09/slight


 昨日は、結局ろくに眠れなかった。眠気が瞼に覆い被さろうとして、目の縁が乾いている。ひりひりと痛んだ。一方、頭の芯は妙に冴えていて寝足りなさに緩んでいない−−油断を懼れ、意識を凝らしているように思えた。自分のことなのに、客観的に切り離している自分が不思議で、そして、こうすることで俺は落ち着けている。
 写真の中で、俺と並んでいたレイン。画像が鮮明ではなかったが、その姿は、雨の中で、闇の中で、鮮やかに在った美しさと変わらなかった。一度も見たことがない、笑っている姿。彼女はそこで生きていて−−“死神”などではない。魂があれど、決してあの美しさは損なわれていなかった。
 母親に訊けば、叔母に訊けば、簡単に答えは得られそうだった。レインに会えば−−何かわかりそうだった。だが、俺の意気地は尻込みをしていた。あまりに不透明すぎる淵に足を踏み入れることへの、怖じだ。
 知りたくないと拒む気持ち、知りたいと欲する思い。怖いと思う本当の心、虞れなどないと張ろうとする無意味な虚勢。どれが真実か、わからない。共に存在していて、お互いを牽制し合っている。そうしたことを冷静に眺めることができても、どうにもできず、途方に暮れる大人がここにいた。
 俺は、母親の病室ではなく、療護施設へ向かった。朝の十時だ。訪ねることに早すぎることはないだろう。
 あの少年に会いたいと、何故俺は思うのか。仲間意識は薄い。俺よりも目に見えて薄命そうな姿を見て、自分には不安定な安心でもいいから得たいと思っているのか? そうではない。逆だ。死を少しも恐れていない−−実際の所はわからないが、少しも子供らしさがないだけ死の意味を知っていそうなのに、怜悧に現実に真向かっている姿に、安寧を求めたかったのだろうか。それこそ、空しいはりぼてだろう。俺ではない。強さを持っているのは、少年の方だ。
 昨日と同じ静けさを閉じこめた通路を抜けて、病室の傍らにかかった名前を確かめてから、チャイムを押した。まったく病室らしくない装置だが、それが目的なのだろう。場違いに明るく軽快な電子音が、控えめに鳴る。すぐ横の小さなスピーカーがプツリ、と息を吹き返して、サーサーと流れる雑音の中に細い声が埋もれた。よく聞き取れない。起きてはいるようだ。
 ノブらしき部分を押すと、ドアは横滑りした。自動ドアだ。恐れ入った設備だ。中はゆったりと広い−−だが、何もないに等しい病室の窓際にあるベッドの上で、小さな固まりがみじろいだ。
「寝ているなら、また時間を変えて来ようか」
 布団を頭からかぶっている少年に声をかけると、またひとしきりみじろいだ。体を揺すっているようにも見える。
「……い、よ」
 もぞもぞと動くが、一向に姿勢は変わらない。ただ、布団の中に埋もれていた顔がひょっこりと出た。禿げ上がった頭は大きく、痩せた体にアンバランスだった。
 俺は、ベッドを回り込み、車椅子を避けて床に膝をついた。椅子は何処にもない。母親の病室には見舞客用の丸椅子があったのだが、ここにはなかった。一般の病室よりもさらに上等な内装ながら、無味乾燥そのものだ。
「きてく、た、だね」
 ひゅう、と息が漏れる。
 枕に半分顔を埋め、見上げてくる目はとろんとしていた。まどろんでいるのではなく、活力が削がれたものだった。
「覚えてくれていてよかった。これで、俺は不審者にならずにすむ」
 肩を竦めて戯けてみせると、少年が歪めた口元につられ、かさついた頬がひくひくと動いた。笑おうとしている、のだ。
「お、み、まい?」
「ああ、あんたのな」
 俺が答えると、少年はもごもごと唇を動かしているが、息が荒く漏れるだけだった。声になっていない。体をまた揺するが、どうにも変化はなく、眉を寄せている。
「その姿勢、つらいなら直してやろうか?」
 問うと、小さく肯く。申し訳なさそうに−−ほっとしていた。一人では寝返りも打てない体、巧く言葉を出せない口にもどかしさを覚えているのは、他の誰でもない当人だ。きっと、この少年は同情が嫌いなのだろう。気の毒そうにされることを憎んでいる。前回のあの短い会話の中でも、十分それはわかった。
 抱き上げた少年の体は、想像以上に軽かった。頭だけがぐったりと重い。腕に伝わる感触は堅く、肉の感触など、まるでない。痩せ枯れた、老人の体だった。ほのかな温もりで命が宿っているとわかる。
「あり、が、う」
 仰向けになった少年が布団の中にある手をごそりと動かすと、ベッドの背が上がり、体を起こした格好になった。リモコンを握っているらしい。
「調子悪そうだな。俺がいてもいいのか?」
 ベッドの端に俺は申し訳程度に腰を下ろした。こうすると、それほど苦労せずに顔を合わせることができる。
「かまわ、いよ。ぼく、ちょ……しがいいな、てこと、ないんだから」
 とぎれがちになる自分の声に苛立っているのだろう−−自嘲が込められると、この子は笑えている事に胸がひずむ。
 少年はぐらぐらと首をうろたえさせながら、頭の向きを変えようとしていた。見えているか、見えていないか、ではない。“相手を見ている”ことを示して、会話を成立させようとしている。
 俺は、下げていたビニール袋を持ち上げた。その音に誘われたのか、少年は枕に押しつけていた頭を奇妙に傾ぐ。俺の手元をのぞき込もうとしている仕草が本当に幼く、俺は笑みを誘われた。
「鯛焼き、買ってきたんだ。食えるか?」
 間が空き、少年はおぼつかない視点をよろめかせた。深い戸惑いがなせていた。
「きらいか?」
「たべ、こ、とない」
 細い声で−−これは意図的なものだろう。未経験さを恥じ、どこか申し訳なさそうな反応は、“少年”のものだった。
「コンビニのやつだけど、見た目はまあまあだったから、味もそこそこだと思うが……まあ、まずかったら許してくれ」
 コンビニの店員がごていねいにウエットティッシュを入れてくれていて助かった。普段なら使わない俺は指先に重点を置いて手を拭き、鯛焼きを取る。まだあたたかい。この程度なら、中のあんが熱すぎることはないだろう。
「頭の方がいいか? しっぽがいいか? どっちにする?」
「おいし、い、ほう」
「正答だな」
 俺が笑うと、少年も笑おうとしていた。いや、笑っている。焦点を合わせる力を持っているように思えない瞳に、力が点って見えた。
 俺は、あんがよりつまっていそうな頭の方をちぎり、差し出した。少年が口を開けるのを待って、入れてやる。ひどくゆっくりとした顎の動きで、噛みにくそうで危ぶんだが、懸命に味わおうとしていた。喉に詰まらされては困る。俺は慌てて買ってきた紙パックのお茶を飲ませてやった。介護などしたことがないが、なんとかなるものだ。
「おい、し……」
 どうにかこうにか飲み込めた少年は、ようように言った。俺への、あるとは思えない義理で食べてくれたのだとすれば、いたたまれなくなる。嬉しそうに聞こえた声が、偽りでなければいい。
「おに、さん、やさし、ね、ほんと、に」
「普通だろう」
 少年はかすかに笑った。否定的な思いが込められた時、笑顔は笑顔でありえている。
「ふつ、うて、むずかし、こと、だ、よ。ありふ、れて、ないんだよ」
 悲しすぎる笑みだった。何に悲しんでいるのかは、わからない。本当は悲しみなのではなく、もっと鋭く、切なく、帰らないものへの憂いかもしれない。
「レインは今日は来てないのか」
 少年は目を伏せた。つらそうに大きく息をする。痩せて薄い胸が不自然なほどにふくれ、すぐにしぼんだ。
「けさ、すこ、し、き、た。でも、すぐ、にかえ、た、だ。ぼく、ぐあ、わるそうだ、から、きをつ、か、てく、た、かな。れいん、もやさし、んだよ、あた、りまえ、に、やさし、い」
 とぎれとぎれながら、無事に言い終えてため息で締めた。
 細切れになった音だが、丸くなっている。そう評せるほど、少年の声は優しかった。レイン本人に語りかけていたあの声と同じだ。この少年は、レインのことが好きなのだろう。おそらくは、その想いに気づいていない。それでいい。意味づけに、意味などない。在るだけなら、無垢なままだ。
「なあ、聞きたいことがあるんだが、いいか?」
「いいよ」
 短い言葉であれば、明瞭に聞き取れるようになった。やはり俺は慣れが早いらしい。
「レインは、どんな見た目だ?」
 もしかしたら、俺の記憶−−俺が思い出せない記憶の中から掘り起こして形を取っているのなら、少年の見るレインとは姿が違うはずだ。
 俺は、何の望みをかけようとしているのだろう?
「黒くて長い髪をしていて、青い目で、黒い制服を着た美人か?」
 口を開くのも実は億劫なのだろう少年は、俺のうすっぺらい描写に肯いた。
「そう、だよ。
 れいんみたいなきれいなひと、ぼくはみたことがなかった」
 レインのことを話す時、少年は本当に幸せそうだった。
 −−れいんがそばにいてくれるから、ぼくのこころはしなずにすんでいる
 支えなのだ。この少年にとって、欠かすことなどできない最後の支柱。死へと導く標だとわかっていて、焦がれる。だからこそ、その想いは邪推を寄せつけない無心であれるのだろうか。
「おにいさん、そこのほん、とって」
 見渡したが、本は一冊しかなかった。例の詩集だった。少年が大切に持っていた、中原中也の詩集。
「それ、あげるよ。きょうのおれい」
 俺は驚いた。見返したが、生気には今ひとつ何か足りない眸が、俺とは少し外れた視線を向けている。
「あんたの大事なものだろう?」
「ぼくは、もう、ぜん、ぶおぼ、えてる。ひつよ、なくな、た、んだ。せっかく、から、おに、いさん、あげた、い」
 ひつようなくなった、という言葉が不意打ちで、ずしりと来た。同時に背が冷える。
「そうか……俺はあんたと違って詩心なんてないんだけどな」
 薄い本なのに、重く感じた。
「じぶんできめつけたらだめだよ。なにもできない、みえなくなるよ」 
 こんな子供に説教されるとは、駄目な大人だ。この少年が、子供とは思えない知己に富んでいることもある。揶揄を向ける、皮肉そうな響きが、この子にはらしい気がした。
「ありが、とう。おにいさんにあえて、よかったよ」
 目を開けることはなかった。
 そんな、最後みたいな言い方をするなと言いたかった。だが、言えない。俺たちだからこそ、言えない。また、ぞっとなる。代わりに、なんと言えばいいのかもわからない。何もかも虚しい。言葉で伝えることができない事の辛さも、敢えないものだ。
 俺と話すことで疲れ果てたのだろう。少年はそのまま眠ってしまっていた。
 もう一度この子が目を開けて、もう一度レインと会えるように。
 この子の心が死なないように。
 心があり続け、この子が本当に救われるなら。
 願った。

 雨だ。
 また、雨が降っている。

 

 

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