another side 01/雨
窓にかかったカーテンは遮光性は低いが、外は見えない。目隠しという目的は十分に果たされていると言えた。
窓外を見通すことを諦め、ベッドのそばへと車椅子を戻した。奇妙に曲がった腕で車輪を器用に扱い、スムーズに横付ける。
ベッドとキャビネット、入り口そばには洗面台とトイレ、それらが機能的に設置された八畳ほどの空間が、車椅子の乗り手の自由な世界だった。遮音構造になった室内に雑音は紛れ込まないが、回る車輪のゴムがこすれる音と自分の立てるかすれた呼吸音が耳障りだった。
「あめのおと、かぜのおと、とりのさえずり、いつでもまどのむこう」
高く軋んだ声を漏らし、ふう、と息を吐く。禿げ上がった頭がこくりと揺れた。
不自然に細い顎を上げ、キャビネットの上段を手で探る。肘や手首の関節がぎしぎしと厭な感触を訴えてきたが、できる限り腕を伸ばした。背が曲がり、自力では視界を一定以上あげることはできない。上目遣いで確かめるにも限度があった。定時の検温に来た看護師が気を利かせて片づけてくれたのかしれないが、好意として甘んじるには、届かないもどかしさにいらだちが混じってきた。ようやく指先に触れたものを滑らせ、手元に落とす。ばさり、と乱暴に落ちてきたものを膝で受け止めた。小さい文庫本。読み古されて本の縁は朽ちかけていた。つるりとしたカバーを手のひらで大事そうに撫でる。大切な宝物だった。
はっと息をのみ、呼吸が止まりそうになる。
振り向かなくとも、側にいると気づく瞬間のうれしさは、耐え難いものだった。ここにいて、見つけられた唯一の楽しみ。一人でない時間を過ごせることで、自分がまだ自分でいられてよかったと思える時を、幾度重ねられただろう。
狭い空間でくるりと車椅子の向きを変えて、視界に姿を求めた。
黒い靴を履いた白い足がほっそりと伸び、黒いスカートまで辿ったところで、影が動いた。
仰向かずとも済むよう、傍らに膝をついてくれた訪問者に頬をゆがめる。笑おうとして、しわがれて強ばった皮膚は思い通りには緩んでくれなかった。
「れいん、きてくれてありがとう」
涙がにじむことを堪えると、語尾がしゃくり上がる。
心からの歓迎を示すと、きれいな顔立ちが応えるように小さく頷いた。深い青い眸に見つめられているとわかるだけで、心が晴れ上がる。
「きょうはあめがふってるの?」
「ああ。昼過ぎから雨が降り始めた」
静かな面立ちにふさわしい、涼やかな声が答えた。たとえ晴れた日でも、少女からは雨のにおいがした。湿っぽいわけではない。全てを流して忘れさせてくれる、穢れなき、清らかな水のにおいだった。
「そうなんだ。そうだね、あさおきたときは、かーてんのむこうは、しろくあかるくひかってたよ」
手持ちぶさたに撫でていた本に、少女の視線が落ちた。
「本を読んでいたのか」
「いまからよもうとおもったんだよ。たいくつだから。ここはいつでもたいくつだからね」
思うように笑えない中で、意図せずとも媚びた笑い方だけはうまくできてしまう。自分の顔がまたそうなってしまった、と思うだけで気分が沈んだ。
「ねえ、れいん……ぼくはいったいいつまで?」
似たような問いをするたび、胸が締め付けられた。望みを口にしているはずなのに、苦しくなる。
「わからない」
慈悲はなく、ただ簡潔な現実しか口にしない少女に、目元だけで笑った。優しさがほしいわけではないことを認めさせてくれるのだと、思う。
「はやくおわってくれていい。ぼくがいきてるとね、おかあさんやおとうさんのこころはずっとくもりぞらなんだよ。もしかしたら、もうずっとどしゃぶりなのかもしれない」
耳を澄ませば、外の雨が聞こえるかと思ったが、何もなかった。空調の立てるかすかな作動音と、自分の口から漏れる枯れた息の音。いつもと変わらない、生活の音だった。
「ぼくがしんだら、またあめがふるかな。おかあさんとおとうさんのこころにかなしいあめがふるかな。でも、はれてほしいな。知ってる? れいん。あめあがりのあおぞらって、ほんとうにきれいなんだよ」
ここに来て、両親が訪ねてくれたことは何度あったのか。自分を見る親の表情を巧く見られないほど、背が曲がってしまったことがせめての救いだった。自分で伸ばそうとすると、骨が砕けるのではと思うほど激痛が走る。そこまでして、絶望に満ちた親の顔を見届けたいとは思わなかった。
そう、もう二度と二人は自分に愛情に満ちた笑顔を見せてくれることはないとわかっていた。
「おまえは死にたいのか」
少女は自らの声に何の想いも込めず、ただ問う。最初会った時も、今もいつもそうだった。
−−わたしが見えるか。
滅多に出ることはかなわない外の空気の中で、周りから浮き立ってたたずんでいた少女は無感情に訊ねてきた。自分だけを見てくれている存在の、その美しさに覚えた胸の震えをいつまでも覚えていたかった。
たとえ、相手が近い死を告げに来た死神だったとしても。
「わからないよ。でも、ぼくがいきていてよろこんでくれるひとはどれだけいるんだろうっておもったら、せつなくなっちゃうよ」
死の覚悟は、もうずいぶん前からできている。そう思っていた。
「れいんは、ぼくがはやくしんだほうがうれしい?」
「わからない。わたしはおまえの死を待っているが……好きで待っているとは言えない」
かすかに眉をひそめ、少女は珍しく困惑を見せた。そうした顔もきれいで、この世のものとは思えないほど美しかった。この狭く白い空間で、奇跡の存在だった。
−−やさしいれいん。だいすきだよ。
嘘偽りない、そして、俗情にまみれない純粋な想いは、自らにもあたたかな言葉を紡いでくれる。
−−さいごにであえた、うつくしいひと。
「ねえ、ほんをよんでくれる? れいんのこえをもっときいていたいよ」
答えは無言で、白く滑らかな手が本を取り上げた。ぱらりとページをめくる音に目を伏せる。
絶たれる終焉までの、かけがえのない時を少しでも長く。大好きな人に大好きな詩を読んでもらって過ごせる自分は、卑屈もなく幸せだと思えた。
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