anothe side 02/音
いつもは暗く静まっている施設内のホールににぎやかな音が跳ねていた。入所者と幼稚園児がいびつな円周上にその身を並べでいる。幼稚園児の、幼い高さでつり上がった声がメロディを精一杯辿っていた。入所者は付き添っている家族やスタッフと共に笑顔を広げ、手を叩いて喜んでいる。
今日は、数ヶ月に一度の親睦会が開かれていた。
近所の私立幼稚園に通う子供たちが施設を訪問し、難病を抱え自由の乏しい入所者と交流することにより、弱者をいたわる優しい心をはぐくんでもらおうという大人たちの意図によるものだ。
入所者の中で、抜きんでて明らかに重度な他覚症状を持ちながら、頭の中身は発症前の状態より何ら劣っていないと自覚している。だからこそ、この場は苦痛でしかなかった。
日頃そばにいるスタッフですら、自分を正常な知能を持っている人間として映してくれてはいない。他の入所者と同列に−−せめて平均にまで下げたレベルで応対をしているからこそ、この親睦会に出席することが、変化のない療養生活に活気を与えてくれると信じ切っている。少々の仮病など、理由にならない。そもそも、他の誰が己の意思で仮病を言い出すというのだろうか。
最初、おっかなびっくりだった幼稚園児も、空気になじんでしまった今では強ばりをすっかりほぐし、状況を楽しんでいる。練習を重ねてきた歌や踊りを披露しているが、入所者の慰労だということは念頭には置いていない。子供たちが見てもらいたいのは、同行してきた親たちだ。
保護者は、そうした我が子への慈しみに目を細め、入所者には気の毒そうに目を細める。自分の子供と、立場が逆でなかったことを心のどこかで安堵しているだろう。そのはずだ。
卑屈な気持ちが手に負えなくなる前に、気持ちをふさぐよう、瞼をも伏せかけた。クッションの置き方が悪く、背が痛む。だが、自分の力だけでは、満足に身じろぐこともできない。悔しさに顔をしかめかけたところで、痛む場所にそっと添えられた手が力を貸してくれ、姿勢をどうにか直すことができた。
「れいん……」
今日初めての安らぎだった。そばに膝をついた少女が小首をかしげるようにして、顔を合わせてくれる。何の気遣いもなさそうな顔で、自然とした仕草のやさしさに気づけたのは、いつだったろうと思った。
少女は毎日やってきては、一日中側にいるわけではない。朝に来ることもあれば、夜になって来ることもあった。待ち遠しいが、刻を数えて待つことはしない。きっと来てくれると信じていればこそ、待つ時間も忘れていられた。これは、自分の生が終わるまで。自分が自分でいられる間は、少女は来てくれる−−確信に満ちた未来。
「ここにいると、ぼくはかわいそうなひとになるんだよ。みんなが、ぼくをあわれんでくれるんだ」
音楽でかき消され、声は誰にも届かない。そばにいてくれる少女にだけ届けばよかった。レインはよけいなことは何も話さない。全て無為に占められた少女と二人きりで、誰もむやみに踏み込んでこないあの部屋で孤りでいたかった。
自分の病気のことはわかっており、暗澹たる行く末は見通せていた。その自覚を論い、自身の慈悲を煽るように接してくれる来訪者たちに、気分は鬱屈してくる。早くこの場から逃げ出したいと欲してしまう。心から。同じ“待つ”なら、わかりきった現実を敢えて突きつけようとする善意にこれ以上触れていたくはなかった。
−−ぼくは、かわいそうなひとなんかじゃない。
整然と返すには唇が動かないであれ、理知でもって口答えをする自信はあった。だが、この場では誰もそのようなことは望んでいない。元気で快活だった少年を突然襲った不幸に同情し、並ならぬ速度で少年の体を蝕んでいく病魔−−未来に悲嘆を抱いてくれる。本当の慈悲はどこにもない、憐憫に満ちた眼差しの中にいることが耐えられない。
音楽が止んだ。もう終わりが近いことに、ほっとなれる。
スタッフが幼稚園児たちの訪問に感謝し、一区切り、幼稚園児たちが入所者の側へそれぞれ駆け寄っていく。
軽い足音がフローリングを蹴るようにして、近づいてきた。薄黄色いスモックの右胸にはチューリップをかたどった名札がついており、ひらがなで名前が記されている。幼女は丸い顔に愛嬌のある笑顔を広げると、手に持っていたものを差し出した。
色紙で作られた花の束だった。花びらの形はそろっていないが、それが却って子供の手作り感を強く見せる。今日のために、幼稚園で他の子供たちと肩を並べて一生懸命作ったのだろう。楽しく笑いながら、受け取る人間のことなど考えもせずに無邪気に。
手がすぐに動かなかったことは、この場の誰もが病気のせいだと良心で解釈してくる。顔をまともに上げる努力をする気はなく、並ぶ笑顔を見ずに済んだ。ずいぶん長い間、単調な色とりどりの花を眺めて、ぎこちなく受け取った。しわがれ痩せた手に集まる、哀れみの視線を感じた。
いたい。
皮膚を裂かれるようにきりきりと走る痛み。けれど、どれだけ惨めだと言う気持ちを押しつけられても、拉がれる気分だけは認めたくない。
−−ぼくは、かわいそうなひとなんかじゃない。
「ありがとう」
言葉を無理に押し出す。子供の顔がさらに嬉しそうに綻んだ。全く相手を見ていない、澄んだ瞳は輝いていた。
「早くげんきになってね!」
心からの、お見舞い。用意してきた、とっておきの言葉。誇らしげに、楽しそうに、晴れやかな顔によってなおさら、音は容赦ない武器となれた。
胸を突き刺されたような重みに、全身が動かなくなる。
最後の仕事を終えた子供は、保護者の元へ走っていく。母親が「えらいわねえ」と褒める声が聞こえてきた。親子は笑い合い、輪を離れていく。他の親子も、入所者にはもう目もくれない。楽しそうな笑い声を反響させながら、ホールを出て行く寄り添った影、影、影。
「なにが、えらいの。なにが、そんなにおかしいの」
震える手に力は入らず、握りつぶそうとした感情はもはやあてもなく。作り物の花は形をゆがめられることなく、床へと逃れた。
「かえりたい……」
フロアに落ちた色が滲んで、のどの奥が苦しくなった。
−−このままいきがとまってしまえばいい。
目の前が暗く落ちて色を失い、頬を流れる冷たいもの。
黒衣の少女の白い手だけが鮮明で−−花を拾い上げるのを見た。そっと、膝においてくれる。変わらない無言で通した仕草は、変わらずにきれいだった。他の想いに無関心に保たれた美しさ。せめいだ想いがなだめられる、欺瞞ではなく。
うつつでない、うつつにいる、たったひとりの、まじかなひと。
なぐさめの言葉など、ない。それでよかった。
「はやくかえりたいよ、れいん」
−−ここではない、やすらげるばしょへ。そこにきみがいてくれたら。
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