆けだした。学院への近道になる城の出口は、使用人が使うことはほとんどなく、人との遭遇率は無いに等しい。とはいえ、絶対に無人だという保証はない。自分の長年の演技の成果で抱かれてしまった“セルイアーン姫”に対する夢想を壊すことにはやはり憚られる。辺りの警戒を精霊に任せ、走った。城を出るまでは、体力が切れることはない−−はずだった。


 久しぶりだ、と実感する前にこみ上げ、のどを詰まらせるものがあった。朝早く、日中や夜間に比べれば、嘘のように静寂に満ちたガスアの目抜き通りに人影はほとんど見あたらない。
「帰ってこられましたよ」
 ルヴァンは、自分の声がいささか大げさに震えてしまったことに苦笑する。
 嫌みに響いたか、と傍らを見れば、シリュースが普段以上に憮然としていた。夜を徹しての移動に珍しく文句を言わないが、その分顔に出ている。
 中途半端な時間にガスアまで中途半端な距離に到着してしまったため、腹ごしらえだけ済ませて、そのまま移動を敢行したのである。青年の強い反論がなかったのは、本当に近来まれに見るおとなしさだった。単に、もう一息頑張れば、自分の部屋で周りを気にせず寝続けることができる“ご褒美”に堪えたのだろう。
 馬を厩に返し、そこからは徒歩になる。うっかり頭から外していた肉体労働の課せに、シリュースは無言で最大の失敗を犯したと顔に書いていた。苦々しげに舌打ち一歩手前である。それでも、ご無沙汰だった厩の主人は、朝が早くて血の巡りが悪いのかと危惧するほど、シリュースを前にしてはしゃいでいた−−ガスアの人間はシリュースに過分な妄想を抱いているとルヴァンは思っている。ただ無口で無愛想と取らないだけ、好意的だった。
 通りを抜ける風に勢いは無く、明るんでしまっている空は青かった。何処で見ても同じようだったが、やはりガスアで見上げる色は違う気がした。
 ここが故郷なのだと、帰ってくる場所なのだと胸の中に滲む。
 開店の準備を始めている店舗はさすがに多く、早朝の通行人にめざとく気づいては、厩の主人よろしく皆が皆歓待してくれた。ここまで、社交辞令抜きで出迎えてくれると、申し訳ない気持ちになってくるのはルヴァンだけで、シリュースは徹底して無口で無愛想だった。そして、誰も青年からの反応を乞うたりしないだけ、もしかしたらわかっているのかもしれない。
 『満腹で眠る猫』の前で、少女が緩慢な仕草でホウキを動かしていた。眠気が強いらしく、ホウキが止まっては、頭がこくりと傾ぐ。以前より伸びた髪を一つに編んでまとめている他は、最後の記憶と変わらない。だからこそ、声をかけることにためらいはなかった。
「ニチカ!」
 声をかけると、反応は予想以上だった。びくりとなった後、ぴんと背筋を張り、首を巡らせる。強ばった顔の中で目が大きく見開かれていた。
「おはよう」
 驚愕に声のでない少女に、釣り合わない挨拶だと自分でも思った。
「ルヴァン! ……シリュースさん!」
 弾かれるように叫んで、ホウキを片手に駆け寄ってくる。駆けてくる間に、驚愕がほどかれた表情がくしゃりと歪んだ。唇をかみしめて、泣き出す寸前のものに、今度はルヴァンが驚く。
 いっこうに足を緩めないことに不審に思っていると、勢いをそのままに少年に抱きついてきた。
「遅い〜!! もう、遅いよ! 心配したんだからね!」
 痩せて見えるが、機敏に体を動かす仕事で鍛えられた体が出す力は、華奢な少女の持つものではない。ぎゅう、と腕ごと締めつけられて、ルヴァンは息が詰まりそうになる。
「あ、あの、ニチカ?」 
「ちょっと今顔上げられないから、このまま!」
 鼻をすすり上げて、叩くように断つ声を聞き、事情を察するしかない。「あ、そ、そう」と間が抜けた反応をしてしまう。横を見れば、シリュースが無愛想な顔を止め、にやにやとしている。眠気も疲れもさておいた、揶揄に満ち満ちた顔を前に、ルヴァンは逃げ出したくなった。だが、今の状況はそれは適わない。 
「背、伸びたね」
 ニチカがぽつりと寂しそうに呟いた。
「そうかな」
「うん。やっぱり男の子は成長するのが早いんだね」
 もう一度鼻をすすり上げて、拘束の力をようやく緩めてくれた。ほっと息を吐く少年に、ニチカは濡れた頬を手の甲で拭って、照れくさそうに笑った。今まであまり見たことがなく、それだけで大人びて見えた。
「ニチカ……」
「何」
「ごめん、おみやげ買ってくるの忘れた」
 弁護もできないほど失念していた自分に素直に謝罪をした。新しい町に行くたび、頭をかすめたが、買う機会がなかったという順当ないいわけも無様な気がした。
「言ったでしょ、無事に帰ってきてくれればいいって」
 申し訳なさに悄然となる肩をこづかれ、苦笑いする。
「ニチカのくれたおまもりのおかげかな」
「そうね!」
 感謝を強要するように胸を張ってみせたニチカの顔に、見慣れた笑顔が浮かぶ。
「お帰り、ルヴァン」
 明るく、健やかに晴れ上がる顔に、見ている自分の気分も軽くなるのも−−いつもと同じだ。そう思え、実感が実感を重ねる。
「ただいま」
 帰るべき場所へ、帰ってきた。
 帰りたいと思った場所へ−−きっとずっとこれからも、この地が“故郷”になる。

終章「Vixi et quem dederat cursum fortuna peregi.」 完

「HYALINE PLEDGE」完結
CONTINUED TO ANOTHER EPISODE

*POSTSCRIPT*

 更新速度にむらがありすぎて、五年かかってようやく。
 サイトに掲載している他の話に比べ、行き当たりばったり進路変更率は最後まで低かったです。一方で余分に増やしたイベントが多くて、「のらりくらり」感が増強したかと。
 激しいアクションがあるわけでもなく、恋愛があるわけでもなく、人死にが出るわけでもなく、激的な変化が主人公に起こるわけでもなく……うーん、なんて平坦な話! というと身も蓋もないですね。てか、いわなくていいです。書いていた私がわかってますから。
 平和な時代に生まれた主人公が、事件の謎解き(というほどのミステリー感があるわけでもないというのも、アイタタ)をしながら、平和を築き上げた過去の片鱗をかいま見るというのがコンセプト。
 本当にどうしようもないくらいに平和で平和な時代なので、荒事ってのが起こらないんですよねー、ほとんど。
 「H/P」 は「THE END OF MYTH」というシリーズのアスガール編のエピソード1に当たります。つまり、このアスガール編自体でもいくつか話があるわけで、サイト開設前に書いたモノもあります。これも、まあ、当事者からいうと深刻といえば深刻な事態があっても、長い目で見ると平和でしかない話ばかりで……ルヴァンが生きている間は平和きわまりない。不穏の影はないという設定なのです(苦笑)。
 作中にありましたが、ルヴァンは英雄アストインの魂が生まれ変わった人間です。ただ、本文中での書き方ではニュアンスが表現できず混乱した方もおられると思いますが、定義的には「転生」です。ただ、よくある転生話のように、過去の記憶を思い出すことはありませんし、もし思い出したとしても、自分のものだと認識はしません。前世の精神とシンクロすることもなく、能力がよみがえるわけでもありません。生まれ変わった時点で別物になっているわけです。前世の人間は自分と魂は同じでも違う生命。自分は自分、他人は他人(笑)。どちらかというと他人行儀的な受け止め方ですね。
 うーん、私の説明が悪いんですね、これは。
 
 アストインが主人公の話が本編。「H/P」はいわば、序章的な存在です(笑)。本当の真実は、リアルタイムでしかわからないってことで。クロエやイザティス、フェリオももちろん出てきます。
 望みは薄ですが、機会があれば書き上げたい話です。根性も時間も体力も欠乏している現実では実現率は限りなく低いですが。  それでは、「H/P」を最後まで読んでくださってありがとうございました。
 少しでもお楽しみいただけたのなら、幸いです。

                                                    光記 20051002

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