anothe side 06/祈


 ふらふらと意識の焦点は定まらず、目を開けているのか閉じているのかもわからない感覚の希薄さがありながら、感じ−−聞こえる。聞こえなくてもいいものまで。
「自覚症状としても、出ていたはずです。気管支の炎症を併発して非常に危険な状態ですが、もうこれ以上の治療は負担になるだけでしょう。後は、本人の体力次第だと」
 医者はどのような顔で、患者本人の間近で言っているのだろうと思った。そう思い、それから論うことは、他人の慮いが紛れ込んでいるようで、茫としてしまらない。腹立たしいなどと、感情を引き連れる力はなかった。
 この期に及んでようやく、そばまでやってきた親の息を呑む音が聞こえた、気がした。声はない。何も言わない。覚悟はとうにできていて、しかるべき時がやってきたのだと−−迎え入れる息継ぎ。
「れいん……」
 唇が動いているかわからない。息は長く、緩やかに浅いものになっている。鼻に繋がれた酸素吸入器は懸命に仕事をこなしているようだが、何も感じない。痛みも、苦しみも不思議となかった。現実と繋ぐ努力への意気を、感覚はとうに失っている。
 ふわふわ、ふわふわと体が浮き上がり、ゆるやかな波に抱かれているようだった。熱に浮かされるより、もっと冷ややかで、もっとやさしいまどろみに似ていた。 
 これほどに現実味を失っていく世界の中で唯一そのままの姿を保ち続けている少女が、自分を見つめている。蒼い、美しい深みを持った眸には、自分しか映っていない。
「ぼくはもうしぬんだね」
 解放なのか、自分の中を占めようとする想いが何なのか、わからない。そばに、レインがいてくれる。約束通りいてくれていることが、最後で最後の願いの成就だった。これが赦しだと言うのであれば、いかなる断罪を受けても構わないと思った。
「お前の信じるものに祈るといい」
 きれいな声が語りかける。
 死刑囚が、執行前に、別れの間で供物の一つを食べることを許され、最後の言葉を訊ねられるということを、本で読んだことを思いだした。
 言い残したことはないのか−−。
 レインに慈悲はない。無為に在るだけのものの中から、自分が勝手に優しさを汲んでいただけだ。だが今の自分には、死刑囚のような過去に向けてではなく、在るはずのない未来へ促す言葉のように思えた。これが、死への誘いだとすれば、優しすぎるくらいだった。
「れいん……いまのぼくがしんじるのは、きみだけだよ」
 頬が笑みに緩んだ。ちゃんと笑えている。そう覚えて、心が浮き立った。
「もしうまれかわれるなら、こんどはきみとちゃんとともだちになれるせかいにいきたいよ」
 きっと“声”にはなっていない。ささやくように漏れる息は、室内にいる者にはうわごとのようにしか聞こえないだろう。
 たった一人にだけ届けば、それでよかった。
「ともだち……」 
「もっとなかよく、きみがわらうようなことをたくさんはなして……たくさんあそんで……ともだちになりたい」
「今は、違うのか」
 意外ないらえだった。ぽつりと落ちる。自分のことばに困惑を抱き、さらに深みにはまり、自分の居場所に戸惑っている。
「友だち……ではない。私が死神だから、か」
 己では処しきれない難題に途方に暮れた弱い声は、それでもきれいだったけれど、少女のものとは思えなかった。
 深い青の眸が、静かな光りを揺らしている。
  −−かなしんでくれているの?
「そんなかおしないで、れいん。だいすきだいすきだよれいん。だから、きみにいのるきみののぞみがかなうことをいのってる」
 自分のためではなく、他人のためだけに捧げられる祈りこそ、叶う価値がある。
 永遠に雨を降らせ、たれこめているかに思えた−−灰色に塞がれた心の雲間から、光りが射し落とされる。雨上がりの、美しい一条のようだ。
 −−なんて、きれいなんだろう。
「わたしの、望み……」
 少女が見開いた瞳は、本当にきれいだった。いつかの−−夏の空。鮮やかで、吸い込まれそうに深い色。
 高く、遠い青い空へ手を伸ばす。
 ああ、と息が漏れる。 
 そこへ、還るのだと−−自分の全てが解けていく。
 感じた。
「ありがとう、れいん」

 ありがとう、おかあさん。
 うんでくれて、ありがとう。
 ぼくがこどもにうまれて、ごめんね。
 でもね、ぼくはだいすきだったよ。

 れいん、ありがとう。
 だいすきだよ。


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