03/calm


 目が覚めると、カーテン越しに昼が差し込んでいた。
 時計は十時半。今日は土曜日で、久しぶりの休みだ。
 休みで浮かれるようなことはなかったが、予定は夜まで入っておらず、差し迫ったものが何もないという状況は気分がいい。それでもだるさの残る体を動かして、俺は布団から這い出した。
 カーテンを開け、まぶしさに目を細める。日差しは何処にもなく、雲に覆われた空全体が光っているようだ。
 まだ、ワンルームマンションという言葉が世間になじんでいない頃に建築されたこのマンションは、古い。俺は新築売り出し中の頃に入居して、今まで一度も引っ越そうと思ったことはない。理由は、単純に引っ越しが面倒なだけ。加えて、その面倒くさがりな気分を抑え込んでも出ることを決定づけるひどい欠点が今まで見つかっていないからだ。居心地がいいわけではない。一方で、極めつけに悪いわけでもない。この部屋はすっかり俺の“家”になっていた。
 ぞんざいな洗面を済ませ、冷蔵庫をのぞいたが何もない。水と調味料にチーズにビール。起き抜けにアルコールに手を出すほど、俺の血はアルコール浸りではない。食べるものが何もないとわかると、よけいに空腹感を感じてしまう素直な生理反応にため息が出る。昨日の帰りに買っておけばよかった。
 仕方なく近所のコンビニまで出かけることにした。下だけはきかえて上着を羽織って、外へ出ると、空気がもやっている。目がまだ寝ぼけているのかと眇めれば、小雨が降っていた。天気雨、か。降るなら降る、晴れるなら晴れるではっきりして欲しいものだ。
 ビニール傘を片手に、団地の間を抜ける。駅までの近道だが、コンビニまでの近道でもあった。頭上のビニールにぱらぱらと雨粒がはねる。見上げると、透明な上に大小様々な水滴が散り、雲越しの日差しに縁取りが輝いていた。
 もう昼だというのに、団地の中は静かだった。耳を澄ませば、生活の音を拾えるだろうが、努力しなければ雨に湿った冬の空気しかない。風もない。のどかな昼下がりが独り占めを楽しんでいるようだ。それも、団地の間を抜けるまでだろうと思った俺の腰のあたりで、軽快な音律が声を張り上げた。携帯の着信だ。何の曲だったろう。職場の後輩が「今流行ってるんですよ」と入れてくれたのだが、俺はその歌の名前はおろか、歌手の名前に聞き覚えはまるでなかった。今となっては思い出せない。世間では流行ってはいるらしいが、俺の耳に触れ、残ることはない。多少なりと興味がなければ、何事も流れていく無常さか。
 発信者は、母親だった。
『おはよう』
 じきに、おはようというには遅い時間帯だ。俺が休みの日は遅起きであることを知っている挨拶だ。無沙汰な音信のせいか、切り出しを悩んだ末に、妙にかしこまった口調になっているのがおかしい。
「おはよう。ひさしぶり」
 一ヶ月は空いているだろう。その意味を込めて、向こう側で呆れのため息が聞こえた。
『どうなの』
「まあ、ぼちぼちだよ。そっちは?」
『ぼちぼちね』
 共通の話題もなく、共有したい話題を構えたいと思うほど親密ではないだけに、いつもこうして無愛想な会話が交わされる。おふくろは年の割にはうわさ話や世間話を好まない。本当に、ご機嫌伺いのためだけの通話といえた。
「風邪とか引いてない?」
『今のところは大丈夫よ。あんたも気を付けなさい。外から帰ったら、ちゃんと手を洗ってうがいをするのよ』
 俺をいくつの子供だと思っているんだろう。いくつになっても、子供は子供か。母親の中では、世話の焼ける子供のまま成長していないのかも知れない。
「なんか、具合とか悪い? 風邪とかはなしで」
『どうして?』
 きょとんとした声が返る。
「声に元気がないみたいだけど」
『そうかしら?』
 自覚はないらしい。俺の気のせいなら、それはそれでよかった。
『人の心配の前にあんたは自分の心配をしなさい。ちゃんとご飯も食べるのよ』
 俺が抱いた懸念は不要だと言わんばかりに、声には急に力がこもり、勢いづいてくる。やぶへびだったか。
「はいはい。じゃあ、また。今度は俺から連絡するよ」
 殊勝な一言で通話を終わらせた。この年で独身で居続ける息子を複数の意味で案じてくれているのだろう。だが、実家に帰ってこいとは言わない。そして、俺も、ろくに帰ったことはない。たまにこうして電話で話をして、おふくろの方がこっちへやってくる。
 町と市を一つずつしか隔てていないというのに、俺の足は完全に遠のいていた。実際の距離よりも遠く、足も向かない場所になってしまっている。一番最近で帰ったのは、父親の三十三回忌。弔い上げと言うことで、さすがに俺は帰ってくるよう命じられた。母親ではなく叔母に。顔も覚えていない父親の法要は、赤の他人の葬式に居合わせた気分だった。そう、周りの親戚の視線が痛かった。一人息子なのに、家に寄りつかず、未婚のままこの年まで過ごし、老年にさしかかっている親と同居もしない、親不孝者として名を馳せているのだろう。何とも思っていないのは、母親本人と、母親以上に世話を焼く叔母だけだ。
 何故、俺は帰りたいと思わないのだろう。少なくとも二十年近くは過ごした場所のはずなのに。
 携帯をしまったところで、外灯の下に立つ姿を見つけた。雨に濡れず、立ち尽くしているほっそりとした影。白昼のおぼろな光の中で、儚く消えそうな陽炎のように、そして、鮮やかに浮かぶ美しさだ。
「よお、あんたもご機嫌伺いか」
 ぽいと放り投げた声に、白い貌がこちらを向いた。蒼い眼差しは静かで、前と同じく何の慮いもひそませない。
「たまにはあんたから声をかけたらどうだよ」
 行動の論理がまるでわからない存在だけに、俺の言っていることはてんで的はずれかも知れない。少女は、無表情のままだ。俺の言葉を理解するよう考え込むそぶりもなかった。
 答える必要性がないものは、相手にもしないということか。
「どうせ突然現れて驚かせるなら、そっちの方がまだ親しみがあると思わないか?」
 言って、馬鹿馬鹿しい気分になった。俺とこの死神の少女のどこに親交関係−−の前兆でもあるというのか。それとも、長短も測れない先を、どうせなら愛想ないままでいるよりましだと、俺は思っているのだろうか。
 美しい少女。黒い衣服に白い膚が映え、蒼い眼差しは静かな光を息づかせている。雲向こうの陽光が切れ間から筋を作ってこぼれ落ち、空の薄暗さを拭い去っていた。その白い光りを少女は仰ぎ、目を細めた。瞬きもゆっくりと、長い睫の落とす影が白い頬に揺れるのが見て取れるゆるやかさだ。普通ならどうとも目にとめない仕草だが、目を奪われる。
 霧のように、細かな雫が黙々と連なり落ちる中、少女の色は曇りがなかった。
「いい加減、うっとうしい天気だ。あんたが出てくる時はいつも雨が降ってるみたいだが、雨女か、あんた」
 少女は青空を覗かせる隙間を見上げ、ただ凝らしている。そこに、何か見いださなければならないものがあるかのような真摯さを感じた。
「雨上がりの青空は、きれい」
 唇が動いて、きれいな声が詠った。感銘を口にしているというには、眉宇を曇らせた面差しはふさわしくない気がした。
 目の前の全てが輪郭をとろけさせて、頭の芯が鈍い熱を発する。異様な感覚が紛れ込んで、俺は困惑に膝が震えた。
 −−わたしは、雨女じゃないわ。ほら、見て、雨上がりの青空はこんなにきれい。知らなかったでしょう? これを見せたかったのよ!
 黒い髪が揺れて、笑い声が晴れ上がる。明るい光を浴び、清らかな風を受ける細い躯。曇りなく、翳りもないその姿へ、手を伸ばす。
 後、少し……。
「わたしは、雨女ではない」
 レインの冷静な声に、俺はうつつに戻った。行き場を失った腕をおろし、形を失った俺の思いはあっという間に隠れてしまった。もう何が記憶をかすめたかすら、思い出せない。
 狼狽えることすらなく、俺の心は静まっていて、そんな俺を深い青の眸が見ていた。
 天は翳りを落とし、雨が傘をぱしりと打った。

 

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