anothe side 04/嘘
さほど長い時間ではなかったにもかかわらず、体はすみずみまで冷え切り、油ぎれを起こしたように節々が痛んだ。フットレストに置いた足などは感覚がなくなってしまっている。体温調節がうまくいかず、ブランケット一枚では防寒しきれていなかった。
部屋まで連れ戻してくれたスタッフは、「なんだか元気になってるわね」と心なしほっとした声を置いて出て行く。会話が続けることが不可能だと思っていればこそ、逃げ出すように素早く。扉が静かに閉じる音が、一人になれた合図。
「げんき、だって」
窓際に置き去りにされた車椅子の上で、皮肉に笑おうとして、不格好な笑みにしかならない。隣にはレインがいた。いつもより長くいてくれている少女のおかげで、塞ぎ込まずにすんでいる。
「げんきになったとしても、べつにあのひとたちのためじゃないよ」
介護をしてくれる事への感謝は、人並みに抱いている。何か介助をしてくれた後は、必ず「ありがとう」と言うことを忘れない。笑うたびに自分の笑い方に厭になることをわかっていて、愛想笑いをしなくなって久しい。スタッフも、扱いづらくかわいげのない患者に愛想笑いをしてくれることは殆どなくなっていた。哀れんでくれるだけだ。声に出さず、顔が見えなくても、感じられる、伝わってくるものが厭だった。
自分の手足はまるで他人のもののように重く、鈍い。自力で動かそうとすれば、痛みだけがそのまま自分のものとして神経を刺してくる。自分の体が自分のものだとわからせてくれるのは、痛覚だけだった。
一人では何もできなくなってくる喪失感に苛まれることを、誰もわかってくれない。自然な老化ではない、進行に手をゆるめない病魔に怯えていた頃もあった。それこそ、同じ病気を持つ人間でなければわからない。誰も共感はできない現実を認めただけなら、もっと自分は厭な人間になっていただろう。共感など、欲しくない。好きな詩を好きなままでいられて、やはり外に焦がれる気持ちを押さえられない自分でいられるのは、レインのおかげだと信じていた。
「疲れたのか」
少女はまるで見当はずれでいて、鋭い。この少女だからこそ射止められる事実だった。飾らない、装わないからこそ、心を許せる。
「ちょっとだけ」
見栄を張る自分がおかしいが、そうした無理ができる程度に心の曇りに、少し日が差し込んでいた。淡く、頼りなく、またいつかは厚く遮られるだろう。
「さっきのおにいさん、れいんはいつあったの」
「わからない……お前よりは新しい」
少女の中では時間の概念が乏しいのだろう。だから、いつ死ぬなどと待ち焦がれないのかもしれない。
「かわったひとだったね。すごく、おちついてた」
−−気の毒だとは思うが。……俺には触れない方がいい現実だろう。
目がよく見えないため、顔はわからなかったが、声は若かった。“おっさん”とは思えない。
隠さず、率直すぎるきらいがありながら、他の人間にはない気遣いを感じられた。声に嫌悪感がみじんと混じっていなかったせいかもしれない。
「変、か」
「うん。でも、ぼくにはすごくまれないいひとだよ」
最初から側に膝をついて、声を聞こうとしてくれる人間はいなかった。「ありがとう」と言いたかった。嬉しかった。
「また会いたいのか」
迷った。即答をもししたなら、どう答えただろうと自問したくなる。素っ気ないようで優しい青年に「会いたい」のか、新しい人間と親しくなることへの反射的な敬遠に「会いたくない」のか。
「あえれば」
期待はしない。そうすれば、後悔をしなくてすむ。寂しい気持ちも抱えなくてすむ。
横を見れば、もうその瞬間に少女と目線が合っている。ごく当たり前のようにしてくれる仕草、見つめてくれる蒼い瞳、どれだけ視力が失われ、霞がかかってきてもクリアに映る少女の美しい顔立ち−−いずれも、そばにあることで安らげる。
−−れいんがそばにいてくれるから、ぼくのこころはしなずにすんでいる。
あの青年に言ったことは,少女への思慕にただ駆られたものではない。
「れいんもほんとうにふしぎだね。しにがみなんてしんじられないものなのに、しんじられる。そこにいてあたりまえだっておもえる。れいんにあうまで、ぼくはほんとうはしぬのがどこかこわかった。でも、いまはこわくない」
長く話すことはつらい。舌がのろく、歯茎や口蓋に当たって不要な音を立ててばかりで、まともに声になってくれない。
「お前は無理をしている」
「むりなんかしてないよ。するひつようなんてないじゃない。れいんになぜうそをつかないといけないの。ぼくはれいんにだけはうそはつきたくないごまかしたくない。だって……」
心臓が冷感に鷲づかみされ、声が切れた。ぶるりと体が激しく震え、キャビネットに当たったハンドルが騒々しい音を立てる。痙攣のなごりに踊る鼓動に、血の気が引いていく。手などは、しばらく震えを止めそうになかった。いつまた、起こるかわからない虞れに、体の方が真面目に当惑している。
「ねえ、ほんとうにさいごまでいっしょにいてくれるよね」
唇が痺れたようにふわふわとして、ひどく動かしづらい。
「そうだ」
「やくそく、して。ぼくは、れいんにだけはうらぎられたくない。ごめんね、れいんをこまらせたくていってるんじゃないよ。れいんをしんじてないわけじゃないよ。ぼくがじぶんをしんじられないだけなんだ。よわいにんげんだから。ひどくよわい……にんげんだから」
まともに喋れず、気持ちがはやれば、それだけ言葉はますます不明瞭になる。それでも、レインは聞き取ってくれる。
涙がこぼれた。ブランケットの毛先に落ちたしずくは玉を結び、溶けて染みこんでいく。
「ぼくは、うそつきにだけはなりたくない」
アームレストに置いた手に力が入らない。ハンドリムに手を移せない。この前まで、これほどの労力は要らなかったはずなのに。今や、ティッピングレバーに足は届かない。さざ波に浸食される砂山のように、自分の体は自分のものでなくなっていく。
そっと、白く細い手が重ねられた。無心にさしのべてくれるのは、優しい死神の手。
「こわいよ……」
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