
00
闇の翼が舞い降りても、街は微睡むことすらなかった。夜が深くなればなるほどに、鏤められた輝きが増していく眺めは、永き人の営みの栄えそのものだった。宇宙で最古にして、この星で唯一最後の巨大都市(メトロポリス)。この星が国家という集合体を全て喪っても、この都市は歴史を刻み続けてきた。
航宙機の狭い窓に切り取られた夜景から目を逸らし、シートに背をもたせかける。柔らかすぎないクッションが頭部から腰までを大らかに受け止めた。
白い天井にゆるゆると広がる真白の明かりに目の奥がじんと痛んで、瞼を伏せる。
“やっと一休みというところね”
心で思うわけではなく、頭の中で浮かばせるような言葉を紡ぐ。
“お疲れさま”
くすりと笑う声が応えて、口元が緩んだ。独り言を「考える」意識に絡む、全く別の意識、その向こうに透ける蒼く澄んだ空間。光りが星のように舞い散り、時にうねり、あるものは消えていく。夢を見るようで、確かな現を重ねる不思議な感覚は、今では呼吸をするように自然なものだった。
“ここんとこ、君は働きづめだったからね。君は本当に真面目だよ。少しは手抜きを覚えても、誰も咎めやしないのに。さぼったって、僕が黙っておいてあげるのにさ”
幼い−−今は幼いと取れる若い声は、優しく響く。
“そうね。でも、わかるでしょう? 私の性格”
“不安神経症?”
“ひどい言い方ね”
おかしさがこみ上げて顔が緩んでしまう。隣の客に怪しまれないように、窓側に顔を傾けた。
闇が流れ、光りが融けて、機体の走行速度は一気に音速に達し、大気圏へと上昇する。加速による衝撃は見事緩衝されて、機外の景色は映像を見ているかのようだった。静かな離陸は静かな離星へ繋がり、じきにスキップ航法に移るだろう。
目的地へと、揺るぎない辿りを。フライトは三十六時間。退屈は睡眠で紛らわせればいい。軽い睡眠薬を飲めば、仕事前に体を十分休めておける。
“時に臆病に、時に傲慢に、でいいじゃないか”
愉しさを隠そうとせず、からかってくる。付き合う時間が重なっていくほど、子供のような無邪気さを見せられる機会も随分とあった。
“傲慢って言うのは、聞き捨てならないわね”
“じゃあ、強気に大胆に”
傍らの通路に立ち、乗務員が飲み物のサービスを申し出るのを、手を振って断る。機体内の環境コンディションは完全にコントロールされており、不必要に喉の渇きは覚えない。搭乗する前に空腹も解消してきている。
“今、こうやってあなたといられるのは、私が臆病だったからよね”
“否定はしないよ”
自慢げに澄ます子供に、大人びた寛容さを溶け込ませた口ぶりだ。
“そして、君の強気さが、今の君を作ったということだね”
伝わってくる讃える意思に、晴れやかに誇らしさを抱ける自分がいた。懐かしさすら、愛おしい「時」を思い起こす。
“あなたの影響ね”
口元に浮かぶ笑みを指先で静かに押さえ、おかしさを堪える。
“どういう意味?”
興味深げに首を傾げるのが見えそうな声だ。明滅する光りを湛える蒼き海の中で、大いなる強かな存在が重なる。
“あなたの傲慢さがうつったって意味よ”
“ひどい言い方だな”
軽口を叩いて、笑い合う−−このような関係になれた現実に感謝し、その幸運と、己の努力を誇れた。
01
ジュータミンの領有星であり、首都を置くチオラの冬は厳しい。地球標準暦では、六月の末。もうじき、初雪が街の上に羽根のように舞い踊ることだろう。そして、雪雲が空を覆う日が続き、気温は日中でもプラスに転じる事はなくなる。暖房技術がどれだけ発達しようと、星の気候そのものを変えるために国家予算を割く気はないようだった。
灰色にくすんだ煉瓦で舗道された上には赤茶に灼けたプラタナスの葉が降り積もり、ブーツの靴裏に擦られてかさかさと音を立てる。
少女はマフラーを喉元に押しつけるようにして、ふっと息を抜いた。白く霞んだ息は細かいきらめきを名残に、凍てついた空気に馴染む。乾いて引きつれる唇をぺろりとなめると、かすかな痛みを起こし、血の味が薄く舌に触れる。痛む部分に慎重な手つきで指を押し当てると、ベージュの手袋の先に赤い点がぽつりと着いた。もう一度その指先を同じ場所に押しつけ、ぎゅっと唇を閉じ、痛みを飲み込むように息を詰める。風が吹き抜けると、頬の温もりはさらわれ、あおられた髪が肩の上で乱れた。防寒性に優れたコートにくるんだ内側まで、凍気が入り込むことはない事に信頼を置いて、足を速める。
ブーツのソールをポーチの端に擦りつけて汚れを落とし、家の中に入った。「ただいま」と小さい声で呟いたが、望んだ応えはなく、苛立った女性の声が廊下の奥から聞こえて来た。足下へと力無く視線を落とし、こみ上げる想いを堪えて口元を歪めると、また唇の傷が痛んだ。
時々激情を押さえられず、高音に跳ね上がる声が耳に刺さるようで、廊下を進んで近づくほどにその強さは増していくようだった。
開け放した扉の中を覗けば、部屋の主の本来の性格では考えられないほどに荒んだ室内が見えた。片側の壁を埋めるワークステーションだけは無傷で、砕けたディスクケースや、紙が散らかった床にはカーペットの存在を確かめられる隙間はない。
「何度も言わせないでください! 内通者がいる事は間違いありません。我が社のガードレベルであれば、外からの侵入を許すはずがないのです!」
忍耐を既に越えているようだった。眦はつり上がり、怒りに唇が震えているのが見える。。端末の内蔵マイクに向かい、宙に激しく打ち付けるように手を振って訴えるたびに、プラタナスと同じ色の髪が揺れる。力尽きて地に落ち、後は朽ちるしかない枯れ葉と同じ、色。それはまた、少女のものとも同じだった。
「ママ……ただいま」
怒りに燃える背中にそっと呟き、リビングを横切って、自分の部屋に入った。扉が建具枠に吸い付くようにはまると、母親の声は完全に遮断されてしまう。温かな、迎えてくれる嘘のような沈黙に、肩の緊張が抜けた。
窓際の机に鞄を下ろし、その横に鎮座しているものを見やる。
先週末、誕生日プレゼントとして父親から贈られた最新型のネット端末だった。メタリックブルーのマシンにはカバーがかかっており、持ち主に使われる時を大人しく待っている。
業者がセットアップを済ませており、起動し、ログインするだけでユニバーサルネットにリンクできるようになっているらしい。
二十世紀半ばに生まれたアルパネットから発展と普及を続け、今や全世界人口の八割がその恩恵を受けていると言われるユニバーサルネット。一般的な文明の貢献を受けている地域の住人であれば、ネット経験のない人間はいないと言われる。
だが、筐体を見る目に好奇心のかけらもない少女は、ホームセキュリティネットという、閉鎖的かつ独立型インターネットと触れ合うことしかない。ネットゲームもチャットもメール交換も行ったことはない、世にも希有な“ネット”未経験者だった。
個人用として端末を与えられたことは、生まれて十四年間一度もない。部屋の両側に並んだ本棚を埋める大量の本が、少女の好奇心を満たしてくれていた。不満を覚えないほどに十分に。紙媒体の書籍は現代では高価で、これだけの量を子供だけのために買い与える事はつまり、少女の家庭の経済状態が裕福であるということ。実際、少女の母親は、西宇宙でも有数のサイバーセキュリティ会社の情報管理部門の課長であり、父親は、世界最大の格付け会社の評価で十年連続トップクラスを誇るネットバンクのシステム管理部長だった。ネットに深く関わり離すことができない職種でありながら、その子供はネット未経験者だということは、まさに信じられない話で、少女の周りの人間も皆、首を傾げてしまう。
それでも、少女本人はネットに手を出そうという気は起こらなかった。母親が猥雑で玉石混淆な情報が溢れるネットに接触させたくないと言う気持ちからの方針である事は理解できており、町中のネットカフェでこっそり触ってみようとも思わなかったのだ。
今になって、母親のその意向がわかっているはずの父親が贈ってきたことには正直驚いた。そうして、自分が思う以上に、二人の間の溝が深まっているのだと認識せざるを得ない。
少女は椅子に腰を下ろすと、頬杖を着いてぼんやりと視線を浮つかせた。
最後に父親と会ったのは、一月以上前だろうか。ちょうどあの頃は毎晩のように啀み合う声が−−声そのものが凶器であるようだった。母親がほぼ一方的に罵って責め、父親は曖昧な相槌と無愛想な沈黙で応じている空気そのものが痛かった。部屋に籠もり、本の中で繰り広げられる物語に入り込んで、すぐそばで進行している現実を忘れようとした。指に触れる滑らかなページ、めくる軽やかな音に心地よくなり、全てから逃げ出そうとしたことすら忘れることができた。
父親が家に帰ってこなくなり、真面目でプライドの高い母親が、時にヒステリーを起こして暴力を振るってきても、同情をそっと胸の奥に閉まって甘んじた。かつての母親は何処にもいなかった。感情を荒立てる人間とは対極にいる人だとばかり思っていたので、最初はショックだった。最初だけ。寂しく孤独で、父親を愛していたからこそ裏切りに嘆く母親を、未だ幼い少女が慰めることができるはずもない。傷は手当てをすれば治る。本をめくれば現実の痛みを忘れられる。慰めの術を知っている自分は未だ幸せなのだと、思っていた。
差出人が父親の名前で送られてきたネット端末を見た時、母親の顔には色がなかった。その表情は、怒った時の顔よりも怖かった。癇癪を起こす一歩手前の、危うい引きつれた想いが醜く現れて、綺麗で優しい自慢の母親は何処にもいなかった。それでも、他人の手前激情を抑え込んでみせた、母親のプライド。端末に向ける目は憎悪に満ちていても、業者に応対する口調は歪みのない、滑らかなものだった。
何が最初で、何が今のような事態に繋げてしまったのか。
父親がこの家に帰ってきた最後の日は、一体いつだっただろう。どうして、今になって娘にコンピューターを贈ってきたのか。母親が決めた子供の教育方針に反し、怒らせることがわかっていて−−それほどに母親に対して愛想が尽きてしまったのか。
あれほどに、仲が良かったと言うのに。もう戻らない時の向こうに、繰り返されることのない過去として腰を落ち着けてしまっているのかと思えば、目の奥が痛くなった。
うっすらと埃の積もったカバーを外し、つやつやと磨かれた端末を初めて目にした。コンパクト化を更に邁進する技術の結晶というべく、二十一インチの薄型ディスプレイの足下の支えに端末の全機能が詰め込まれている。少女の悲しみがコンピューターに伝播し、何か応えてくれるはずもなく、灰色のディスプレイに映った泣き歪んだ顔が見つめ返しているだけだった。
母親は、まだ父親に戻ってきて欲しいと思っている。少女も望んでいた。望むだけは自由だと諦めに締めてしまうものでも、元通りになってくれる幻想にしがみつく。母親はきっと娘以上に縋っていることだろう。己の変わり様を自覚し、それすらも夢だと思いたいに違いない。
それがわかるだけに、発作的なヒステリーの被害を被っても、耐えた。高すぎるプライドの下敷きになって、やりどころのない怒りに翻弄されている母親を見ていることこそ辛い。
電話での口論の相手は、母親の会社の人間だとわかっている。今週に入って、毎日一回は言い合っている光景を目にしていた。何らかのトラブルが起こり、その責任を母親が問われているのだろう。
断片的な言葉を拾えても、詳細を知る由もない。
−−もし、ちゃんと知ったら、何かできるとでも思ってるのかな? 何が起こっているか、わかりさえしたらとでも……。
幼さが抜けた論えに、わずかな−−ほんのわずかに込めた否定を証明するための好奇心が生まれても、少女にとっては自身の心を揺るがすものだとは思わなかった。ふっと、無気力の延長のように吐息を落とす、一瞬。瞬きの度に睫の先に玉を結んでいた涙が滲ませる視界が不意に青みを帯びて、驚きに息を止める。訝ろうとした意識の焦点が溶ける感覚にふわりと視点が浮き上がった。もどかしく曖昧になる一方で、確かに冴えていく矛盾さが何故か−−確かに心地よく、知らず震える体に気づく。
“……君が何を言い訳にしようと、事実は変えられるものではない。我が社のデータは何者かに改ざんされ、半年かかっても収拾しきれない代償が置き土産になっている。そうではないかね”
硬く、冷静で、抑揚のない音はじきに、冷静さはそのままに男の声となり、耳元で聞いているような錯覚を覚えた。
“それ、は、そうですが。問題は結果ではなく、原因究明と次回以降の対策を案じる事が大切なのでは”
母親が真横にいるかのような、間近な苛立ちにぎょっとなる。ゆらりとなる青さに、頭の芯がきつく締めつけられて頬をしかめた。
“原因は簡単だろう。君が作った壁が不出来でもろく、目先のことに眩まされたトラッシュの格好の抜け穴にされた”
男の声は容赦が無く、相手の言い分は自己弁護のためのものだと断じてしまっているように、寛容さは何処にも感じられない。コンピューターによる無愛想な音声の方が、まだ穏やかに聞いていられるだろう。
“私が……私たちが組み上げたガードシステムに穴などありません”
傲然と言い切る。かつての母親の姿が懐かしく重なる気がした。
“自信たっぷりだが、実際見つかった穴についてどう弁護するつもりだね”
“何度も言わせないでください! 内通者がいる事は間違いありません。我が社のガードレベルであれば、外からの侵入を許すはずがないのです!”
繰り返される、母親の言葉。母親の恐ろしい横顔を思い起こされた途端、体を占める拒絶感に、脳裏に浮かぶものを咄嗟に腕で振り払う。現の腕は振ってはいなかったが、伸ばしてこようとする苛む手を弾き飛ばしたいと思った。繋がっていたものを無理矢理引き裂いてしまうような、強い力が生まれる−−そう感じた。
「……ッ!」
大きく息を飲み、目を見開いたまま、気持ちを落ち着けるために短い呼吸を何度か継ぐ。机の上に置いた腕が強ばり、知らず拳を強く握りしめていた。
「今の、何?」
ぶるりと身震いをし、こわごわ首を巡らせるが、周囲は何も変わらない。カバーを外したものの電源を点けてもらえない端末は、辛抱強く無関心を装っていて、自分で起動するような奇蹟を起こしたりはしていない。
虚ろな面には、視点もおぼつかない貌があった。
母親の虚勢を固持しようとする声と冷徹に対応し続けていた男の声はしっかりと記憶に刻み込まれ、思うたびにリフレインする。まるで呪いのようにこびりついた声に、もう一度体を震わせた。だが、震え出した腕を胸元に引き寄せようとも、止まらない。気を抜けば、見知らぬ何かが覆い被さってきそうな懼れに息を詰めてしまう。
やがて疲れた意識が緩んでしまうまで、少女は椅子の上でじっと身を縮めていた。
「ただいま……」
何も返らない帰宅を告げて、玄関の扉に背をもたせかけた。
今日の寒さは、また厳しい。家の中に満ちた暖気が暑いほどで、急かされるようにマフラーとコートを脱いだ。
しん、と静まりかえっていて、何処からも物音一つしそうにない。
通りがけに母親の部屋を覗くと、ソファの上で寝ている姿を見つけた。疲れ果てて倒れ込んだとしか思えない姿勢で眠り込んでいる。
眠る前の主人に命じられたのか、奥にある機器たちは作動していることを示すように、あちこちで小さな光点を瞬かせていた。幼い頃、暗がりの中で見た時、町中では見ることのできない星のようだと感激したことを思い出す。この光を見た時は、暗闇は決して怖くなかった。
壁の機器を眺めていると、頭の芯が鈍い痛みを広げる。昼間の授業でコンピューターを触っていた時もよく似た−−同じとも言える痛みを感じた。色々な文字や声が頭の中で響いて気分が悪くなり、すぐに断ち切った。体が即座に探り出した逃避方法だった。おかげで、あの時はすぐに収まったけれど、正確には不快さと近しい痛みではない。自分が感じたことがない不思議な感覚を痛みとして取りあえず当てはめているだけだった。
ふっと蒼さが重なる。息を飲んで構えるより早く、意識が深く飲まれた。拒むこともできたはずが、“不思議な感覚”を今一度と乞うている自分がいることを否めない。
“くだんのデータ、確かに受け取りました。至急、解析にかけ、折り返しお返事致します。 情報管理部障害処理担当課”
昨日のように鮮明な人の声ではなく、硬い音だった。字としてまずは受け入れ、自分の中で読むような“不思議な感覚”で文章が綴られていく。
“一連のトラブルの臨時の収拾策として、ガードを雇うよう手配しました。現在の修復レベルとガードの詳細については添付データをごらんください。情報管理部第一課カルセド”
“先日お知らせしてあった件の進捗状況はいかがでしょうか? 管理部長から再三の催促を受けております。至急ご連絡下さい。情報管理部第一課カルセド”
緊迫した中で、何処か蔑んだ冷たさを感じ、ぎゅっと自分の意識を閉じる。蒼さはかき消え、薄暗い室内があり、母親は相変わらず眠っていていた。
だるさを訴える体を促し、足音に注意して自分の部屋に戻る。鞄をベッドに放り出して、机に座った。カバーを外したままのコンピューターと向かい合い、じっと睨みつける。その強かな眼光とは裏腹に、躊躇いがちに支柱にあるボタンに手を伸ばした。軽く触れるだけで、端末は起動を開始する。軽快なメロディが流れ、瞬く間も無く、灰色の画面は一転して眩しい光りを溢れさせ、鮮やかな色が彩る。
“もう一つの世界、ユニバーサルネットへ、ようこそ!”
文字が躍り、弾けた。
鼓動が早くなり、全身を押しつけてくる圧力に喘いだ。苦痛に悲鳴を上げる自分の体に息をする事もままならず、唇から息が漏れる。授業や母親の部屋で味わったものとは比較にならない明かな“痛み”だった。
目の前が、蒼くなる−−異常を認めた瞬間、嘘のように苦痛が無くなる。代わりに、身に覚えのある心地よさが労るように抱き込んできた。
頭の中で、言葉を各個聞き取る事が不可能なほどの数多の人間の声が渦巻き、光りが瞬いて、駆け抜ける。罵声、嬌声、泣き叫ぶ声、全てが耳障りなほどの音量で、頭痛が誘発されそうになる。
−−うるさい!
軋みに顔をしかめ、堪らずに叫ぶと−−口に出して叫んだかどうか曖昧な認識度で、騒々しさを追い払おうとした。
またも、気が抜けるほどあっさりと、騒音は遠ざかり、ささやかなものになってしまう。
蒼い、鮮やかで、深く澄んだ色は、果てが見えない広がりを見せ、解放感に体全体が溶けるような錯覚を覚えた。
ぽつぽつ、ときらめく光りは明滅を繰り返し、輝きを増し、または消えていく様をぼんやりと眺めた。
現実なのか、それとも夢を見ているのか、確かめる術が無くともいいと思った。居るだけで、心が安らぐ−−久しく感じていなかった、安らぎ。
−−すごく気持ちいい……。
全ての拘りがゆるゆると解けていく名残にも、うっとりと蕩けてしまう。
我に返させたのは、母親の記憶だった。怒りに苦しみながらも、悲痛に訴えていた横顔と、疲れ果て眠っていた青白い顔、どちらも見たくない母親の顔だった。
−−ママの会社で起こったトラブルって何なんだろう。ハッカーのいたずらなの?
公衆のネットに触れた事はなくとも、読んでいる本にもコンピューターやネット関連の言葉が多く載る話もある。知識として知っている事は、少なくなかった。
浮かんだ疑問に首を傾げようとした矢先、目の前が眩む。
“イー・シー・エスへのハッキング、俺も聞いたぜ。外から入れるような代物じゃないと思ってたけどな”
どきり、となった。自分の問いに答えているのかと思うほどの絶妙さだった。
“グラン、あんたは自分でもできるって思ってんだろ”
別の声が、若干の羨望を混じらせて揶揄を向ける。
すぐ間近で、知らない男たちの声がしていた。存在感は明晰で、横に並んで話しているかのような感覚だった。電話で話すよりもはるかにリアルな生々しさに、冷静に状況を把握しようとする意識は呆気なく追いやられる。
“まあ、否定はしねえよ。……っと、待てよ、誰か入ってきやがった”
談笑の和やかさを打ち消し、警戒に尖る声に、少女は動けなくなった。キーボードの上に置かれた手は、別の力に抑え込まれたように硬直している。
“なにもんだ。ここに入ってこれるって事は、てめえも……”
蒼さに、三つの光りが点っている事に気づいた。光りが常に強いもの、強く放ったかと思えばぼんやりと滲ませるもの、弱々しいもの−−それぞれが、違う。
“待てよ。様子がおかしい。<ゴースト>かも知れねえぞ”
“バカ言うな、グラン。<ゴースト>がここに入ってこられるか!”
一番光りの弱いものが、脈打つように瞬いた。それでも、他の二つに比べると弱すぎる光りだ。臆病で、怖じ気に震える光りが、まるで自分のようだと思った。
“あの、ごめ、んなさい……”
“あんた……”
三人の誰かが、誰何の声を強めようとする。
“すみません、ごめんなさい!”
行動の選択を選ぼうにも術がわからないまま、目の前のものを全て遮断したいと願った。 強く願って、息を一つ零す間。
“もう一つの世界、ユニバーサルネットへ、ようこそ!”
目の前には、同じ画面がつまらなそうにあった。ネットへのログインを促すウィンドウが表示されている事に、目の前が暗く落ちそうになる。
どっとのしかかる脱力感に何かを思いつこうとする気力もなく、端末の電源を切ると、ベッドに潜り込んだ。
−−どういう事なんだろう。
自分の体温が移り、じわりと温かさをこもらせる毛布にきっちりと首から下をくるみ、穏やかな眠りに誘われるには遠いさざめきを自分の中に感じながら、少女は目を閉じた。
“イー・シー・エスへのハッキング、俺も聞いたぜ。外から入れるような代物じゃないと思ってたけどな”
確かに、母親の会社の名前を話題にしていた。母親が絶大な自信を持っていた−−のであろうイー・シー・エスの防御壁を破った側に近い人間の会話だとわかった。
−−もしかしたら、知っている? 犯人が誰かって、もしかしてわかる?
“なんだ、あんたまた来たのか”
心臓を鷲掴みにされるような驚愕だった。反射的に目を開け、毛布を握りしめる自分の力を確かめる。目の前にある暗闇に、重なって見える蒼い色。蒼い闇ではなく、全く独立したものが重ね合わされたものだとわかった。
“あなたは、さっきの……グラン、さん?”
不審さは、口を衝いて出てはいなかった。無音で独り言を呟くような−−唇を動かさずにやってのけるような奇妙さに、膝を丸め、体の震えを押さえようとした。
“間の抜けたことを言うヤツだな”
訝しみ、考え込むように空いた間の中で、大きく息を飲んだ音が耳に響く。
“あんた、<ゴースト>か?”
慎重に質してくるその言葉すらわからず、もどかしかった。
“まあいい”
少女の沈黙を好意的に取ったのかどうか、それ以上糾してこようとはしてこなかった。
“興味あんなら、今日と同じトコに同じ時間に来いよ。こいつは、<ゴースト>じゃ、できねえ事だ”
じゃあな、と告げられるや、ふつりと何かが途切れた。蒼さと闇は重なり合ったまま、耳の奥で鼓動が疼く。遠くでざわざわと蠢く音、色を感じた。目で見ているわけではなく、室内の沈黙を聞く耳に届いているわけではない。蒼い空間に、小さな光りが流れ、きらめいて、まるで川のようだった。いつか、映像(ヴィジョン)で見た、星空そのもの。
遠く見つめていれば、ここが何処かすら考えなくて済む、そうした安堵が肩の力を解きかける。
眇める“目”の向こうで、一際大きく輝く光に気づいた。澄み渡った蒼に囲まれ、そこに息づくように燦然と輝くそれに、ふっと感嘆の息を漏らす。
−−本当に、きれい。
応えるように、光点が瞬いた。すうっと滑るように−−この蒼い空間の中を泳ぐように近づいて来て、また瞬く。強い光りが辺りの蒼さを輝かせた。
“君は、<ゴースト>じゃないね”
光りが、少年の−−少女よりも幼ない声を発したとしか思えなかった。明朗にはっきりとした音は、幻想と片づけるには惜しい魅力がある。
狼狽に退こうとする意思を感じる一方で、グランも口にしていた事に一瞬だけ好奇心が勝った。
“<ゴースト>って何?”
“知らないの?”
少女の無知に本気で驚いているわけではなく、わざとらしい揶揄を声音からを感じ取って、ムッとなる。だが、目先の自尊心のために否定で嘘を吐こうとはしなかった。
“そうだね、君はまだここに来て二回目、いや三回目ってとこみたいだし、仕方ないかな”
一人呟いて、ふむ、と納得したような相槌を挟んで先を続けた。
“<ゴースト>は、夢の中でこの海を泳ぎ出す不安定な意識たちの事だよ。君が<ゴースト>でないならなおのこと、彼らには近寄らない方が良い。彼らは夢だから何でも思い通りにできると思っているんだ。理性で制御されていない意識ほどたちの悪いものはない”
“どうやったら、<ゴースト>だってわかるの?”
“君は、意識の区別ができないのかい?”
今度は、本当に驚いたようだった。心外そうにうーんと唸る本意すら、少女には理解できるはずもない。
“??”
“やれやれ、<ゴースト>より始末が悪いかもしれないな”
明け透けな、飾らなさ過ぎる評価を下されて腹が立つのは本当だったが、反論するだけの知識がない事も本当で、黙り込む事しかできない。
ふわりと頭に−−現実として柔らかな手が頭に触れたような気がして、心が揺らぐ。
昔、もっと幼い頃、こうして時に褒め、時に窘めてくれた両親の優しい手のようで、きゅっと胸の奥が締めつけられた。
“とにかく気を付ける事だよ。<ゴースト>たちは強いデータに惹き付けられる。さっき言ったように、無謀な事でも可能にできる夢の世界の中にいるつもりだからね。そうしたところには近づかない方が良い。
<ゴースト>でなくても、相手が危険だと思ったら、望めばいい。君の力が、君の望みを叶えてくれる”
“ ……ありがとう”
もっと切実に知りたい事が喉の奥で列になっているにもかかわらず、口に出たのは、この見知らぬ者が渡してくれる優しさへの感謝だった。
“どういたしまして。それじゃあ、賢明なる遊泳(ワイズスイム)を、エリカ”
穏やかな声で紡がれた自分の名前に、ぞっとなる。理解不能な現象の正体よりも、もっと直接的に訴えてくる恐怖に、体が震えた。
“あなたは、誰?”
答えは返らず、“海”は何処までも蒼かった。
02
学校の正門からはなだらかな坂が道となって続き、住宅地の中を貫いている。通学する生徒の殆どはこの住宅地に住む少年少女だ。親は有産階級や政治経済の方面で成功を収めている者たちばかり。チオラでも屈指の高級住宅街である。
スクールゾーン内の監視体制は万全であることも、この住宅地のセールスポイントの一つで、警護無しでも子女たちが安心して通学できるというものである。実際、開学以来誘拐事件が起こった過去はない。
同時に、学校からの帰りに寄り道のしようもなかった。このことに不満を覚える子供も少なくないにしろ、エリカは不服を抱くことはない。家までの途上には、ペーパーブック専門の書店があり、お気に入りのパティスリーもある。週に何度か本屋に寄り、大好きなクッキーを買って帰ることがエリカの決して多くない楽しみでもあった。支払いは全てカードなため、親に購入状況は筒抜けだが、黙認されている。クラスメートと比せば、つましすぎるほどだった。
今日は本屋ではめぼしいものはなかったが、新作のクッキーを買えたことで少し気持ちが浮き立って足取りも軽くなる。靴裏で立つ枯れ葉の乾いた音も楽しげに響いて、わざと擦ってかさかさと騒がせたりしてみた。
他に誰も歩行者がいないため、訳もなく顔が笑ってしまっても押さえる必要もない。かさかさ、かさかさ、冷たい風が足下を抜けても、クッキーの入った袋も一緒に−−それでも壊さないよう優しく胸に抱けば、暖かく感じた。現実と緊密に触れた中での、数少ない楽しさだった。
家に帰れば、この楽しさも萎んでしまうことは予想し得たが、自分の部屋まで辿り着けば、読みかけの本と、このクッキーで厭なことも忘れられる。孤独なんかではない。寂しいとはおもったりしない。
昨日の夜も、堪えきれない癇癪をぶつけてきた母親に頬を叩かれた。幾度目だろう。まるで目の前に父親がいるかのように見据える顔は、危機感をささやかになぞる懼れを押しつけてきて、無言で体を縮めることしかできなかった。いつになっても、そうやってやり過ごすことしかできない。
比較して今の楽しみを強めることは叶わなかった。過ぎれば、引いたはずの頬の腫れを感じ、自然な緩みを強ばらせる。
電気駆動自動車特有の甲高い、空気をねじるような音が近づいてきて、エリカの横を通り過ぎた。形は平凡なシルバーグレーの車体だが、綺麗に磨かれて顔を寄せれば鏡のように映りそうだった。
何とはなしに目送しかけた車が、エリカの行く先の歩道に沿うようにして止まった。ふと気持ちが固くなる。ぐるりと周囲を見渡し、監視カメラを内蔵した飛行型ロボットが頭上を旋回していることを認めて、緊張を少しだけ緩める。
足が、いつの間にか止まっていた。膝裏を叩かれたような勢いで、急いて歩を進める。止まったまま何も次なる動きを見せない車から距離を取るようにして、そのまま行きかけた。
「エリカ」
どきり、となった。
その声を耳にするのは本当に久しぶりで、音が届いて改めてその時間の空き具合を感じ、懐かしさ覚える。
ぎこちない動きで首を巡らせ、歩道側、すなわち運転席に座している人物を見た。
「パパ……」
何ら変わったところがない、自分のよく知る父親が車窓から微笑んでいた。微笑もうとして、少しだけ翳っているのは多少なりと気後れするものがあるからだと少女は察する。母親と啀み合っている時、一方的に言葉をぶつけられている時でも見たことがなかった、申し訳なさそうな顔色に、エリカは泣きたくなった。
喉の奥で凍った言葉は溶けない。
「元気か」
他に用意した挨拶代わりもあっただろう。何とも陳腐なものも、考えあぐねた末だと父親の顔を見なくてもわかった。視線を背けて、そこで、助手席に同乗者がいることに初めて気づく。エリカが気づいたことに相手も気づいたのか、まっすぐに見返してきた。
−−綺麗な、ヒト。
無機質な賞賛が、からんと滑り落ちる。
父親の年齢より、エリカの年に近そうな、若い女性だった。緩いウェーブを描く黒髪は艶やかに肩に掛かり、身に着けたスーツは味気ない色とデザインでありながら、きっちりと化粧をした顔立ちは華やかに見える。
父親と同じ車に乗り、何も後ろ暗そうな態度もなく傲然として見える人物に、エリカは胸の奥で消え残っていた火が燻るような不快な熱を感じた。
この状況を見て何も理解できないほど、少女も愚鈍ではない。
「ママは、元気か」
頭の中がはち切れそうだった。どういうつもりで訊ねてくるのか、質し返したい衝動に衝かれるが、唇が震え、目の奥に生まれた熱が視界を滲ませる。
「辛いんだろう」
声だけなら、同じ優しさに満ちていた。かつてなら、そっと頭を撫でて肩を抱きしめてくれたその温もりで、全てが慰められた。
「パパ、どうして帰ってきてくれないの」
愚かな繰り言だと絶望的な気分になりながら、他には何も向けたいものがなかった。もっとも叶わない望みだとわかっていて、こうして口にしている自分があまりにも子供なのだと悲しみが募る。
「エリカ、パパと一緒に来ないか」
救いの言葉のつもりでも、父親にとっての利己的なものでしかない。優しく聡明だとばかり思っていたはずが、裏切られた気分で、ぽろりと涙が零れた。
「そんなこと、できないよ」
「ママが心配か?」
親しい呼称で話している父親の考えが理解できない一方で、ますます揺らぐ自分がいた。
「大丈夫、ママは強いからね」
−−何も知らないくせに!
かっと頭の中で炎が燃え立つようだった。怒りだと気づく前でも、口でなじらなかったのは、意地だった。父親の隣に座って静観している人物への、馬鹿馬鹿しい意地。母親のためにも譲れない。
「そうだ、送ったコンピューターの調子はどうだ? ネットは楽しいだろう?」
思いこみを押しつけてくる調子は、らしくなかった。自分の知る父親ならしないと断言できた。
「パパ、帰ってきてくれたんじゃなかったら、もう来ないで!」
泣き顔を堪えて、精一杯の激しさで叩きつけると走り出した。自分の名前が追いかけてきても振り返らず、逃げるように家へと走った。
冷えた頬に幾筋も流れた涙に終の温もりを奪われて、氷のようだった。
家に帰り着いた時には、ほんの少し前まであった浮き立った気分はすっかり潰え、頬を濡らす冷たさが惨めな気分を増長させていた。
「ただいま」
しん、と屋内は静まりかえっている。耳を澄ましても、コンディションコントロール装置の作動音も拾えない静けさだ。
自室までのみちのり、母親の部屋を覗いたが誰もいなかった。機械たちが勤勉に働いているだけで、ここも静かだった。
何処に行ったのか。問うて答える存在はないはずが、目はワークステーションへと据えられる。慮うより、体がわかっているとしか思えなかった。蒼く滲む視界、不確かになる現の触覚に怯えることはなかった。
“管理部長への報告書は私がまとめ、提出しておきました。明日、申し訳ありませんが私は休暇のため出勤致しません。庶務からの連絡も全て課長へ届くようになっておりますので、よろしくお願いします。至急の用件がございましたら、メールをお願いします。 情報管理部第一課カルセド”
いくつも流れた声(おと)の中で、意識が拾い上げたのは、他のどれよりも丁重でありながら、刺々しさがあるものだった。昨日も“拾った”同じ名前に気づく。母親の部下だろうか、一連のトラブルで苛立っているのか、敵意すら感じられた。八つ当たりと言うには、もっと研ぎ澄まされたような−−ずきりと胸が痛んで、意識を閉じる。
元通りの視界を確認して、蒼さはないが、輪郭は相変わらず滲んだままだった。頬の涙も乾いていない。
部屋に入ると、ベッドに脱いだコートとマフラーを放り出して座り込む。絨毯が柔らかな毛足で触れてくる心地よさは、気持ちまでは届いてくれなかった。
袋がしわくちゃになったお菓子を食べる気になれず、ごろりと横になる。
父親が会いに来たことは、冷静な第三者の視点で監視ロボットに記録され、いずれは母親が知る事になると覚悟していた。以前の母親なら、誰もと同じように緊急時−−それこそ子供が行方知れずにでもならない限り細かなデータに偏執的になることはなかっただろう。車の助手席に座っていた女性の存在を知った時、母親はまた怒り出すのだろうか、と思うと背が冷えた。怒るだけならまだいい。肉親でなくても、母親の精神が追い詰められている状況であることはわかっていた。
実際は痛んでいない頬に、掌をそっと押し当てた。
−−昔の母親に戻って欲しい。
父親が戻ってきてくれたらと言う願望よりも、それは強かった。
母親を苛む懸念の一つ、会社でのトラブルはきっと自分が精一杯想像するよりも深刻なものだろう。イー・シー・エスがどれだけ巨大な企業で、母親が担っている仕事がどれだけ重要なものなのかは縁取りくらいしか認識できていない。
−−興味あんなら、今日と同じトコに同じ時間に来いよ。こいつは、<ゴースト>じゃ、できねえ事だ。
昨夜の不思議な出来事は、幻覚だと片づけてしまうにはためらってしまう。最初から、三日でもう幾度も遭ってきたことになる。蒼さと、今や酩酊とも取れる不思議な感覚で繋がる、ここにはないもの。現実とは違う音の響き、色の見え方でありながら、現実だと疑わない意識がある。それすらも、既に自分の頭がおかしな事になっているだけだと糾弾されれば、返す言葉もない。けれど、現実だと言い張ろうとする自分がいた。
横になったまま時計を見ると、昨日の“時間”まで余裕がまだある。そう確認したところで、どうやれば行けるのかまるでわからなかった。
顧みれば、昨日はコンピューターの電源を点けて、ユニバーサルネットへのログイン画面が出たところで、目の前が青みを帯びて奇妙な体験の始まりだった気がした。
今まで見たことのない、限りなく透明で、何処までも青い色に満たされていた“海”はきれいだった。
−−それじゃあ、 賢明なる遊泳(ワイズスイム)を、エリカ。
何処よりも美しい蒼の中で浮かんでいた光りの最後のメッセージが警告のように響き、陶酔に水を差される。だが、機嫌を損ねられるより、懼れの方が強かった。何故、自分の名前が知られていたのかという初めの疑問を上塗るほどの不安が生まれて、その正体は明らかにならない。疎む意識を解そうともせず、見通せない自分を嘲るように
底に根を張って動きそうにもなかった。
エリカは絨毯の表を撫でるようにして腕を伸ばし、指先を見つめた。
不思議な海の中での感覚を思い出し、じっと指先に目を凝らす。ちり、と灼けるような小さな痛みが生まれ、息を詰めた。ささやかな痛みに、鼓動が大きく打つ。きいんと耳の奥が軋む音を立てて、全身を締めつける痛みが広がった。
今を堪えれば、次に来る感覚の安らぎを体が知っているかのように、余裕を見せて、瞼を伏せる。
青い、蒼い、海−−
人の声としては不明瞭な音が耳の底から膨れあがるようにざわめき、意識に触った。煩げに思うと、おとなしげに音は萎み、遠ざかってしまう。
確か自分は目を閉じたままだった−−曖昧な感覚に、目の前の現を重ねて、奇妙さを実感する。ただ、繋がるまで離れがたかった不安が嘘のように消えていた。安らぎを飽くように、この海にたゆたい、安堵を得ようとしている自分がいる。
いずことも、何とも正体の知れないはずの場所でありながら、探し求めていた懐かしさがここにはあった。二度目で、深まる感覚に、確信を抱ける。全てを委ねたくなる甘美なぬくもりと、全てを拒む冷徹さが違和感なく混融していた。初めの騒々しさも払ってしまえば、限りなく静かな空間だった。
見知らぬ人間−−人間であることは疑問も挟まず信じ込めている−−の誘いに乗るなど、母親が知れば、父親に対する感情と大差ないものを娘にぶつけてくるだろう。わかっていて行うことはいけないと承知しておいて、進もうとしている自分が少し信じられなかった。
この場所が、もっと過酷で恐ろしいものであれば、来ようとは思わなかった。
−−どうやって、何処へ行けばいいのだろう。
肝心の疑問が意識を竦ませる。方向すら定かでないこの場所から、どうやって進めばいいのかもわからない。
−−昨日と、同じ場所。グラン……さんが言っていた、場所。
記憶を辿ろうとした矢先、目の前を占めていた蒼い海が漣を起こした。全ての縁取りをおぼろげにさせ、眩まされる。息苦しさはないが、緊張に引き絞られた意識がふつりと−−気づかないほどの瞬きの間途切れた気がした。
“本当に来たな”
驚きと、意外さを含んだ賞賛の声は、すぐそばだった。
“!?”
正常−−そう呼べるのであれば安定した状態に戻った視界全体を把握しようとして、体のどこかが強ばっていてさせてくれない。もどかしさが不安を芽生えさせ、こめかみを締めつけてくる。
“何、びびってんだよ。お前、<ゴースト>じゃないんだろ”
“ 違う”
質されても、何処が違うのかもわからない自分には釈明できないと思った。
“ <ゴースト>じゃありません”
“妙なヤツ。本気でここまで来れたくせに、何でンな風にびくついてんだよ。”
揶揄に一笑され、エリカは自分で自分を萎縮させているのだと宥め、ほぐそうとした。
“グラン、さん。あの……”
“イー・シー・エスのお偉いさんのご令嬢が俺らみたいなのに何の用事だ?”
先手は鋭く、刺し込んできた。どうして、何で? と渦巻く疑問符に翻弄されて、喉の奥が締めつけられたように言葉が縮こまってしまう。
“イー・シー・エスのデータクラックのことについて知りたいんだろう、あんた”
“!”
当惑する少女の反応が楽しそうに、満ちた余裕で次なるカードを差し出してくる。元々はエリカの元にあったはずの、エリカ知らないはずのカードを言い当てられたような気分だった。
“だろうな。他に共通点はねえし”
“ あなた、は……ハッカーなの?”
“古式ゆかしい呼び名じゃあそうだろうなあ”
興味が無い事を言い出す相手をまるで憐れむような言いぐさに、エリカは挫けそうになる気持ちを叱咤した。ここまで来ておいて、すごすごと帰ることだけはできないと言いつける。
“ママは一生懸命働いているのに、そう言うことをする人、許せない”
言葉にして、怒りが後付けされたように角が立つ声に非難された相手−−グランが鼻で笑ったような気がした。顔が見えるわけではなく、蒼い空間で明滅する光りの中に人間の意識を封じ込めた形(なり)が見えるだけだが、感情はリアルに伝わってくる。
“そいつはいつの時代の文句だ? データがあれば、守る者と攻める者がいる事は常識だろう。データが大事なら絶対に入れないガードをすればいいだけの話じゃねえか”
少しも深刻さ、罪悪感を感じていない口ぶりだった。
“それに、俺たちのような人間が今までもいて、抜きつ抜かれつでやってきたからこそ、ここまでサイバーテクノロジーは発達したんだぜ”
傲然と揺るがない態度に、エリカの方が戸惑ってしまう。グランの言う常識と、自分の常識があいあわない事だけは確かだった。ぽつりと落ちた認識は、役立ちそうにもなくそのまま空しく沈み込んでしまう。
“ あなたはゲームで……遊びでやっているの?”
認めなければならない部分もあるのだと譲歩を強いてくる自分もいたが、どうしても譲れない部分が相手を難じるような語勢になってしまう。ふと、気づく。喋っているはずが、唇は動いていない。心の中で綴るものが、自分の内側から音として耳に入ってくる奇妙な現象だった。相手の“声”もまた、頭の中で浮かべた少女の慮いに馴染むように非現実的な響きをしている。
“腕試しにはもってこいなんだよ。そいつででかい事をして名を挙げりゃ、噂を伝に仕事が入ってくる。”
“ 仕事……”
エリカの基準では真っ当にはほど遠い仕事内容だと推せて、ため息が出そうになった。このような会話、本の中だけのフィクションとばかり思えていて、往生際悪く、ここにいる自分に違和感を感じる。
“イー・シー・エスのデータバンクに侵入して壊して欲しいとかな。”
無知な相手をからかうことが楽しそうに、グレンは軽く笑って戯けた口調−−響きで伝えてきた。
エリカは、自分の身近に触れる言容に息を飲み、胸が緊張にきゅっと締めつけられる。
“ 犯人を見つけることは、難しくはないが簡単じゃねえよ”
対照的に真面目一本ないらえをする少女を多少は慮る気があるのか、男はそう嘯いてフンと鼻を鳴らした。面白みのない事を言う自分に辟易している空気をエリカは感じ取ったが、どうすれば巧く会話を繋げられるのかわからなかった。
“あなたは、昨日、自分でも同じ事ができるって言っていたよね。それも、難しくないの?”
しん、と音が失われて、居心地の悪い間が空いた。
“あんた、本当に素人か?”
不審を帯びて、警戒に固くなる声に頭を振って、返す。
“ わからない”
“偶然にしちゃ、できすぎてるし。<ゴースト>にしちゃあ、言ってることはまともだ”
用心深そうなのはそのままに、寛容な態度をとろうと努めているようだった。一つに於いても食い違う印象をもつエリカに対し優位さを保とうとする意図なのか。少女にとっては自身でも御しきれない不明瞭さを明かしてくれるならそれでもよかった。
“あんた、家から繋いでんだろ”
“ つな、ぐ? ユニバーサルネットに?”
問い返して、頭の悪すぎる反応に自分で気分が悪くなる。
“……頭、大丈夫か?”
グランの不審さも致し方ないと思えた。それでも、質す間合いだと思い、口を衝く。
“ 私、ユニバーサルネットにいるのよね”
“おいおい、急に怪しいこと言い出すなよ、当たり前だろう。でなきゃ、ここは何処だってんだ?”
“ ご、ごめんなさい。私は、自分の部屋からよ”
不審さを募らせる挙動だと自覚はあったが、漣を起こし宥められない心中であるのは、エリカもそうだった。自分のことだからこそ、わからない。
“ふうん、あんたの家にあるでかいの、レルナードの最新型てとこか。ここまできたらブレインの一つなんだろうな。あんたの母親の地位を考えりゃ当然か。涎が出そうなもんばっかずらりだな。ああ、最近ラインを繋げたばっかりの汎用型もあるな……こっちはまだ未使用か”
“なんで、そんなことまでわかるの?”
未使用、と言う言葉が大きく響き、また改めて気づかされる。自分は一体どうやって、ユニバーサルネットに存在し得ているのだろうか、と。
“企業秘密だ”
少女の怯えを若干勘違いし。自分の示威が達成できたとでもいうように、グランは軽薄な調子を取り戻していた。
“忠告させてもらえりゃ、その未使用のヤツ、未使用のままがいいかもな”
“ 何故?”
そう促されることを待っていたようだった。
“妙な仕掛けがされている。ネットにログインすれば、LAN上のものだけでなく、外にまででかいことをやらかしそうな厭なニオイがぷんぷんだ”
抽象的な表現が多すぎる中、エリカは何とか自分なりに意訳をして、危険性だけは酌めた。考えれば考えようとするほど、考えたくないものが引きずり出されそうで懼れに体が震えそうになる。
“パパにもらったコンピューター、なの”
“ あん?”
半ば自分の中で補足したことばは、当然ながら真っ当に相手には通じず、怪訝な相槌が返ってきた。
“未使用のは、パパがくれたものなの”
“ふうん、植えつけたのは結構最近みたいだぜ。製造ライン上じゃねえな”
そのようなことが何故わかるのかと言う非常識さへの怖じよりも、まさかという、自分の望まない可能性が思惑の形を取ろうとしている事が怖かった。
“ それって……ど、ういう……”
何処まで相手の言葉を鵜呑みにするか、という冷静さはない。ずっと不思議だった事が、わかりやすい現実として示されようとしている。引っかかって擡げていた疑問が解消される安堵感もなかった。
“さあなあ。まあ、このまま放っておく分には何もねえし、いいんじゃねえの”
“イー・シー・エスでのトラブルと、関係はないよね?”
我が家では禁制であったはずのエリカ専用のコンピューターを贈ってきた父親、自信家で相応の実力を持っていたからこそ、今の地位を手に入れた母親を潰えさせるトラブルの発生。
偶然にしちゃあ、できすぎてる。
胸が、また竦んだ。
“さてなあ。同じヤツがやったかどうか、調べてみないとわかんねえよ”
気乗りがあまりしなさそうで、好奇心を引くものを無視できないのか、素っ気なさはない。
“ 犯人を見つけることは、難しくはないって言ってたけど、どうやったらわかるの?”
“あんたじゃ無理だよ”
半ば笑いながら、応えは早かった。エリカの意気を挫くつもりもあったのか、わからない。少なくとも親切心からではないだろう。
“ 知りたいの”
自分には何もできないかもしれなくとも、ここまで来たのであれば、何か一つでもと己の力も弁えずに望んでしまう。
“あんた、本当に俺と同類じゃねえのか?”
“ 同類?”
ハッカーという意味に酌めば、悩まず否定をすればいいだけのはずだった。だが、自分の本能が、グランはハッカーとは決して同じではないと嗅ぎつけ、問いへけんもほろろに突っぱねることを押さえる。
“ま、いいか。イー・シー・エスの件は俺も訊いていたし、興味があった事は嘘じゃねえ。コバルファやレルナードとは比べようがないが、あそこのガードレベルは柔くない。けど、俺自身のスキルを上げるためにも見に行くのは悪くねえ話だ”
“見に行く?”
“もう直してるだろうが、痕跡ってのはいつまでもあるのさ。普通の奴らは見つけられないが、俺にはわかる”
“ すごい! どうして、どうやってわかるの?”
自信に満ちた揺るがなさが、かつての母親と重なって、賞賛が口を衝いて出た。
“それも、企業秘密だ。どうだ。あんたも行くなら、連れて行ってやるぜ?”
何処へとは問い返さなかったが、距離感も不明な“何処か”なのだと、子供も騙せそうにない曖昧さで理解はできる。言葉通り、イー・シー・エスのデータが壊された場所だということだ。ただ、どのように目に映るのか見当もつかない。
−− <ゴースト>たちは強いデータの周りに引き寄せられる。
はっとなる。幼く、静かで、優しい声が蘇り、はっとなった。見知らぬ人間の警句だが、遵守した方が身のためだと賛同する自分がいる。
“ <ゴースト>がたくさんいるんじゃないの?”
“わんさかいるかもな。なんてことねえよ。あんな奴らは無視すりゃいいのさ”
気楽で、物怖じしない無鉄砲さは羨ましいほどだった。少女の中で消えることがない不安を、無謀さに引きずられるように好奇心がむくりと身を起こす。
“ 行きたい。一緒に連れて行って”
03
ついていく事も、連れて行かれる事もあまりに普通に簡単で、意識すれば途端に不透明な淵に落とされてしまうようだった。グランが誘い、「後に着いていく。離れないよう、置いて行かれないよう」そう思うだけでよかった。どちらかというとぬるく適度な粘着性を持った流れの中に身を任せ、まるで泳いでいるような気分だった。距離感は当然要をなさず、時間の感覚もおぼろげになる。夢を見ているような心地は、いつまでもそのままだった。意識するだけ馬鹿らしい、奇妙な感覚で“現実”とを繋いでいる。
最初は、青さが深かった“海”−−まさしく海と表現していい広がりと底知れ無さを感じさせる空間は、何処も同じではなかった。青にも濃淡があったり、全てを飲むように黒く沈んだり、色とりどりの光りを鏤めた天鵞絨のようであったり、星のように点る光りも、消え入りそうに留まっているものもあれば、激しく明滅し高速で移動していたり、一つとして同じではない。
眺めて変化を捕らえつつ、最初感じた安寧感も消えずありながら、その上にどろりとこごってくるものが厚みを増していく。
“ホラ、見ろよ。あそこが現在目下工事中のイー・シー・エスの壁だ”
グレンの言葉に現に戻る。
辺りは灰色を帯びた薄ら寒い光景で、ひしめき合い、啀み合うようにぶつかり合う赤みを帯びた光りの群れが視界の端でいくつか認められた。そうして意識を向けるだけで危険だと警告してくる本能が背を冷やし、ここにあると思えない自分の体が震える。
男の示した先を導かれるように見れば、巨大に聳える灰色の壁があった。壁、と言い表すには透ける布を幾重にも重ねたようだった。凝らせば、青白い小さな光りの粒子が明かりをくすませて連なり、ある場所では螺旋を描き、ある箇所では線状になり、綿密に布を織り上げるようにして視界を塞いでいる。
“カーテン、みたい”
“まあ、な。似たようなもんだ”
エリカの表現に異を唱えることなく、相槌を打つグランの声は明らかに緊張していた。少しだけぎこちない音に、少女は新たに生み出されてくる懼れを留める事もできない。
“ちかちかしてるのも、見えんのか?”
“青白い色がついているもの?”
エリカから即答されると思っていなかったのか、グランが怯んだ息を飲むのを感じた。全て、見えると言うより肌で感じている。
“あれは大概ダミーのトラップだ。知らないヤツはあれを避けようとして逆に痛い目に遭う”
“痛い、目……”
ずきり、と体の何処かが軋むように痛んだ気がした。
“ウィルスと認識されて攻撃される。巧くかわして反撃できなければ、そこでジ・エンドだ”
終を示す言葉にひやりとさせられる。攻撃も反撃も何も術を知らないエリカには未だかつて経験した事のない天災よりも怖いものに思えた。
“ま、色がわかんなら、気を付けりゃいいさ。俺とあんたが全て同じように見える事はないだろうが、他と違うなら、怪しいと思って近づかなければいいだけだ”
少女の怯えに気づいたのか、グランの声は柔らかくなる。寸前までの、粗野で高慢な態度が嘘のようだった。
“優しいんだ”
思わず口を衝いて出て、自分も、相手も驚いた。
“あんたは何も知らねえみてえだから、言ってやってんだよ。俺がそばにいながら妙な事になったら、俺だって夢見が悪いじゃねえか”
抑え込む苦みが滲み出ていて、ぶっきらぼうに吐き捨てる語尾も力無い。顔も姿も見えないはずが、だからこそ、なのか、わずかな音の強弱や震え、そこにある光りの変化で想いが伝わってくるようだった。グランの存在を示す−−もしかしたら存在そのものである光りは、常に強く輝いていて、かと思えば、声に同調するように放つ縁取りをぼやけさせ、輪郭をおぼろげにする。普段の態度も虚勢ではないことは察せられたが、今こうして弱くなる光りも偽りなくグラン自身なのだとわかった。口には出さない。
“あなたは大丈夫なのよね。強いんだよね?”
親しいとは言えない相手に依存しようという気は毛頭無かったが、他に頼れる者がいない事もまた確かだ。グランの言うように、自分は何も知らなさすぎる。
“まあな”
男の自尊心に触れれば、光りは弱さを拭った。得意げな響きで、胸を反らしている様が見えるようだった。
“あんたはそこにいろよ。ちょろちょろするなよ”
そう言うと、グランの意識の先が、ふいと視線が逸らされるように自分から壁の方へと移行する事を感じた。
言われた通り、エリカはそこから動かないよう自分に強く命じる。言い聞かせないと、どうすればいいのかわからない不安がりな自分がふらりと何処かへ流されそうな不安定さを自覚した。
周囲の幾重にも重なった透明の壁は、こうして少女が視点を据え−−意識を懲らすだけでも拒むように、面を硬質の光りが撫で落ちるのが見える。強固さをそうして見せながら、不意に水紋のように揺らめいたりして不安を煽った。慎重に周りを見れば、遠くでせめぎ合っていたはずの赤みを帯びた光りが近くにまで来ていて、高速でエリカたちの側を駆け抜け、その度にびくりとなる少女を嘲笑うようにいくども同じ動きを繰り返す。耳の奥で、甲高い哄笑がざわめいて、寒気を振り払うようにエリカが身震いするとその時はすぐに収まってしまう。
ふ、と壁を仰いだ。ちりり、と項を撫でる不快感に促されるように、本能がその元を探るような素早い動きだった。
透明だったはずの壁がくすみ、赤く濁って来ている。最初は錯覚かと言うほどに薄く、エリカが気づいた事に応えるように深く濃くなっていく、不気味な赤。
“グランさん、どうなの?”
“ああん? まあ、待てよ。疵は小さく塞がれちまってるがはっきり残ってるぜ。こいつをもう一度開けば……”
意識は半ば以上壁の方に注がれていて、少女の怯えには気づいてくれていないことが、ますます焦りをも増強させた。
<ゴースト>たちのけたたましい嗤い声や叫びを遠巻きに、壁はますます不穏な様相を呈してきている。
“待って!”
息を飲み、エリカが声を上げるのと−−明るさが瞬き弾ける感覚と、意識を絡め取ろうとする害意が目に見えぬ網として放たれるのと、少女の意識が後ろへと突き飛ばされる事がほぼ同時に起こった。
“グランさん!?”
何が起こっているかわからなかったのが最初だった。
“くそ、こいつもシュードプログラムかよ! くそっ、ちくしょう!!”
苛立ちと怒りを吐き捨て、グランの光りが薄赤い網に覆われてもがき始め、呆然となってしまう。赤みが灰色へと変じ、輝きを飲み込んで行こうとしていた。
“グラン、さん!”
ざわりと全身が総毛立つ悪寒に、足の裏から力が抜けそうになる。グランを包み込む網へと手を伸ばす−−何処にも自分の腕や手は見えなかったけれど、必死に触れようとした。
凍てつく痛みが意識を縛り上げ、頭の芯から痺れが放たれる。驚きも恐怖も声にならず、喉が凍りついていた。
耳の奥から<ゴースト>たちの喧噪が沸くように、存在が急に近く感じなり、視界が狭くなっていく感覚に眩んだ。自分の存在が揺らめいて、不安定になっていくことがわかり、吐き気を催してくる。
見えないはずの顔が、幾つも見えた。個性を見出す事は不可能ながら、さまざまな表情が瞼裏に浮かぶ。喜々とした顔、心の均衡を無くした虚ろな目をした顔、苛立って怒りに醜く歪んだ顔、正気ではない空気にエリカは悲鳴を上げた。実際は音にはなっていない。
こびりつくグランの悲鳴や、群がろうとしてきた<ゴースト>たちを全て振り払うように逃げ出した。逃げたい、と願って、エリカは眼前のものをかき分ける。
−−逃げなきゃ、逃げなきゃ。
飽くように繰り返して、思考を逃走の意思が占め尽くした。
−−相手が危険だと思ったら、望めばいい。逃げる意思を抱けば、君の力が望みに応えてくれる。
ほんの先刻の言葉のようだった。狂ったように逃走と救援の願いを繰り返し、エリカの意識は必死だった。泳ぐように、走り抜こうと己に強いる。
−−止まれば、そこで終わりだ。
全ての感覚が曖昧になり、やがては現状を維持し続ける事に疲弊が誘われ、限界に達するまで逃げ続けた。
“驚いたな”
聞き覚えのある声に、少女は自分の現実に気づく。
深い蒼に満ちた、何処までも澄んだ美しい海が視界全体を包んでいて、ここには脅威はなかった。
“あなた、は……”
<ゴースト>の哄笑のけたたたましさは幻のように、色の本来の印象と同じく冷ややかなほどに静まりかえっている海は穏やかだった。
“偶然だね”
光りは、すぐそばにあった。
他のどの光りでも敵わない、輝きだった。
“いや、ここへ二度も来られるなら、もう偶然じゃないか。君の力が可能にさせた現実だからね”
歓迎する温かさは微塵とない音は綺麗な響きで、この場所に自分以外の存在を欲しないつれなさがある。居心地の悪さと同時に、絶対的な庇護を受けられると本能が感じ、エリカは気が抜けたようにその場に蹲り−−意識を蟠らせた。
“僕は忠告をしたけど、無茶をしたんだね”
“無茶……でも、グランさんが一緒にいてくれたか、ら”
折角収まりかけていた動悸が、ふつふつと立ってくる。
“ふうん、彼は確かにそこそこの感応力を持っていたみたいだけど……”
何故、知っているのかと訝る隙も与えられず、口を無駄に挟む事は許されない気がした。
“それだけだ”
厳しく冷酷な、遅すぎる戒告だった。
“グランさん、一体どうなったの……助かったの?”
“イー・シー・エスの新しい壁には太刀打ちできなかっただけさ。なかなか小狡い技でガードし始めたみたいだけど、それに気づかなかったのは個人の責任だから、同情する事もない”
“そんな……”
自分をも責められているように感じられるだけ罪の意識が内にはあり、それを再確認して、罪戻に息も詰まりそうになる。
“君が助かったのは、彼よりもはるかに優れた、強い能力を持つからだ。つまり、君がサイバーシンパシィだということはエビデントだね”
“サイバー・シンパシィ?”
“人がこの空間に接触して来、その文化技術を発展させると共に遺伝子が生み出した異能力さ”
好意も無い、ただ、音を並べて事実を告げているだけだった。
“でも、どうして、今なの? 私……学校でもコンピューターは触っていたわ。でも、今までは何も……”
不思議でならなかった。今の自分の力についての解明をしてくれていることはわかるが、唐突に差し出された未知の名称に戸惑うだけだ。
家ではホーム管理コンピューターの調整端末程度に触る程度で、学校の授業ではコンピューターに触れない日はない。いずれもネット接続が可能であるにも拘わらず、一度も繋いだことはない。クラスメートは授業がつまらないとこっそりネットを覗き、大胆な者はゲームに興じることもあるとか……クラスメートの自慢話ならたくさん聞いてきた。
それだけの、発展性のない自分の周りがいかに閉鎖された空間であることを理解しても、それ以上のものは望まなかった今まで。
“能力者には大きく分けて二通りのタイプがある。一つは、きっかけは<ゴースト>のようにこの空間に入り込み、能力を磨いていく者。もう一つは、当人の意思がない限り、完全に能力をクローズしていて……ごくささいなことがトリガーになって覚醒する者。君は、後者ということだろう。それに、高度な能力を持つ者なら、コンピュータに触れていなくても泳ぐことができる”
淡々と、少女の乞う答えを出してくれるが、意識は自分に向いていないことが伝わってきて、それを辛く感じる。
“あなたも……”
−−サイバー・シンパシィなの?
声にならない問い。
“もうお帰り。大丈夫、君を追っていた<ゴースト>はもういない”
“ねえ、あなたは……”
−−一体、誰なの?
また、声にできない。
“君が、その力を自覚して、巧くコントロールする気がないのなら、二度とその<目>で泳がない事だ。命を無駄にする事はない。いいね?”
厳しく、そうして優しい。
自発的では決してなく、強制的に弾き飛ばされ、引きつれた痛みと同時に意識が無理矢理つり上げられ、一度途切れた。
自分の悲鳴で目を覚ました。喘鳴のように喉の奥へと消えていく名残と共に瞼を開けると、ぼんやりとした暖気が頬に触れ、ベッドの中にいる自分に気づく。
「エリィ……」
額にそっと当てられる冷たい手は、同時にやわらかだった。労るように、不安げに震える指から伝って見上げると、血の気が薄まった頬を強ばらせて、母親が見下ろしていた。目が潤み、薄赤く縁取られており、泣いていた事がわかる。
「ママ……」
掠れた声は自分のもので、それを聞いただけで、恐ろしさが何処にもない母親の顔が涙をこぼしそうにくしゃくしゃに歪んだ。
「ああ、エリィ、大丈夫なの? 苦しそうだったけれど、何処か痛いの?」
帰宅した母親が、自室の床−−絨毯の上で倒れている娘を見つけたのだろう。どの経緯か、苦痛に喘いでいた症状がそのまま寝言のように出てしまい、母親を慌てさせたのか。
「ううん……だい、じょうぶ」
落ち着かない視点が母親の狼狽を表していて、エリカは自分が先に泣いてしまっていた。
「ごめんね、ママ」
身を案じ、こうして付き添ってくれる。それだけで、肉親の情は確かにあるのだと、嬉しさに泣いてしまっていた。
窓を見れば外はもう夜で、二人が黙ってしまえば、しんと静かだった。寂しくない夜の静けさが次の音に耳を澄ましているようだった。
「ママ、今日ね、パパと会ったの」
一瞬覗く、怖い顔。それを見せないよう堪える素振りで、母親はそっと俯く。
「……そう」
短い相槌に葛藤は深い。
「帰ってくるつもりじゃないなら、二度と来ないでって言っちゃった。ごめんね」
自分から自白してしまえば、気後れは少なかった。隠さず告げる事が、相手への信頼を渡す事と同じだと思えば、事実にはためらわない。
「エリィ」
ひどく冷めた声になっていて、しかし、危うさはなかった。そして、感に堪え損ねたため息を吐く。やるせない、一息だった。
「いいのよ、パパの所に行っても」
眦が、緊張に強ばるのが見えた。この一言にどれだけの気力を削いだのだろうか。
「あなたには選ぶ権利があるんだから」
その一言に、どれだけの本当を隠しているのか。らしくない自棄が声を尖らせている。意地は強固で、娘には揺らぎを見せていないと言う自身に縋っている母親に、エリカは毛布の中で手を握り合わせた。強く。
「私、ママがいるだけでいいから。私は、ママと一緒にいるから」
強くて、弱い母親は、一人にされるのが怖かったのだ。自分と同じで、そして没頭し逃避できるはずの仕事でトラブルが起こり、心の均衡が何度も崩れたのだろう。少しも強くない、弱すぎる姿だけれど、それでも、自分の母親だった。大好きな、母親だった。
「ママにも色々あって、今は大変なんだよね。それなのに、心配かけてごめんね」
振り返れば、<ゴースト>たちの声を、痛みといっしょに思い出す。
「いいのよ。私は、エリィの母親じゃないの」
だから構わないのよ、とそっと髪を撫でてくれる手は慈しみがこもっていた。痛みを忘れさせる、優しい手。
それでも、グランの行方への懸念をなかったことにはできなかった。
−−君が、その力を自覚して、巧くコントロールする気がないのなら、二度とその<目>で泳がない事だ。命を無駄にする事はない。
蒼い海の、強い輝きを持った美しい光りの厳しい声は刻み込まれている。現に戻れば、不思議でならない様々な現象だった。ただ、無闇な恐怖だけはない。
母親に訊いてみるべきか迷った。サイバー・シンパシィのこと、自分の端末にしかけられた細工の存在のこと、自分の知識だけでは消化しきれておらず、言葉そのものを受け止めているだけだ。
現実主義で、理屈で片づけられる科学に反する幻想を嫌悪する母親の性格を思えば、きっと失言にしかならないだろう。自分の思慮の中へ踏み入れる事すら許さない拒絶が返ってくるだけだと思えた。
非常識な−−母親にとっては受け入れられない非常識な事象を話して、事細かに説いても伝わらないだろう。いくら質されようとも答えられない辛さに意気を保てる自信も、なかった。たとえ、母親が耳を傾けてくれても、母親が欲しい確答には言葉が足らなさすぎて苛立ちを覚えさせる。せっかく穏やかになっている母親の心中に漣を立てる事だけは避けたかった。
−−自分で、やってみるしかない。
「ママ……、そのパソコンだけど……変だから調べて欲しいの」
パソコンの存在を出しただけで、せっかく和らぎかけた母親の顔がすぐさま硬化しかける。
「私、まだネットに繋いでないんだけど……なんか、ログインしたら変になる気がするの……」
グランの忠告を無駄にしたくなかった。これだけは自分ではどうにもならないだけに、母親の力を借りるしかない。一連の出来事とは、まったくの無関係だと流してしまうことができず、向けた背に影を落として息を潜めているような不安が拭えない。勘という、母親がもっとも厭いそうなものに頼っているが、自分にはそれしか判断するものがなかった。
「言っていることがわからないわ」
予想し得た、冷ややかな声だった。父親が送ったものというだけで、壁を張ってしまっている事に、エリカはそっと息を吸った。
−− ここで、諦めないで。
「ごめんね、私もうまく説明できない。でも、どうしても気になるの。何かがある気がするの。お願い、ママ。誰か別の人に頼んでくれてもいいから、お願い、調べて」
母親の手を強く握り、母親の目だけを見る。これだけ懸命に真摯に言葉を作ったことは、ないと思った。いっそ感じる清々しさが、また力を与えてくれて、最後まで言い切れる。
娘の強かな表情に母親が瞠り、 長い長い間が横たわったようだった。やがて母親は肩の力を抜くようにして頷く。
「わかったわ」
手を軽く握り返して、苦笑をかすかに口の端に浮かべる。
「珍しいわね、あなたがそんなにお願いしてくるなんて」
困惑もあったが、子供の意外な一面を喜ばしく思っているのだろう、眦はきつくない。
「ママ、もう、私一人で大丈夫だから」
「そう。無理はしないで、また気分が悪くなるようなら、言いなさい」
大人しく肯くと、母親は頷き返して部屋を出て行った。最後に笑顔を見せるような器用さはなく、真面目な顔のままで出て行く背を見送って、そっと息を吐く。気を緩めれば、とろとろと眠気にとろけそうな意識の端は、心地よかった。
グランの無事を確かめたい。それだけでもしなければ、到底心のつかえは落ちそうになかった。
わずかのためらいを挟んで、ゆっくりと瞼を伏せる。
浮き上がるような、沈み込むような緩やかな意識の揺らめきは、蒼い空間が“見えた”瞬間、解放された。現実の感覚が幻としてほどけ、痺れるようにとろける。
−−なんで、こんなに気持ちいいんだろう。
そうした疑問すら馬鹿らしく放り投げてしまうほど、心地が良かった。
<ゴースト>や、固く冷たい存在も確かにあれど、この空間そのものは優しく感じられた。きれいで、何処か懐かしい青い蒼い海に、ずっと身を浸していたいと望む自分がいる。
−−グランさんの、無事を確かめなきゃ。
本来の目的を忘れるわけにはいかなかった。時間の猶予はないはずで、ぐっと気持ちを引き締める。
グランのいた場所、イー・シー・エスの壁までの距離は? 方向は? 前はグランに連れられて、後を追えば良かった。だが、今は先導者はいない。
−−望めばいい。君の力が、君の望みを叶えてくれる。
あの時は、優しい音で告げてくれた美しい光りが脳裏に浮かぶ。それだけで力を与えられる気がした。強い力は、自信へと変じる。平常であれば、自分のものとは思えない強く衝かれる意思(おもい)だった。
またたきの、眩み。
青から、グレーのグラデーションへ、色の変じは肌に感じる温度を低くさせ、足下を留めさせるよう空気が重さを増した。浮かんでいるような不安定さではなく、自分の“意識”は“立っている”のだと、こうして気づかされる。
天頂がみえないほどに屹立する壁は、のしかかるように暗い重なりだった。仰いで、息を飲んでしまう。
遠いさざめき、温もりを感じない広がり、ちらつく狂気の赤−−
何も安らがせるものはなく、海そのものは穏やかなだけだった。
−−グランさん……。
自分より知識があり、力を持っている事を疑わせなかった男の無事を求め、慎重に注意を払う。
青白い点滅−−グランが言っていたダミートラップはなく、視界を遮る壁は以前より厚みを増して透明度は落ちていた。冷ややかで、張りつめた警戒を感じ、触れようとする意気を挫く硬さが目に映る。
“グランさん、何処にいるんだろう”
−−イー・シー・エスの新しい壁には太刀打ちできなかっただけさ。
−−巧くかわして反撃できなければ、そこでジ・エンドだ”
しごくまとともな、何も受け入れがたい理論はなく、明確な現実だった。力の強いものが弱いものを屈し、潰えさせることができるだけだ。もし、捕らえられた壁の罠から脱し、群がる<ゴースト>を退けてくれていれば、今頃は……。
“本当のグランさんは何処にいるのかしら”
何も、知らない。本当のものかもわからない−−恐らくは偽名だろうグランという名前しか、知らなかった。
グラン自身は、二度目にあった時、エリカの素性を知っていた。たった一度の邂逅で、何故。
−−望めばいい。君の力が、君の望みを叶えてくれる。
それは、少女にとっての呪文になっていた。
自分が知るだけのグランの“光り”を思い起こし、形、色、動きを記憶の中で再生させる。最初に会った時、二度目と重ねてより明晰に蘇らせて、望む。グランの素性と、現在の状態はいかなるものか。
応えはあっけないほどだった。
真っ先に浮かんだ345AWD587という数字が、個人IDであることはすぐに理解できた。ジュータミンの同じ領有星だが、チオラではない星の住人のもので、グランの本名、年齢、職業、現住所……全てが乞うままに“わかる”。非現実的な現象に懼れはあったが、もう少しで求めるものを得られるという実感も確かで、ほっとしている自分がいる。
critical condition
どきり、となった。
critical condition
もう一度、辿る。現状を示す文字の羅列と、それを生み出した場所が医療機関−−病院の救急部の患者管理データプールである事を認め、ふつりと意識が探るのを止める。無意識の意識の指示に迅速に従順に応える自ずの力よりも、とうてい受け入れられないものがあった。
何処かで覚悟をしていた、予想の一つのはずだったけれど。
−−私の、せいだ。私があんな話をしたから……。
愕然と、呆然となり、もろく崩れそうになる足下。目の輪郭を沿うように痛みが走り、じわりと全ての像が歪んで、頬に落ちる感覚は涙だった。冷たくも温かくもなく、ただ、頬を滑り触れるものだけを感じる。指で拭おうとしても、何も流れ出てはいない。ここにない、本当の自分が泣いているのだとわかった。頭の芯から広がってくる鈍痛も、己の何も出来無さを責めているようだ。
−−命を無駄にする事はない。いいね?
警告が現実となって身に染み、今度こそ、この場から逃げ出そうと欲する自分がいた。意気地を奪おうとする、悲しみの辛さを払うには、悔しさは足りない。自信の分だけ足りなかった。
自分からは行動を起こす事は殆どなく−−そして、気づく。この<世界>に来た事は自分の意思で、答えを求めようとしていた者も紛れもなく自分自身だった。行動には常に責任が伴い、放り出す事は確かに一瞬で済む。
−−それで、許せるの?
現実から目を背け、本の中の架空の世界に逃避し続けていた。きっと、これからもそうするつもりだったのかもしれない。
−−ジ・エンド……じゃないよね。まだ、帰れないだけだよね。
挫けないで、諦めないでと奮起させる、もう一人の自分がいた。
−−望めばいい。君の力が、君の望みを叶えてくれる。
04
背後遠く蠢いている<ゴースト>たちとの距離を測りつつ、灰色の壁を見渡した。直接手を伸ばそうとはせず、少しでも違う部分を探ろうと目を凝らす。応えるように、見通しの悪かった壁が水紋のように揺らいで、視点を当てた周囲だけが透けた。集中力が少しでも緩むと、また何も見せない。なるほど、とエリカは背後への警戒はそのままに、ゆっくりと壁に沿って移動しながら、自分の<目>で探査した。対する灰色の壁には紛れもなく意思を感じる。訝しげに見つめ返す頑なな壁に興味のない顔をして、目を盗むようにほころびを探った。きっと、違う部分があるはずだ。自分よりはるかに長けているはずのグランですら嵌ったのであれば、なおさら自分は慎重に、油断してはいけない。より冷静に、いっそ臆病なほどにやればいい。諦めようとする自分の先回りをして、言い聞かせる。
同じ灰色でも、深く見透かせば、一つと同じ所はなかった。その事に気づけた自分を奮起させて、一方でこれまでに費やした経過時間を慮う。目の端で目障りでない程度の光りがちらついて、まだ半時間も経っていない事を確かめる。何故、自分にそのような事ができるのかという疑念を受け流した。事実は事実だけれど、現実もまた、確かなものだった。
気を抜けば見落としていただろう、白く淡く−−弱すぎる光りに気づいた。もう、光りとは言えないかもしれない。力を失う寸前の、儚き残光のかけらだった。
周囲より古く、暗く沈み、孤り癒えぬ傷を抱えるように点っているもの。
“グラン、さん……!”
近づこうとして、全身を叱咤する強かな冷気に怯んだ。それが、壁の敵意だと気づき、息を飲む。今は無害な<ゴースト>より、はるかに危険で、致死的な事態を引き起こすだけの力を感じ取り、エリカは己の意識を静めた。穏やかに、逸る気持ちを押さえてなだらかに精神を凪ごうと試みる。神経を尖らせて、そうした努めを察せられないよう意識を分けた。そうすればいいとわかったわけではなく、赴くままにごく当たり前に行動が内から促されるようだった。無為にして化す、ということばほど高尚でなくとも、ごく近い気がした。ほんの半時間で、わかっている−−あくまでもわかっているような自分が信じられない。けれど、疑いの余地をわざわざ探そうとは思わなかった。
“私は、グランさんを助けたいだけ”
ゆっくりと壁の面を労るように撫で、柔らかさを得た瞬間、手を滑り込ませる。ちりりとかすかな痛みを覚えたのは一瞬で、押せば返そうとする抵抗も少なく、深く、奥深くかき分けるようにして手を伸ばした。自分自身が壁の中に入り込んでしまっている事に気づいたが、怖じはない。ただ、一心に縋るように己の行動に飽く無かった。
不意に、抵抗感に突き当たり、進めなくなる。
そこに見えているはずが、もう少しであるはずが、どうしても届かないその後少しがもどかしい。
弱々しい光りが一層弱まってきたように思え、焦りが増した。
“早く、しなきゃ”
けれど、届かない。自分の限界を認めるしかなかった。この困難を克服する術がある事はわかるが、望むだけでは叶わない事だという事もわかる。殊勝な自分が悔しくなった。本当は前も後ろも分からないこの世界で、ここまでやれただけでも十分だと労いの形ばかりの諦念が肩に掛かろうとする。
駄目だ、と弱気を振り払った。灰色の深みが視界に障り、かすもうとする弱い光りに焦りが募る。
−−もっと強い、識っている人なら。
自分の知る存在自体、この世界ではたった一人だった。
蒼い海の強い輝きを思い起こせば、体が軽くなり、無音で無動の海が広がっていた。灰色の壁は何処にもなく、ただ静かだ。緊張が一時ほぐされ、美しい海に包まれて感嘆の息を零しそうになる。
“僕は忠告したはずだけどね”
難じる声に、エリカは怯まないよう己の意思を叱咤した。真っ向から見返す事には勇気が要る、本当に強すぎる力だと認める。今更−−わかる。
“私は、ママのためにも、グランさんのためにも、うやむやに終わらせたくないの”
母親の精神をさらに苛んでいるトラブルと、自分が巻き込み、不帰の客となろうとしているグランから目を背け、現実から逃げ出す事だけはしたくなかった。本の中の空想の世界へ逃避する事はたやすい、けれど。
“あそこは、ガーディアンを新しく雇っている。サイキックレベルは5(+)程度だが、並みのクラッカーでは歯が立たない。君があそこまでできたのは、番犬の能力値を純粋に凌いでいるからだ”
言葉ほどには、少しも賞賛していないとげとげしさが、エリカには悲しく感じた。
“ごめんなさい。あなたに迷惑をかけている事はわかっているけど、他に頼れる人がいないから。私ではどうしたらいいかわからないから”
“自分の力を認める事は大事だけどね。それが通用するのは、リアルの世界だけだ”
痛烈な言葉は物理的な力を得ているように、体に細かな痛みを感じた。それでも、エリカは退こうとぬるく簡単な逃げ道を選ぼうとしなかった。
“おねがい。どうしたらいいのかだけでも、教えて”
自分にできる事は、縋って助力を乞うことだけだった。恥も外聞もここではない。長引く沈黙が痛かったが、それでも、諦める気はない。
“意外に強情だね。大体、君にどんな利得があるんだ? 君の母親が作った壁の異常は事故みたいなものだ。今は確かに責任を問われ、相応の処置を受けるだろうけれど、能力があるならまた元に戻る事はできる。君と一緒にいた彼も、不慮の事故だ。君に関わらずとも、いずれは彼はああなったよ。何も君が気に病む事はない。忘れたらいい。君たち人間はそれができる”
饒舌になったからと言って、優しさが生み出されるわけではなかった。一言重ねる毎に熾烈で容赦なく耳を刺す。
いつもの自分なら、きっとそうしたであろう選択を口にされていることが、余計に痛かった。
“それは、最後の手段だわ。できる事をできるだけやって、それでもできなかったら、諦める。あなたが言うように、忘れようと努力すると思うわ。でも、今は何もできてない!”
自分でも驚くほど強い答えが口を衝く。
“他人に頼る事も手段の一つってことかい。大した努力だね”
論うだけにしては、何故か堪える辛さが伝わってきた。
“可能か不可能かは別として、サイバー・シンパシィの行動基準は願いだ。やりたいことを願えば、能力範囲内で応えは返ってくる。知る、探る、防ぐ、抗う、逃げる−−個人の能力が高ければ、曖昧な願いでも応えてくれる”
“何が、応えてくれるの?”
言葉としては自力では言い表せられないが、体感したこととして抽象的にだが理解はできそうだった。
“全ての情報を統括する大いなる意思……か。いかなる世界であろうと一つのルールに従って成り立っている。無秩序に見えても、ルールから外れてさえいなければ、見合う力があるなら不可能がない世界。それがサイバー・シンパシィにとっての電脳空間なんだよ”
いつなりと衰えぬ輝きに、人の姿が重なって見え、エリカは目を疑う。この空間で初めて見る、現実と共通した形の具現に、驚いた。
エリカよりもはるか幼い、少年だった。蒼い海の奥深くを象ったような黒髪に黒い眸、幼い美貌にそぐわない人を寄せ付けない冷ややかさと、エリカを見据える双眸からは悲しみが拭えない。
“!?”
驚きに目を擦ろうにも、ここでは感覚のみで肉体を持っていない自分に気づく。
少女の驚きを置き去りにして、輝きを纏い、孤独な闇を抱えたような少年は腕を宙へと上げた。手を差し伸べるような仕草はゆったりとしていて、何か儀式のさきがけのようだった。
周囲に満たされていた海が揺らめいて、色が一瞬で変わる。感じる温度すら変わって、冷え込んだ。
“ここ……!”
目の前には、イー・シー・エスの壁がある。望み凝らさなければ応えない灰色の重なりは記憶通りで、移動した、と言う感覚もない変化は手品のようで訝りが浮かぶ。
質したいエリカの心情も構わず、全く興味なさそうな顔で少年は壁を一瞥する。
ざわ
不穏を察知した少女は、遠くにあったはずの踊るような不規則な動きを見せていた朱光の群れが近づいてきている事に、足が竦む。
“<ゴースト>が!”
注意を喚起する声を上げると、少年は頬を少ししかめた。うるさげに、そして、何処か辛そうな表情で顧みる。いかなる仕掛けなのか、何故、この人物だけが人として見る事ができているのか、エリカはわからなかった。滑らかな映像を、ただ受け入れてしまっている。
<ゴースト>の薄赤い光りがそれぞれ重なり、溶け合うようにして、間近まで迫ってきていた。ざわめき、嗤い声、叫び声、全てががなるように耳の奥から沸くように響く。恐怖に動けないエリカを気に懸けた様子もなく、少年は無感動に力を増して見える<ゴースト>たちを眺めやり、ふ、と瞼を伏せた。
“今なら、まだ戻れるだろう。帰るといい、自分らしくあれる場所へ”
囁きは優しかった。最初、エリカが出会った時と同じ、宥めるような柔らかな音だった。
音はない。
赤い光りが弾け、白く澄んだ細かな輝きを散らし、きらきらと舞う。夜空にまたたく星屑の映像(ヴィジョン)よりもずっと、息づいてるようだった。
“きれい……!”
<ゴースト>の色も、声も全く途切れ、星の最後のかけらが海に溶けて灰色だけが残る。
“みんな、消えた……何をしたの?”
“帰してあげたんだよ”
また、寂しそうな横顔だった。
“何故……”
シッと沈黙を促す声を聞いた気がして、エリカは素直に口を噤む。少年は寂しさを消し、少女に全く気を留めていない風に、壁へと手を差し伸べ、掌を翻すようにしてすぐに引き戻す。意味を込めた行為と酌むには、あっさりと短い動きを、エリカは怪訝に見守った。
少年が握りしめた拳の隙間からこぼれ落ちる水に気づく。正確にはもちろん水ではない。水が滴るように流れ落ちるものは、糸のように後引き、途切れた端が光りをささやかにちらつかせた。
“まだ、完全にやられてはいないようだね”
少女の前に差し出した、その手を開いてみせる。
“!”
淡い、消え入りそうな、もうすっかり小さくなった光りの粒。エリカの視線に応えるように、弱々しいながら、自ずの光りを点している。
“グランさん!?”
軽く浮き上がると、グランの光りは別離の挨拶代わりに瞬いて、手の上から消えた。消滅したのではなく、“還った”事を察せられたからこそ、無駄に慌てる事はない。それよりも、積み重なる疑問や驚きの方が気掛かりだった。
“後は、彼の意思次第だ”
愛想無い少年の声に、エリカはグランの光りの行方を辿った。critical conditionという不吉な言葉が現在のものとしては345AWD587と伴っていない事を確かめ、足の力が抜けてしまいそうだった。
“君が知りたい犯人の痕跡は、彼を取り込んだトラップを隠れ蓑にしてる”
“シュード、プログラム?”
せっかくの安堵が萎み、ぞっとなった。蘇るグランの悲鳴が耳の奥で反響する。
“そう。見栄えはそこそこだが、強度は大したこと無いな”
至ってぞんざいな口調で、指でたぐるような仕草を見せると、壁から灰色の糸が伸びてきた。少年の指に絡まった糸がテンションを上げたかに見えたのは一瞬で、影のようなものが引きずり出されてくる。影と見紛えても不思議ではない、暗く沈んだ色の塊だった。警戒をした壁を凝縮させた、そのもののように硬く、冷たく見える。
エリカは、こんなもので、と言う気持ちが膨らんで胸が詰まった。
“感慨に耽るのは早いんじゃないかい”
絶妙な間合いで冷静な水を差され、少年がつり上げた塊が浮き、少女の前までやってくる。
“これが?”
訊ねたが、少年は顎をそびやかすだけで、無言だった。それ以上口にする義理はないと態度に示して黙している。
それ以上乞うことは諦めて、エリカは塊を両手の上に載せ、掌で包み込んだ。じん、と指先を凍て付かせる冷たさに竦みそうになるのを堪え、内側に隠されているはずの真実(データ)を欲した。軽く、望む。たったそれだけで、抵抗していた硬さが緩み、掌が塊の中へと沈み込む。
修復される前に存在していた、ガードプログラムを蝕んでいたもの。無害そうな殻を幾重にも重ね、少しずつ、種を蒔き散らしていた。外部からの信号を受けて発芽し、まるで外側から侵入をされたように見せかけて、目的を遂行すると一度は形を完全に失っていた。普通の<目>であれば痕跡を見つけられないだろう、小さく、無害な殻に再び包まれて埋もれていたのだ。
誰が、と、また望めば、柔らかになった塊は小さく震えて抗おうとしたが、容赦は禁じた。
けして眩くはない閃光に視界を一度だけ塞がれ、吹き出してくる情報を零さぬよう、エリカはしっかりと手で留める。
薄い赤を時に帯びる光り−−<ゴースト>に近い光りの持ち主−−プルモ−−偽名−−カンプト・カルセド−−ネット中毒のクラッカー−−メールの受信箱−−幾つもの中継を挟んで−−ナゼア−−ナゼア・カルセド−−イー・シー・エス情報管理部門第一課所属−−……
浮かんだ顔に、エリカは愕然となった。
社員証として登録された写真の中にあるのは、父親の車に同乗していた美しい女性と同じ顔だった。カルセドと言う名は、母親に送られてきたメッセージの記名と符合し、深く身を潜ませ研がれていた想いをも呼び起こした。
“な、何故……”
−−内通者がいる事は間違いありません。我が社のガードレベルであれば、外からの侵入を許すはずがないのです!
母親の声が再生されて、表に出せない驚きに懼れをも溶け込ませる。掌へ伝わってくる残骸に宿る慮い、思い−−想い、それらがかすかな敵意が痛みでもって撫でた。
“満足したかい?”
少年の声は、痛みを渡してこなくても、十分に情の無いものだった。
“あなたは、知ってたの?”
相手にとっては全く無関係であってここまで手伝ってくれたことに、まずは感謝すべきだ。なじりは、八つ当たりでしかない。わかっていながら、押さえ込めない溢れた感情は溢れても行き場をもたず、目の前の人物にぶつけられようとしていた。
“ううん、わかってたのよね、最初から”
素人以下の知識しかないエリカでも、この少年の持つ強大な力は認識できた。グランが難じていたことを、構えもせずに稚技のごとくしてのけ、<ゴースト>もあっさりと退けてみせる。現場までやって来て、少女に見せたのはただのデモンストレーションであって、その場を動かずとも“わかっていた”のではないか、それだけの力を持っているはずだと、と確信すら持てた。
“僕は知りたいことでもなかったけどね”
興味なさそうに答え、エリカの筋違いな憤りにも動じた様子がない憎らしいほどの冷静さだ。
“君が、知りたかったんだろう”
その通りだった。少年の声がため息混じりで、優しかった事に、少女は頭の中を冷やされ。自分の言動の幼さにいたたまれなくなる。
“ごめん、なさい……”
波立っていた胸の内は見る間に凪がれた。
“謝られる筋合いはないけど”
本気でそう思っているのだろう。
“このこと、ママに教えて上げても、いいよね?”
“その先は君がすることで、僕には関わりないよ”
本来なら、これまでも関わりないことのはずだ。それなのに、付き合い、叶えてくれた事は、少年の優しさなのか、いつなりと底に浸って見える悲しみの方が強く絡まっている気もした。
“ああいう技術屋は僕たちのような存在は非科学的だと思ってる。娘がサイバー・シンパシィと知ったら卒倒ものだと思うけどね”
“名前を出さなかったら、いいのね”
どうやってやるのか、と考えかけて、止めた。
−−望めばいい。君の力が、君の望みを叶えてくれる。
“もういいだろう。自分の在るべき場所(ホーム)へ、お帰り”
邪険に払う素振りはなかったが、こうして相手をしていることに飽いてきているようだった。
“あなたは帰らないの?”
ふとした問いは他意はなかったが、答えは沈黙だった。少年の眼差しが冷え込んで、その奥にある悲しみが蒼く映る。正視を避けさせる、悲痛なほどの。
“ごめんなさい、私には関係ない事、ね”
慌てて謝罪をすると、少年が小さく笑った。自嘲気味な笑いを零して、肩を竦める。
“僕の<ホーム>はここなんだよ。帰るべき場所はここにあって、外にはない”
それでも、輝きを衰えさせない光りをまとって、孤高を保つべく少年は立っている。虚飾ではない。けれど、あまりにも悲しく見えた。
“……寂しい、のね?”
“僕が?”
滑稽な指摘だと言わんばかりに、鼻を小さく鳴らすのが聞こえた気がした。確かに、自信に満ちて傲岸にしか見えない少年には、不似合いな言葉かもしれない。
“時々、悲しそうな顔をするから、強い力を持ってても、ううん、持っているから、辛いことがあるのよね”
思いを分かち合える存在がいない、強すぎる力は確かに寂しいだろう。言葉を実際に連ねることで、エリカは少年への同情を禁じ得なかった。相手が欲しているわけでもない同情は、結局は自己満足でしかなく、厭うべきものかもしれない。
“君は……何を見ている?”
訝りが慎重さを招き入れて、少年の表情を鎮めさせた。元より静まっていたから、冷え込んだと言った方がいいだろう。
“あなたは強くて、すごく綺麗な光りを持っているけど、いつも、どこか悲しそうな顔してるから”
今も、こうして見れば、見ようとすれば、姿が鮮明になるようだった。細かな表情すらくみ取れそうに、はっきりと見られる。傲然と構えていて、冷静な眼差しで、やはり悲しそうな貌は、まだ幼さが濃かった。
“君の<目>は……”
力が抜けた音はため息で途切れ、少年はひそやかに眉を寄せる。見通せないもどかしさを感じているというよりも、意外さに驚きを覚えているようだ。
“ねえ、あなたは誰なの?”
もっとも、問いたかったことを向ければ、少年は緩くかぶりを振った。いつもの隙のない、感情を巧く隠ぺいさせた顔に戻っている。
“いいかい。君がサイバー・シンパシィを自覚して、この世界へまた来る気なら、この先不用意な問いを口にしては駄目だ”
“……何故?”
シッと指を唇に押しつける仕草に、口ごもった。
“もうわかっただろう? 知りたければ、自分で情報を探して知ればいい。それができないのであれば、能力の限界がそこまでだと相手に知られ、侮られる。WHO(だれ)、WHERE(どこ)、WHAT(なに)、WHEN(いつ)、WHY(なぜ)
……禁句なんだよ”
それが、電脳空間での、サイバー・シンパシィのルールだと。
“あなたの名前をどうしても知りたいけど、わからないから”
元より、目の前の少年に勝っているとは自惚れるほど現実認識能力が欠けているわけではなく、素直に返すと、皮肉そうに口の端を上げる。それだけで幼さがかすんで、大人びた顔になった。
“そうだね、今の君では無理だろうね”
言われるまでもなく、偽ろうにも明け透けな事実だった。同時に、可能性を提示してみせる少年に、エリカは軽く目を瞠る。
“また、会える?”
社交辞令ではなく、心から願った。
“今度からはこうは巧くいかないよ。どうしてもって言うなら、今以上にレベルを上げて、僕を見つけてみるんだね”
返ってきたのはつれない言葉だったが、全くの拒絶ではないことに、少女は大きく頷く。
“わかったわ。ゲームね”
猶予を感じられるだけ、自分の中に自信を芽生えさせられているのだろう。厭なことからは目を背けようとして、逃げた方が楽だと思っていた消極な自分が、別人のようだった。
−−それは、この世界にいるからだろうか。
“そう。君の本気を見させてもらうよ”
願いの、強さを。力を乞う、その強さを。
望めば、応えてくれるこの世界へ、また戻ってくる。
“それまで、サヨナラだ。エリカ”
名残を惜しむ音はかけらも聞き取れないが、別離の挨拶をするだけ、少年はこの邂逅を厭うてはいない。そう思いたかった。
“エリィよ”
“エリィ”
少女の愛称を倣うように嘯き、困ったような、はにかんだような笑みが浮かぶのが見えた。初めて見る、外観に見合った表情に、エリカも笑顔で応えた。
“待ってて。必ず、見つけ出してみせるから”
自分からでも、これほど強かな言葉を発せられるのだと、新鮮な気持ちに胸を張れる。
“強気な人は嫌いじゃない”
少年の姿が宙に滲むように輪郭を失い、濃さを増した光りが瞬いて弾ける。きらきらと名残がかけらとなって舞う蒼い海は、夜空のようだった。
“賢明なる遊泳(ワイズスイム)を、エリィ”
00
瞼を閉じなくても、同じ目で、蒼い広がりを見ることはできる。
どういう風に“見えている”のかと問われた事は一度ではないが、感覚的な部分が多く、言葉にすると非常に曖昧で理解を難じるものになってしまう。
それでも、自分の力を疑わない。
自分一人でも信じなければ、全てが虚偽になってしまう虚構の世界だ−−そう評したサイエンティストは、どういう思惑だったのか、問い質したいこともあったが、どうでもよくなった。
世界はどちらも本物で、二つの世界が相利共生している事を疑うサイバー・シンパシィはいない。
“傲慢なんて褒め言葉じゃないかもしれないけど、あなたを言い表すのに、これ以上良い言葉はないわ”
付き合えば付き合うほどに底がない自信家で、その自信をもった振る舞いは当然と思いこんでいるふてぶてしさだが、他者からのやっかみや妬みを近づけないのは、必要不可欠な存在だからだ。いなければ、真偽の有無を糺す猶予もなく、蒼く美しい空間は崩壊してしまう。そこまで言わせてしまう能力は、その傲慢の裏にある悲しみに気づかされた。深く根づいた寂しく悲しい色に、エリカ以外の者はきっと気づいていない。
“確かに、全然褒め言葉じゃないね”
くすくすと笑う少年の声は、初めて会った頃とは比べようがないほど、表情豊かだった。
悲しみや寂しさを見抜かれていると気づいて時点で諦めたのか、反応も包み隠さない明け透けなものとなっている。理解者だと認めてくれているのだとしたら、名誉なことだ。
“私は、あなたのように力が無限じゃない。いつかは衰えるのよね”
“そうだね。それは仕方ないことだよ”
同情もしない、あっさりと肯定して返す愛想の無さは、つれなさになじりたくなる。反応として出さないことは、その有限の儚さに孤独を感じている者は、他ならぬこの少年だからだ。途方もない永きを眺めてきたのであれば、どれほどの辛苦や悲哀を乗り越え、やり過ごし、諦めてきたのか、とうてい想像もつかない。
“あなたを理解してくれる人はたくさんいるし、これからもまた現れるわ”
“どうかな。期待はしないよ”
本気でそう答え、無理や我慢はしていない。今更、そのような態度は馬鹿らしいのだろう。
“ペントイルは、どう?”
職場に新しく配属されてきた青年の名前を提示する。
“彼は、演繹能力や何より記憶の精確さが優れているし、類い希な適合者だとは思うけど、あくまでフィジカルなものだからね。僕が舌を出して笑っても、彼には言っている言葉しか通じない”
好意は酌めたが、残念そうなそぶりはなかった。不可能がない世界にいながら、限界は限界だと認めて抗わない。願いを何でも叶えられると常に自他に事実とわからせても、夢を抱くことはないのだろう。そこまでは、本当かは見通せない。
“君のようなサイバー・シンパシィは、向こう何十年かは出てこないだろうね”
“珍しい、あなたがそんな事言うなんて”
いくつか推せる真意は意外だった。
“言っておくけど、褒めている訳じゃないよ。累積したデータから算出しても、おそらくそのくらいは無理だって事だ”
冷静な現実を数字にして、そこまでで全てを押しとどめる。数字は嘘を吐かない。同時に、夢も見させない。その愛想の無さにこそ、救われているのだろう。欺瞞であれ、そのようなこと、きっと本人もわかっているのだと、エリカは唇を緩く結んだ。
“それでも、私は褒め言葉として取っておくわ。だって、嬉しいことだもの。こうして、あなたと会えたのだから”
率直な言葉で返すことには抵抗を感じているのか、照れを混ぜた沈黙で応えてくる。不遜で、傲慢でも、時にこうして奇蹟のように失っていない少年らしさを“見せた”。揶揄はしない。今となっては、自分とだけ接してくれている好意に、優越に浸ることもない。それは、却ってこの少年の自尊心を傷つけるだろう。
ただ、出会いを感謝し、親交を深められた経緯を誇りたい。
“人は計算では弾けない事をしでかして、予想もつかない展開に驚かさることだってあったでしょう?”
私のように。
自分にもわからなかった、思っても見なかった自分になれた。そうして、再会を実現できた。これは、紛れもない事実。
“だから、諦めないで、セツナ”
人の可能性は有限ではない。
航宙機の窓の向こうに広がる、紺碧の海のように、瞼に重なる、この青い蒼い海の広がりと同じく、無限に広がっているのだ。
E N D
All begin after thirty years.... .
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