anothe side 03/涙


 深く、長いため息を吐いた。
 何度も、間を置いて、何度目かもうわからなかった。深くゆっくりと吸い込んで、吐き出すことで、呼吸が楽になる。それを体が覚えているからこそ、意識せずとも繰り返していた。
 空調管理は行き届いていて、寒さも暑さも、ここにはない。変わらない空間で、ただ時は漫然と流れていく。
 車椅子に移乗することが億劫で、今日はベッドにずっと横になっていた。朝の検温に来た看護師がカーテンを開けて行ってくれたおかげで、いつもは見えない空が見える。視点が違うこともあるのだろう。窓いっぱいに空が広げられていた。
 青い空。看護師が言うには、先週までうっとうしく続いていた雨に替わり、今週は晴天に恵まれているらしい。
 この部屋で、カーテンを閉じていれば、外界の天気などわからない。わからなくても何の影響もなく過ごせる。そのありがたい現実を知らなくても、こうして過ごせている。
 空を晴らしているのは、夏のようなまぶしさではなく、薄らいだ冬色だった。爪でこすればぱりぱりとはがれ落ちそうに、凍みた色。まばゆい夏の光り−−懐かしいと思った。言葉にすればたやすいが、褪せた時の向こう側を実感と結びつけようとはしなかった。したくなかった。
 雲を白く流した空から、白い天井に視点を戻した。
 また、ため息が出る。
「れいん……ぼくはいきてる?」
 少し前からそばにいて、見下ろしている美貌に訊ねた。きれいな顔は、普通にまばたきをして、じっと見つめる。夏空よりも深く、吸い込まれそうに底を見せない深い深い青。
「ああ、生きている」
 簡潔に、何も飾らずに欲しい答えをくれる。
 柔らかな肌は、だが笑みに緩むことはなく、いつでも真摯に澄んでいた。偽りを見せない純んだ姿だからこそ、安穏を求められる。
「しぬことをまってるだけのぼくもいきてるの? しぬためにいきてるの?」
 外の空より、そばで見つめる眸より、暗く沈んだ声が白いシーツの上に零れた。
 少女に比して、いかに自分の中がひずみ、ささくれているのか。けれど、正当化をする気はなかった。そのようなものこそ、レインには意味がない。
 舌がうまく動かなかった。昨日よりおとついより、もしかしたら、今朝より。
「それでも、お前は死を恐れている。それが、生きているものの証拠だろう」
 想いを宿らせない声は閑かで、きれいだった。しかし、いつもと同じ耳障りのいいはずの音が、胸の奥で、頭の片隅で鈍い痛みを起こした。全て、己の身から出た哀れな慮いにつきまとわれたものだ。
「こわくなんかないよ。ぼくがしんでうしなうものなんかいないよ。いまぼくがもっているものはなにもないよ」
 自分に言い聞かせるために言っているようだった。たどたどしく、詰まりながら並ぶ音は醜く、頬が痛い。痛みは生きている証拠だと甘んじる卑屈さを追い払おうとした。
 読むこともできず、ベッドの上でただ持っているだけの詩集のカバーが触れる。大切なもの。紛れもない、今の自分にとってのたった一つの宝物。飽きずに離すまいとする手が、指が、ひたすらに憎らしくなる。
「ねえ、れいん」
 応えるのは、青い眸の動き。いつも、反らさず自分を見つめていて、折りに決して自分から反らされないことを感じられる。ひそかな、幸い。ふさがり、絶えるだけの先に続く暗がりの中で、冷え切った体も心も慰められる美しい眸。
「れいんはさいごまでいっしょにいてくれるんだよね。それがれいんのしごとなんだよね」
「仕事ではない。私は、お前が死ぬまで側にいたいだけだ」
 少女は、答えるまでに間を置くことはまずなかった。だからこそ、レインが作る言葉は、作られた言葉ではない。最初から在る、事実。
「こたえをしるために?」
 いつか、少女に“目的”を問うたことがあった。そのときは迷いのような−−普通の人間を照らし合わせてもっとも近い表現においては、ためらいの間を含んで言った。
 −−私は、答えを待っている。
「お前なら、私の欲しい答えをくれる、そんな気がする」
 自信の張らない、不安定な声だった。いつもは外に向けるだけのものを、自分の中に返し、定められないもどかしさに眉をひそめている。浮き立って、人間くさかった。
「どんなこたえ? それはといのこたえなの?」
 少女にあり得ないと思った人の弱さをかいま見たようで、自身の中にも生まれた躊躇を踏まえつつ、問いを重ねていた。
「その時が来るまで口にはできない。それが真実であれば、問うのは一度きりだ」
「しんじつ」
 重く、ずしりと響いた。やがて失ってしまう、自分の命の重さを感じているのだろうか、と思った。まるで上の空で、ふかりと浮かぶ。放り出して、断ち切った感覚の向こうの、他人事のようだ。
 ため息が出た。
「たとえ本物でも重ねれば、形を違え、そのままに映らなくなる。それと同じだろう」
 少女は完全に落ち着きを取り戻していて、一方で、借り物のことばのように淡々としている。
「ぼくのなかのどこに、しんじつなんてあるの」
 ひずんだ厭な音だった。泣いて媚びるなど、嫌悪の対象でしかない。胸の中を占めていくやるせなさに瞼を閉じた。隙間からあふれ、ぬるく出た流れがこめかみを伝って枕へと落ちる。しかして、いずれ来るものへの、消しきれない感情は追い出せはしない。
「あってほしいよ。れいんのためだけでいい、ひとつでもあったら……ぼくはすくわれる、かな」
 救いとは何なのかわからない自分に、一体何を見いだせるのか。誇張ではなく、己に残されたものの少なさが、ゆるい痛みとなって現実を知らしめて指先から染みて行く。
 本当に欲しいものも、もはやわからないから。もしも願いが叶うなら、最後に一つでも。

 

 

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