anothe side 05/望


 誰かが、そばにいた。誰かがいて、伸ばした手を額に感じた。
 起きたいのに起きられない。目を開けたいのに開かない。夢にまどろみ、うつつへ還ろうとしてできない感覚に似ていた。似ているだけ。今の自分の身に起こっている現実は、覚醒への衝動を抑え込むには、あまりにもどかしく厳しいものだった。熱に浮かされた体は意思に従わず、実を結ぼうとする意欲を茫洋とした意識があざ笑う。夢だと、言い聞かせる。
 閉じる音。しずかに、しずかに、いつものように。扉の気密パッキンに吸いつく一瞬、そっと外気が吹き込まれる音。
 目が覚めた。白く濁った視界が、現在精一杯の解像力を復調するまでのわずかな間も、長い。薄闇をかぶったような中で、何も損なわれていない黒衣の少女が、そばにいた。
「れいん……きみがずっといてくれたの?」
 からからに渇いた喉が音をしわがれさせる。少女は頷いて、かぶりを振った。二つしかない答えをそつなく並べておいて、何も注釈をつけない。静かな美貌は、周りの静けさに馴染んで黙している。
「ここの、ひと?」
 現在の時刻はわからない。定刻の検温−−巡回監視は来ていないはずだ。それに、施設のスタッフが入ってきた場合は、どれだけ深く眠っていても目を覚ますことができると思っている。朝来てくれた青年が、また来てくれたとも思えない。
 レインは否定を強めた顔で、言葉では何も言わない。少年に対し的確な言葉を的確に選ぶ能力は自分にはないと、諦念よりさばけた沈黙を守っている。
 まさか、と思った。
「おかあさん、きてたの?」
 まさか、と思う。
「ああ」
 平然と返す−−無情動な少女の顔を見ながら、こみ上げてくるものに喉の奥がみにくく唸った。
 どうして、目を覚まさなかったのだろう。部屋に入ってきた時に、何故気づかなかったのか−−何の利もない自責に苛まれ、頬が痛く歪んだ。
 思っても、適わない体。憎くてたまらない、まるで他人の体。
「れいん……くるまいすにのせて」
 ひゅうひゅうと息が漏れて、実際声としては鳴っていなかっただろう。だが、蒼い眼差しをひたと向けてくれている少女には通じている。そう、信じていた。信頼など、レインにとって枷にならない代わりに、何の響きももたらさないことはわかっている。
「……無茶だ」
 レインの制止は、ごくまっとうで、だからこそ、この少女のものとは思えなかった。いつでも、自分の言葉の側にあってくれるとばかり思っていた。この死に行くだけの体を気遣ってくれているという嬉しさより、わかってくれないという悲しみに覆われそうになる。
「いいから、おねがい。ぼくのちからだけじゃ、うごけないんだ。……もう、これが、さいごでもいい」
 この少女に対し、簡単に覚悟を口にしてはならない気がした。それでも。
 レインはわずかに眇め、唇を少し尖らせるようにして引き結ぶ。見た事がない−−自らの想いをあらわにする表情だ。致し方なさに、踏ん切れない躊躇いを含んだ、初めて見る顔だった。
「れい、ん……」
 ふわりとかすめる風。かすかな水のにおいが鼻をくすぐって、体が持ち上がった。少女の細腕は難ない所作で、少年を車椅子に移す。空気にすく上げられるような、不思議な心地に包まれる。
「ありがとう、れいん」
 泣きたいほど、嬉しかった。申し訳なさも、共に生まれた。一瞬覚えた反感に恥じる自分に、レインはかすかに瞬きをした。どうということはないといっているようだ。いつもの、無表情。
 動いて欲しい。最後でいい。ハンドリムに自力でおけた事が既に奇跡だと認めながら、無力さに見放しかけていた手を回した。
 渾身の力で−−回ってくれと込めた。
 タイヤが軋んだ。どきんと胸が弾む。
 幻ではないことを信じ、もう一度力を込め−−タイヤが滑った。リノリウムとゴムが擦れ合う音を乞い、回す。腕全体が突っ張り、関節が厭な音を立てて激痛が走った。それでも回した。
 出入り口が自動ドアであることが幸いだった。
 車椅子を使い始めて幾年も経つが、これほど必死になって漕いだ事はなかった。おぼろに像を結んだ視界の中で、目標の行方を探りながら、走らせる。
 看護師の驚く声と、スタッフの悲鳴混じりの制止が聞こえたが、後ろへ置き去った。
 腕が砕けてもいい。二度と動かなくなってもいい。
 懇願だった。自身への、切実な。ずっと、あり得ないと否定し続けた想いに衝き動かされていた。
 施設の入り口らしき場所をくぐると、ごう、と空気が唸り、滴が全身に吹き付けてきた。
 雨だ。雨が降っている。
 車とおぼしき影が留まっていて、それに乗り込む細い人影が見える。もう、久方のものだけれど、“そう”だとわかった。
 −−どうしてとまってくれないの。ふりかえってくれないの。
 風の啼き声の向こうで、扉の閉じる音。境界をつくる、無情な音がしっかりと届いた。
「おかあさん!」
 喉が裂けてもいいと、力の限り叫んだ。涙が出ているのか、単に雨で頬が濡れているのか、わからなかった。
 走り出そうとする車の後を追う。痛覚が許容を越え、麻痺してしまったのか、腕は壊れたプログラムに従う機械のようにハンドリムを回し続ける。
 荒ぶ雨が、先を阻もうと体を叩いた。
「どうしてぼくとあってくれないの。どうしてぼくをみてくれないの!」
 タイヤが何かに激しく当たり、体が前へ放り出された。受け身を取るなどできるはずもなく、固い地面に右半身を強かにたたきつけ、感覚だけでなく意識全てが途切れかける。降りしきる雨は、愚かな自分を罵っていた。
 水たまりを跳ね、軋んで止まるタイヤの音に継いで、足音があわただしく駆けてくる。
 首を巡らそうとしても叶わず、不格好にかがみ込んでいた体が持ち上げられた。引きずり上げるように、上半身が抱き起こされる。
「ごめんね」
 紛れもなく母親の声だった。泣いている。枯れ枝のように痩せた少年の体を抱きすくめ、「ごめんね」と繰り返し、泣き崩れた。
 温かいとばかり思っていた母親の腕は、雨に濡れて冷たい。
「なんで、あやまるの?」
「ごめんね、ごめんね」
 自分の声は聞こえていない。聞こうとはしない。目も合わさない。……名前すら、呼んでくれない。 
 −−どうして?
 謝って欲しい訳ではない。そのような事を訊きたかったわけではない。
 体を打つ雨、拉がれるだけの現実。わかっていたはずの、どしゃぶりの母親の心。
「ぼくはもう、おかあさんのこどもじゃないの?」
 このようなもの、知りたかったわけではなかった。
 本当は……ただ。

 

 

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