10 /mistrust
荒んでいた雨はようやく気が済んだようだった。そうして、まだ降っている。執拗に、途絶えることなく−−俺の耳の奥でも雨は止まない。
俺は、恐怖に駆られているのだろうか。レインといた過去。まるで他人事のようなうつろさを覚えさせて、時折見せられる幻は全て偽りで作られた妄想ではないと信じている。写真の中のレインと同じ−−晴れやかに美しい姿と、今にして幾度と現れるレインのように美しい声で、それは夢にしては鮮やかで、不気味だった。
何故、思い出せない。思い出したくない。俺の本能は、何を避けようとしているのか。
山と積まれた段ボールの中から、自力で過去を漁ることができない。自分でめくり知ろうと、誰かの口から知ろうと、結果は同じだ。衝撃の度合いではない、俺はその結果自体から逃げようとしている。怖いのだ。
叔母がやって来たのは、雨の癇癪が収まって間もなくだった。足下がずぶぬれになって愚痴をこぼしていた。夕食は叔母が作ってくれ、久しぶりに俺は一人ではない食事をした。コンビニや外食とはやはり違う。狭い台所に満ちる空気は温かく、縮こまって冷え切っている俺の気分を慰めようとしてくれる。
「本当にどういう風の吹き回しなの。あんた、今まで一度だって家に帰ろうなんて言い出さなかったのに」
なじる口調で、叔母は俺と目を合わすことなく、手の中の湯飲みを見つめている。
「俺はどうして思わなかったんだろう」
「……帰りたくなかったからでしょ」
そっけなく、何の解決にもならない返答。俺が一人で続けたかも知れない先を断ち切るように強かさだった。叔母は怯えていた。懼れている。何に?
「おばさん」
「なに」
必死に冷静さを装うとしている叔母の意思は、我欲ではない。それが伝わるだけ、俺は躊躇った。
テーブルの上に俺が出した一枚の写真に、叔母の表情はいっそう悲壮なものになった。引きつれ、彩るのは拒絶だった。
「これ、誰か知ってる?」
写真の中で微笑むレインを指さした。
「あんたが昔付き合っていた子じゃないの? いちいち知らないわよ、そんなの」
訊かれたくない事を訊かれると、決まってつっけんどんになる。これほどにわかりやすい、いい人が身近にいる事で、自分は今まで安穏としていられたのかもしれない。知らない事を触れないままにこられたのだろう。
「おばさん」
「なに」
叔母は、決して俺の問いかけを無視しない。俺にとって家族の一人で、いい話し相手で、心を許せる相談相手でもあった。
「人間は忘れる事で生きていられる事もあるかも知れない。でも、知らないまま死ぬ事は、本当にいい事ばかりじゃないと思うよ」
「何よ、急に。そんなこと、わからないじゃないの、死んでみなきゃ」
ふてくされて−−実に叔母らしい言い方に、俺は苦笑が浮かぶ。
「そう、わからないんだよ」
重く、苦しい。俺は、ずっと知らないまま−−忘れていたものがあるのだ。
「……どうして、そんな事言い出すわけ」
「言っても信じてもらえないことだよ。俺だって、信じられないんだ」
自分の事が、何よりも。
沈黙。雨音がする。ひたりひたり。軒からしたたり、落ちる雫の音。ひそやかでやさしいはずのものが、背に冷たく流れるようだった。
「あんた、何を思い出したの?」
覚えていないの? ではない。叔母は俺が『忘れている』事を承知しているのだ。どうしてだろうか、俺は絶望的な気持ちになった。
「あんまり……わけがわからないものが突きつけられているようで、気分が悪い」
フラッシュバックが一番近いだろうか。何もかもがはっきりしているわけではないが、現実のふりをして重なろうとする幻覚。俺を困惑させ、存在全てを不安定にさせる。現から過去へと引き戻そうとする。
「……あんたが元気なことに、何より姉さんは喜んでる。あんたは、姉さんのたった一人の息子なのよ」
「……おふくろはもちろん、おばさんも、俺には大切な家族だよ」
限られた、たった二人という数を於いても、俺にとっては心からの真実だった。
また、沈黙が落ちる。屋外の雨に耳を澄まさなくても、頭の奥深くで雨音はしていた。耳鳴りは常に雨音。雨だれというにきつく、厳しい。
叔母は、気合いを入れるにはやるせないため息を吐いた。
「その子も、あんたの大切な家族だったのよ」
写真を直視しようとはせず、叔母はどこか悔しそうに呟いた。悔悟−−? 違う。湯飲みのぬくもりに縋るように、握る手に力が強まっている。
「……俺の?」
「大切な家族になるはずだった、かしら。高校を出てすぐに、あんたたちは結婚してたのよ」
「……」
「でも、死んだ」
「だろうね」
だからこそ、亡霊が俺の前に出てきているのだ。死神という体裁で、俺の前に現れたのだ。しかし、それではあの少年との繋がりが解せない。レインが、あの少年にとっても死神だと言うのなら。
「あんたまで死んでしまうかと思った。ねえさんも疲れ切っていた。ようやく、あんたが元気になれて……みんな忘れて生きていられるのよ」
人間は忘れる事で生きていく。疵が深ければ深い程、人の心はもろく重みに耐えられないから、逃げようとする。何よりも可愛い自分を守ろうとする。
「でも、忘れていないから、俺は思い出しかけてるんじゃないの」
だいたい、どうしてそのような重要な事を俺は忘れていたんだ? 結婚相手、つまりは俺の妻だった−−けして他人ではない少女の死を、何故片鱗も残さずに来られたのだろう。
「もう、十五年も前なのよ」
あまりに、昔だった。十五年前。俺が高校を出て、そうだ、今の会社に就職した頃じゃないのか? 違和感がさざなんで広がろうとする。俺は、あの時、いくつだった? 記憶を探ろうと、遡ろうとしてできない。途中でぷつりと断たれる。ぽっかりと抜けていた。不可視の牙に掬われ闇に飲まれたように、何もない。
「どうして俺だけ忘れていたんだろう」
「忘れさせたのよ。時間がかかったんだから。その子が死んで、あんたは気が狂ってた。何度も死のうとしていたわ。治療のために何年も入院して、あんたはもう治らないかもしれないって……何度も私は覚悟した。でも、ねえさんは諦めなかったわ。わかるでしょう。あんたの母親だからよ」
知らない他人の身の上話を聞かされているようだった。
「私は、あんたにもねえさんにも今のままでいて欲しいのよ」
信じられない、弱い声だった。祈るように、じんと凝らした音。
「ごめん」
「どうして、今になって……なんで忘れたままでいてくれなかったの」
「俺にもわからない」
忘れたままで死ねないということだろうか。レインは、俺にそう警告をするために死神として現れたのかもしれない−−まさに過去の亡霊。叔母の神経を逆撫でることが目に見えていて、言葉を堪えた。
「その子は本当にきれいでいい子だった。あんたも真面目でいい子だった。だから、ねえさんも私もあんたたちの幸せを願っていたから、早すぎる気がしたけれど結婚を許した。
でも、その子は死んだ」
「何故」
「殺されたのよ」
「誰に」
問い返した瞬間−−殺されたという言葉を聞いた刹那は、俺は何も感じていなかった。感じようとしていなかった。しつこく、知りたくないのだ。
「その子の実の母親に」
これがフィクションなら、たちの悪い舞台設定だ。腕の悪すぎる脚本家の演出に気持ちは冷めていただろう。そうした空しい独言を内で返す程、俺にとっては無関係のようで−−見通せない記憶の枠から絞りだそうとするように、胸が痛い。胃が締めつけられる。気分が悪い。頭の芯から鈍い熱が広がっていく。
「あんたは、その子の死に際に間に合ったらしいわ。間に合ってしまったのよ」
間に合わなければ良かったと、ひどく傷んで音になれなかった叔母の声が聞こえた気がした。
現実の雨なのか、幻の雨なのか、耳を打つ。全ての慮いを流す程に強ければ、いい。実際は、忘れている俺を苛むように、急き立てるように穿つ音。
俺は、“レイン”の名前すら思い出せなかった。
あの日も、ひどい雨だった。
そうなのか? “レイン”
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