06/serene


 今日一日、空の機嫌はよかった。あまり当てにならない天気予報によれば、明日も晴天らしい。もう雨はいい。あれから雨が降るたび頭が痛み、気分が沈むことが多くなった。仕事をしていれば忘れられるが、外の雨を見るたび、得体の知れないものが俺の中に忍んでくる。雨が怖いわけではない。そう思うに至らせるものが何一つない。それに、雨が降れば、あの少女が現れる期待がいっそう強まる。自然と生み出される二つの相反する想いが摩擦を起こしているのかもしれない。
 相変わらず人気のない夜道を、俺はマンションまで辿っていた。外灯の明かりはしらじらとして、空の月よりも濃い影を俺の足裏に縫いつけてくれる。ここに俺はいる、生きていると教えてくれているようだ。
 いつまでも、同じような夜だと思っていた。仕事で疲れ、マンションに帰れば実のないスケジュールをこなして寝てしまう。
 今日とて同じ帰り道、レインの姿を探してしまっていた。
 だが、目当ての場所に目当ての姿はなく、俺はのろのろとマンションへ歩いた。いつもの夜、いつもの道、買ってきたコンビニの弁当を食べたら、後は風呂に入って本を読むかテレビを見て寝るだけだ。
  誰もいない、俺が帰れば俺しかいない部屋に到着するまで、誰も人と会わない。これも、いつもと同じだ。
 夜中の十一時過ぎ。もうじき日付も変わってしまう夜、俺には俺の靴音だけが連れだった。
 重い金属の扉をくぐり、部屋の電気を点けようとしたが、二三度瞬いて、そのまま切れた。俺は舌打ちをした。数日前から、電球の調子は悪かった。まだもつだろうと思っていたのだが。
 コンビニで替えを買ってくるんだった。すっかり忘れていた。昼までは覚えていたのだが。後二回は同じ事を繰り返さないと、入手は不可能かも知れない。本当に電球が切れているのだろうか−−大本の方が故障しているのであれば、不動産屋にでも修理の相談をしないといけない。ため息が出る。面倒だった。
 今夜は幸い明かりの代わりになるほど、月の降らす光りはまばゆい。その下でメシを食って、さっさと寝よう。
 薄暗い部屋−−月明かりしか差し込まない狭い部屋には俺しかいないはずだった。いつものように。だが、窓際に立つ痩身に気づいた瞬間、俺は順当に背が冷えた。
 同じ姿、何も変わらない、そのまま同じようにたたずんでいる美しい姿。
 俺は、少女と向かい合って、立ち尽くしていた。待てども、レインが口を開く気配はない。続く沈黙に根負けしたのは自分で、最初から勝てるとは思ってはいないから勝負にならなかった。
「久しぶりだな」
 まだ四回目だ。久しぶりだと無沙汰を労えるような関係ではない。わかっていながら、他に適当な言葉が見つからなかった。
 いつもの場所ではなく、何故、俺の部屋に現れたのか。幽霊の移動に関しては、建物など遮蔽になりはしない。少女が定位置−−俺がそう思っているだけの場所に不在だったことに消沈している俺の心中に応えたわけではないだろう。そこまで俺もうぬぼれてはいないし、病気だとは思いたくない。気づかない内に変調の岐路を越してしまっていたなど、笑えない話だ。
 まあ、いい。どう自己弁護をしたところで、追い出すつもりがないことには変わりない。
 レインは小首をかしげる仕草を挨拶代わりにして、無言だった。この暗がりで色を見定められるはずもないのに、少女の眸は蒼かった。視点がふとそらされ、壁際の棚をのぞき込んでいた。彼女の興味を引くようなものがあるとは思えないが、女性の目をはばかって隠すようなものは何も並べていない。だから、何も慌てることはなかった。
「あんたのこと見えてる人間、俺以外にもいるんだろう?」
 俺の問いに、白い横顔がこちらを向いた。
「いる」
 本当は、レインの声は無音なのかも知れない。静かすぎる。空気を乱さず、揺らさない。
「どのくらいいるんだ?」
「わからない」
 あまりの即答に、苦笑も浮かばなかった。詰問を並べようにも、回答者がこれではお話にならない。
「気味悪がっていやがる人間もいるんじゃないのか」
「いるかもしれない」
 問いの矛先を変えても、まるっきり他人事口調。ただ、俺の問いに迷惑そうな顔はしない。表情を動かさず、ただ答える。
「それだけ美人なんだ。言い寄る奴もいるんじゃないか」
 死神に言い寄る酔狂な人間がいるとすれば、自棄になっているか、自分の状況を把握していない現実を直視しない人間だろうか。
「……いるかもしれない」
 興味なさげに。
 実在すれば、誰の心も惹きつけられるだろう。だが、魂がないからこその、美しさかも知れない。わからない。本当にこの少女がどういう存在なのか。興味と言うより、今では恐怖に近づいている気がした。それでも、この美しい姿を視界の中に求めてしまう。
「死が近いと言ってあっさり受け入れる人間はいないだろう」
 俺は、万年床になっているベッドに腰を下ろした。レインに勧めても、きっと座りはしない。だいたい、この部屋で他に座る場所はないに等しかった。
「お前がいる」
 的確なものを迷い違わず抜き取るように、レインは答える。揺らがないその眼差しを俺に当てたまま。
 目が慣れてきたのか、部屋の暗がりから見慣れたものの形が浮き上がってきた。少女の姿は、最初から鮮やかなままだった。
「俺は別に受け入れたつもりはない。……わかっちゃいないのさ」
 問われて、わかることもあった。目を反らして見ようともしていなかったものが、その輪郭を浮き上がらせて否応なく目を留まらせる。
「死を恐れていないのか」
「死を恐れるのは人間だけだ。他のどのような生き物も、死を回避する本能はあっても、死への恐怖は持ち合わせちゃいないんだよ。そして俺は、一応これでも人間のつもりで、例外になるつもりはない」
「死を恐れるのは、人間だけ」
 繰り返す。自分の中に刻み込むように音を紡ぐ少女の顔にあるものは、愁いだった。覚える代わりに、何か大切なものを失っているように、いたましくすらある。痩身の足下に影は落ちていない。
「死とは、人にとって自己同一性を損なうものだ。人は、それを恐れる」
「自己同一性」
 また繰り返し、眉宇をきつく寄せる。懸命に覚え込もうとする必死さを汲み取ろうと思えば、できたかも知れない。
「過去の自分、今の自分、未来の自分。それを離れたところで傍観をするもう一人の自分がいて、変化を意識することができる。これが、人が人である自我というものなんだよ」
 この、無口で無表情で何を考えているかわからない少女に講釈したところで、のれんに腕押しな気もした。
 そう言ったところで、レインはふっと目線を下げた。そのような仕草は初めて見る気がした。人の弱さがそうさせるように、不安が翳る。
「私は、ない」
 少女は窓を顧みた。差し込む月光が唯一の味方で−−助力を乞うように。
「それは、あんたが人間でないからだろう」
「私は、人間ではない」
「死神じゃなかったのか?」
「……死が近い者にだけ私は見え、私は死を待つ」
 白い手が上がり、宙に掲げられる。皓々と降り注ぐ夜の明かりにかざすが、目はまぶしさに細められることはない。何かを求め手を伸ばす様は、真摯で神々しさすら見える。稀代の名工の手による彫像のようだった。
 時が止まる。いつかも、誰かがこのようにして−−その美しさに見ほれた。
「冬の夜に
 私の心が悲しんでいる
 悲しんでいる、わけもなく……
 心は錆びて、紫色をしている」
 そっと響く連なりは、俺の中から何かを引き上げようとした。
 どこかで、聞いた。

 −−此処では薪が燻っている
 その煙は、自分自らを
 知ってでもいるようにのぼる

 美しい詠いに耳を傾けているだけで、全てを忘れられた−−無心を得られた。
「誘われるでもなく
 覓めるでもなく、
 私の心が燻る……」
 月に焦がれ仰のく横顔は、幻のようにきれいだ。
 静かな夜になじんだ俺の耳を、けたたましいメロディが突き刺した。窓際には月明かりだけが残される。
 俺は、着たままだった上着から騒音の元を取りだした。
 発信者は、叔母だった。なんだろう、妙に落ち着かない、厭な感じだ。
「もしも……」
 わかり切った上での誰何を最後まで言い終えさせてはくれなかった。
「あんた、姉さんが倒れたわ。病院に運ばれたの。早く−−早く帰ってきなさい!」
 挨拶も、前置きも飛び越した叔母の声が突き抜ける。俺のそばには確然たる夜の寒さが耳をそばだてていた。

 

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