01/rain

 昔は、幽霊をよく見たものだった。自分の目に映っている者が死んでいる者なのか生きている者なのか曖昧になるほど、自然に見えすぎた時期もあった。死とは何なのか、懼れを知らない幼いこどもだからこそ、あるがままに見えていた。
 世間で成人と称される堺を超え、年を経ていく内に、やがて死した者の残影を見ることはなくなった。友人に聞かせる話の種が一つ減った事はつまらなかったが、それだけだった。じきに、自分の能力の喪失を思い返すことにも飽いてしまっていた。
 久しぶりというには、奇妙な気分だった。最初は、“いつものように”わからなかった。それが、俺と同じ生きている者なのか、虚ろな魂の持ち主なのか。
 しのつく雨に視界が薄曇る中、その痩身はくっきりと映えていた。
 黒く長い髪、瑞々しく滑らかな肌が端整に象った白皙、空を見上げる眸の憂い、存在を作り上げる一つ一つを上げることにも感銘を受ける美しい人の姿がそこにあった。黒いブレザーに、黒いリボン、そして同じく黒いプリーツのスカートは膝丈で、白く細い足がすらりと伸びている。
 地下鉄を降り、マンションまでの帰り道。昼過ぎから降り始めた雨は、間断なくアスファルトを叩いて飛沫を立てている。古びた団地群の灰色の翳りは濃くなっているように見えた。晴れた青空ではなくこの雨天こそが、老朽化をありのままさらけだすに相応しいと思い知らされたように、悄げていた。植え込みの緑だけは雨を享受し、緑を鮮やかにさせている。
 団地の間を縫う道には人影はなく、背後遠くで水を跳ねる車の走行音が聞こえる静けさだった。道の先はすっかり靄ってしまっている。
 少女は、外灯の下に佇んでいた。そうして、降りしきる雨を見上げていたのである。
 彼女が生きていない者だとわかったのは、これも“いつもの”感覚によるものだった。ひどく懐かしさすら覚える。つまりは、俺は自分が思ったより、見えなくなったことが寂しかったのだろう。だからと言って、喜びも嬉しさも浮かばなかった。
 それに、彼女は雨に少しも濡れていなかった。俺のスラックスの足下は、水たまりを跳ねて見るも無惨になっているというのに。
「何してるんだ」
 こうした輩には声をかけない方がいい。気がついていないふりをして通り過ぎればいい。頭ではわかっていながら、声を掛けずにはいられない魅力があった。そう、俺は自分よりはるかに若く美しい少女に惹かれた。
「わたしが見えるか」
 大概の奴らが言ってきたせりふと変わり映えのしない言葉でも、この少女の音であれば、深い意味を具えているように響く。無粋な雨音を遠ざけ、声質は低く透き通っている。
「随分久しぶりに、見えた」
 ここ十年はなかった気がした。
「そうか……あいにくだったな」
 ぶっきらぼうとは違う、感情をそぎ落とした冷ややかさが、一層音を冴えさせて聞こえる。 
「……お前にとって、死とは何だ」
 幽霊が口にするとは思えない問いに、俺は面食らった。唐突性もあった。幽霊に死を説くなど、禅問答になりかねない。
「さあな。人間死ぬ時は死ぬ、死なない時は生き延びられる時だろう。死への恐怖は抜きにして、だけどな」
 ずいぶんと格好をつけた言いぐさだとは思う。だが、近からず遠からず、死に対する俺の考えは、こんなもんだ。じたばたしてどうにかなるなら、死なずに済む。それだけだろう。
「死はいつでも生と繋がり、
 生もまた死と真摯に真向かっている。
 それを認める心は、死を知る命の勇気だろう」
 道ばたで出会った幽霊にしては、奇妙なタイプだった。この少女が死んでいない者だとしても、見た目の若々しさとまるで同調しない句(ことば)のつらなりだ。
「あんたの哲学か?」
 答えはなく、少女は目を伏せ、再び開いた。俺だけを見ている、と強く認識させる眼差しと出合って、少女の瞳が深い青みを帯びていることに気づく。
「生が残り少なくなった者でなければ、わたしを見ることはできない」
 回りくどい言い方に気遣いは至って感じられず、それが癇に障った。見知らぬ少女に腹を立ててどうなるのか。しかも、相手は死んだ人間だというのに。
「なんだ、そいつは。じゃあ、あんたは死神だとでも言うのか」
 雨の夕暮れに出会った幽霊の少女は、死を告げに来た死神だった−−などと、読みたいとも思わないジュブナイル小説の題材みたいだ。非現実的で、想像力に乏しい陳腐さに響く。
「そうだ」
 少しも語調を乱さず、少女は音を立てる。濃密な青−−澄んだ夜空を思わせる眼差しは、逆撫でられる神経の中でも美しいと感じられた。
「馬鹿らしい。幽霊も冗談を言うご時世になったのか知らないが、死者が縁もない生きている者の権利を侵害するってのが気に入らないんだよ。俺はずっと、そう思っているけどな」
 仕事で疲れて帰ってきて、道ばたで出会った死人に自分の死を告げられて安穏として流せるほど、俺は悟りを開いてはいない。「一人は寂しいから、あなたも死んでちょうだい」と言われた方が、よほど幽霊らしい。俺の幽霊観がずいぶんと歪んでいる自覚はあった。
「わたしは何もしない。お前の死を待つだけだ」
 無音で呟く。そう言う表現がしっくり来る気がした。退きかけていた、少女への好奇心が足を止める。
 本当に少女が死神なら、俺は危機を募らせるべきだった。さらなる疑心を重ね、質すことで安心感を乞うことも、取るべき行動リストの上位に並んでいる、はずだった。
「あんた、名前は……」
 なのに、俺の口は無愛想な少女の名を真っ先に乞うていた。
 少女は答えない。ただ、深い夜の眸で俺を見つめている。いくら待とうと、答えを与える気はないと立ちつくしている。
 雨音が耳打ちをした。仕事で疲弊し、血の巡りが悪い俺の頭にしびれを切らし、少女の目を盗むように、そっと囁く。
 −−レイン。
「レイン、か」
 雨の中の黒衣の少女は、無言で瞬いた。


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