07/cloudy
ご無沙汰していた町は、俺の知らない町だった。駅を出てあっけにとられるほど様変わりした町並みに、懐かしさなぞ沸くはずもない。
タクシーで病院まで直行すると、そこもまた、近代的な建物に一新されていた。
曇天だけが朝と同じで、濃くくすんだ部分がゆらゆらと泳いで、広がったり縮んだりしながら雨の気配をちらつかせている。傘は持ってきていない。濡れて困るような格好はしてきていないし、帰りもまた、タクシーで帰ればいい。そのくらいの贅沢は許される経済状態にあるというより、俺はこの町の空気にじかに触れていたくなかった。そう思う自分に、俺は駅から出て気づいた。この町に帰ってきたくないという俺の密やかな想いを実感した。俺が今住む町よりも空気はきれいで、見た目は新しくなってもぬぐえない田舎の穏やかさも、本来なら安寧を覚えるはずが、俺の胸は情けなくも竦んでいた。幼い子供が、闇に対し覚える本能的な恐れに近い。当てはめれば滑稽でしかないが、だからと言って一笑の元に払拭されてはくれなかった。
「お前がわざわざ帰ってくる必要ないって言ったのに。もう、大げさなんだから」
病室の母親は、倒れて昨夜担ぎ込まれたばかりの病人にしては声ははつらつとしていた。電話を通じて聞く声と、変わらない。
おふくろの急病を知らせる叔母の電話の後、間もなく追いかけるようにして当の病人から電話があった。「私は平気だから、帰ってこなくていいわよ」頑として言われた。しかし、ここで大人しく親の言いつけを守ると、叔母の怒りを買うことになる。二人の間を取って、俺は一日おいて−−ちょうど日曜になってから見舞いにやってきた次第だ。有休を取ろうと思えば取れただろうが、それも憚られる仕事の状況だった。……そうした理由をこじつけて、俺はこの町から極力遠ざかっていたかったのではないだろうか。
久しぶりに見るおふくろは痩せていた。元々太ってはいなかったが、病衣から出ている顔や腕のふくよかさが老いにこそぎおとされている。
「普段ぴんしゃんしてる人間が、いきなり倒れたらそりゃ驚くでしょうが! もう、本当に人の気も知らないでのんきなのよ、姉さんは」
ベッドの横でふくれっ面をしているのは、叔母だった。おふくろと年が離れていることもあるが、本人の努力もあるだろう若作りのおかげで、実年齢よりはるかに若く見える。だからこそ、やせ細った母親が目に焼き付いた。
病気の方は、一過性の脳虚血発作で、大事を取って一週間ほどで退院できると医者に説明された。他に持病がないため、予後も心配ないとのことだった。叔母の言葉を借りるわけではないが、普段健康そのものな肉親が急病となれば焦ったが、とりあえず、懸念は減った。
母親同様、久しぶりに会う叔母には見舞いをひとつくらい持ってきなさいよ、と叱られた。こちらも、電話と全く調子が変わらない。
「あんた、今日は泊まっていくの?」
「いや、帰る。明日、仕事もあるしな」
幸いだと思った。それほどに、この町に長居をしたくないと欲している無意識に気づく。
「そう……忙しいものね」
気のせいか、叔母の声も顔もほっとしていた。
「そういや、ずいぶんこの町もこぎれいになってるね。どこか知らない町かと思ったよ」
七階にある病室から眺める景色は、さすがに俺の知る昔のものに近かった。狭苦しく家々が身を寄せ合った地区もあれば、一つ道を挟んだ反対側にはゆったりとした敷地を持つ住宅が続いている。緑が減り、新しい家もあるが、鎮守の森も記憶通りの場所にあるし、道の通る場所も変わっていないために違和感はそれほど無い。違和感、か。俺は、この町にいる俺自身に違和感を感じていた。
「それは、あんたがろくに帰ってこないからでしょ」
叔母の声がやたらふてくされているのは、慣れない付き添いで疲弊しているからだろう。大げさに慌てた自覚があるからこそ、余計ふてくされているらしい。十分すぎるほど大人なのに、この叔母には妙に子供っぽいところがある。それを周りが好意的に取れるだけ、叔母は人好きのする性格だった。
「帰ってこない方がいいっていったのはおばさんじゃないか」
三十三回忌の法要で、周りの視線にいたたまれず、親元に帰って来ようかと言い出した俺の意向をすっぱりと断ち切ったのは、叔母だった。意思の決定は俺自身にあったのだが、この叔母には逆らえないことが骨の髄まで染みこんでいるのか反論の余地もなく。おふくろも、「その方がいい」と賛同したからかもしれない。「私は大丈夫だから、あんたはあんたが好きなように生きなさい」。そして今、頑丈で健常なはずの母親が倒れた。
「それは……あんたも色々あるし、その方がいいんじゃないかって思ったのよ」
ふてくされたまま、歯切れが悪くなった。目線まで反らす周到な仕草に、不審さを誘われない方がおかしい。演技ができない、裏のない叔母だと知っていればこそ、俺は怪訝になった。
「何が」
仕事があるのは確かだが、実家から通えない距離ではない。事実をすくえば、俺は自分への不審が募った。
「もういいわ。もうすぐお昼だし、おなか空いたからなんか買ってきてよ」
勝手に会話を切り上げられ、俺の気分は突き放された格好で宙ぶらりんになる。今度は俺がふてくされた顔になったが、一瞥で黙らされた。
「なんかって、この辺店とかあるの」
ここは、住宅街の真ん中だ。来る道すがら、喫茶や小さい食堂など食べる店は目についたが、弁当屋はなかった気がする。
「裏にコンビニができてるのよ。裏庭横切ったら近いわよ」
叔母に頭が上がらない原因の一つは、俺の行動パターンを知悉されていることだ。
「そりゃどうも」
おふくろと二人で始めた他愛もない会話を背に、俺は病室を出た。エレベーターで下りて、一度外に出、建物の壁沿いに歩く。患者の散歩用だろうか、道がきちんと敷かれている。脇の芝生内に不用意に踏み込まないよう心理的に抑制をかけるためかもしれない。
空調の効いた場所から出たためか、湿っぽさが濃密に肌に張り付く。雨はまだ降りそうにないが、いつ不意を衝こうか狙っているようにも見えた。早く帰ろう。雨も降りそうだから早く帰ろう。おふくろも大丈夫だといっているし、帰ろう。早くこの町から出よう。
道なりに進むと、叔母が言っていた裏庭らしい場所に出た。広々としていて、花壇には冬とは思えない色とりどりの花が植えられ、植木もきれいに剪定されている。面した建物の一階部分はオープンテラスになっており、何人かの患者が家族や看護師と一緒に談笑しているのが見えた。
足が止まる。
他の者たちとはるか離れた場所にレインがいた。その隣には車椅子の老人。無関係というには、二人の距離は近すぎ、少女は腰を下ろしていた。ただ黙ってそうしているだけで、会話は生まれていない。じっと、老人の側に控えている。踏み入れられない空間がそこには生まれていたが、俺は歩み寄る自分の足を押さえられなかった。
自分以外の、レインを見ることができる人間−−。
レインが先にこちらを向いた。驚きがあるはずもなく、静かな蒼い瞳が向けられる。挨拶もない。俺も期待などしていない。
車椅子のタイヤがきぃ、と軋んだ。老人が意識を俺に向けたのだとわかった。
「なに、よぅ……なの」
くぐもって不鮮明になった声の高さに意表をつかれる。
「いや……」
どう続ければいいのかわからず、俺は口ごもった。
「じゃあ、むこう、い……て。ぼくは……ひとりでい、たい」
毛糸の帽子をかぶり、温かそうなブランケットで小さい体を包んだ老人は顔をも上げず、俺への敵意をむき出しにしていた。不審さではない、明らかな拒絶があった。
「レイン」
目で問おうにも、何も応えない少女にじれて、俺は一か八かの賭けで名前を口にした。
ハンドリムを握っていた枯れ枝のような手の力が、ふっと抜ける。かたかたと小さく震わせながらもう一度強く握りなおし、曲がった背を伸ばそうとしていた。どれだけの労を要するのか。傍観しているばかりだと思っていたレインが、そのとき動いた。老人の背と肩に手を当て、補助をする。
「ありが……う、れい、ん」
まさかと思いながら、信じられない俺の前で、老人がのろのろとした動きで顔を上げた。
「……おにい、さん、れいん、みえ……の」
巧く上がりきらず、不格好に首をかしぐ形で見上げてきた顔に、俺はぞわりと背が冷えた。落ちくぼんだ目、やせこけた頬、乾いた肌、細く尖った顎−−この患者は、見た目通りの老人ではないことに気づいた。
「俺はお兄さんなんて年じゃない。もうおっさんだ。……ああ、見える」
「そう、なんだ……」
仲間と会えたからと言って、無邪気に喜び合えることではない。レインの名に反応した時の情動が嘘のように、老人と見まがう患者は再び項垂れた。疲れ切り、覇気を失った姿は、確かに老いている。
「おにいさ……はどうし、てこ、に?」
息切れで繋ぎたどたどしいが、これがきっと発語の限界なのだろう。
「身内が入院してるんだ」
細い声がよく聞こえるよう、俺は膝をついた。反対側にはレイン。だが、少女は声を確聞するためにしゃがんでいるわけではない、おそらくは。
「ぐうぜん、だね。これは、かんげいすべきぐうせんじゃないよね」
ブランケットの上に移動した細い左手首にビニール製のリストバンドがはめられている。患者取り違え防止用のものだろう。マジックで記された名前があり、その横にある年齢に俺は気分が悪くなった。いっそう辺りが暗く落ち、こめかみを鈍器で殴られたような痛みが起こる。
十一才−−まだ、小学生だ。
「そうだな」
のどを重く締めつけるものを堪え、俺は肩から落ちかけていたブランケットを直してやった。動揺を隠すには、下手すぎる。
「おにいさん、ぼくがきみわるくないの」
俺の手の動きを見守って、少年は頬をぎこちなく歪めた。自虐的な悲しみを帯びた、それは笑顔だった。
「何故だ?」
「こんなみため、かわいそうでしょ」
じっと膝の上を見つめて呟く。もっとも自分が嫌悪する言葉を口にしているように、しわがれた唇から憎しみで包まれてこぼれ落ちる。
「気の毒だとは思うが。……俺には触れない方がいい現実だろう」
「かわってるね……」
言葉を飾らなかったことが逆に功を奏し、小さい体のこわばりが抜けた。この子は、こうやって常に、他人への警戒と緊張を強いているのだろうか。
「おにいさんみたいなひと、れいんいがいでははじめてだよ」
「そうか」
「わるくないね」
大人びた卑屈さで、笑った。十一才とは思えない利発さだ。だからこそ、この現状を受け入れがたいのだろう。初対面の俺が同情まみれで思ってしまう以上に。その上、レインと出会い、死を予告されて、どうしてこれほど小さい子が平静を保っているのだろう。賢ければなおさら、悩みは増長されてしまうものではないのか。
「レインは、お前を見ているだけなのか」
「れいんがそばにいてくれるから、ぼくのこころはしなずにすんでいる」
ろれつは怪しいが、じっくり音を辿れば聞き取れた。少年自身も相手に伝えてもいいと思ったからだろう。本当は、話すことが好きな子供なのかも知れない。
少年の膝の上に置かれたものに、俺は目をやった。小さい文庫本。読み繰り返されていることがわかる、古び方だ。少年は大切なものを落とさぬよう、右手でしっかりと支えている。
「中原中也、か。好きなのか?」
「しがすきなんだ。とくになかはらちゅうやはすきなんだよ。ことばがきれい。ことばがうまれるまえのうつくしさをもったままで、きれいなんだ」
うつむき、瞼を伏せているが、暗さはなかった。幸せそうに見える。いつわりなく、幸せに。
「ねえ、れいん、あのうた、よんで」
レインにかける時の声は、あからさまな愛情に満ちていた。幼さ故に、穢れていない純粋な思慕だ。あけすけな想いも、だからこそ音にしてもその本質を失わない。
蒼い眼差しが少年を見、変わらない無表情のようで、それが応えだった。
「ある朝 僕は 空の 中に
黒い 旗が はためくを 見た
はたはた それは はためいて いたが
音は きこえぬ 高きが ゆえに」
澄んだ声が諳んじる。
意識の端から溶けていく−−寒気を伴って震わせる熱が頭の中に満ちていき、まただ、と思った。回を重ね、俺は冷静になれていたが、止める術がわからなかった。
レインの声に調和し、同じ響きをする声が、詩を紡ぐ。聞いたことがないはずのものを俺の中から探り出し、つづる。
かの時 この時 時は 隔つれ
此処と 彼処と 所は 異れ
はたはた はたはた み空に ひとり
いまも 渝らぬ かの 黒旗よ
声をさらに澄ませ、音をさらに磨いて宙を震わせる。美しい音色はひとからもつくられるものだと……。
陶然となる俺を振り返り、微笑む口元。細かく見定めさせず、姿を縁取るまばゆい光が膨れあがり、飲み込んでいく。光りの中へ、白く溶けていく美しい影−−。
耳鳴りがする。ざあざあざあざあと次第にふとまり、不快に障る音がたまらず、目の前が赤くやけて輝く。
俺は、目を閉じているのか?
「きれいだよね」
少年の声に、俺は現実と感覚をつないだ。精神的な消耗に体が重くなり、額に浮いた汗を俺は袖で拭う。
「ああ、きれいだ」
心から。レインの声だからこそ、なお、美しくなりたったようだった。
歌い終えた少女は、再び沈黙の中に戻った。本日の演目は終わりだと、サービス精神があるはずもない美貌はあさっての方向を見つめている。
俺は立ち上がった。昼飯を早く買っていかなければ、叔母の機嫌がいっそう悪くなるに違いない。
「おにいさん、またくる?」
言葉の割に、まるで期待を込めない口ぶりだ。この少年からは、少年らしさが残酷なほどに欠け落ちていた。
「俺が死んでなければ」
俺のたちの悪すぎる冗談に、少年は肩を揺らして声もなく笑った。そこに、今はあり得ない若い少年の顔が重ねるには、俺はこの子の以前の顔を知らない。無念というに、虚しい。
陽は陰ったままだったが、最初抱いた印象より明るくなった少年の態度に、俺は救われていた。
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