Last enigma
警察官の態度に、いい加減うんざりしていた。
身分証明書を見せて、出来事の終始を懸命に説明したと言うのに、俺が通報者であり、唯一現場に居合わせた人間と言うだけで、この白い視線。
俺が何処に凶器を持っている?
俺がどうして見知らぬ人間を殺さないといけない?
「それは調べてみないとねえ」
消えない疑いの眼差し。すっかり俺は容疑者扱いだ。
俺は、心象をこれ以上悪くしないために、舌打ちを堪えて、忌々しい、この尋問官から目を反らす。
机の上に置かれた、被害者の持ち物らしい財布、免許証、手帳――その手帳からはみ出した一葉の写真。
「? それ……」
俺は、思わず写真を指差した。
寄り添った男女の写真。にこやかに笑った若い笑顔の二人。その片方、女の顔を見て、俺はどきりとなる。
「ああ? これがどうした」
ぞんざいな態度で、それでも手袋をはめた指で、写真を丁寧に引き出し、俺に見せてくれる。
「この子ですよ。この子がいたんですよ! 一緒に!」
柔らかなウェーブの髪を肩口で揺らす、こんな状況でなければ口笛の一つでも吹きそうな美人の笑顔を俺は指差した。
何故先に、この事を言わなかったんだろう。俺は、自分の失態に呆れながら、急くように言葉を吐き出す。
「嘘を吐くなら、もう少しましな嘘を吐いたらどうだ?」
呆れより嫌悪をこめた、男の歪んだ顔に、俺は首を振った。
嘘なんかじゃない。確かに、場所は公衆の男子用トイレだったが――次々と連なり現れる記憶の数々に、俺は自分でも整理がつかなくなった。
「あんた、ニュースを見てないのか?」
「ニュース?」
覚えてる。よろめき、トイレに駆け込んできた若い男の恐怖に歪んだ顔。その男の後を追うようにしてやって来た細い体。信じられないあの姿に、俺は思い出すことを……口にすることを怖れたのか。
「その子は、もう死んでるよ」
紅い、紅い血に全身を染めた少女が笑うのを、俺は確かに見た――。
fourth enigma
信じられない。
俺は、未だにななみの死が信じられなかった。病院で会った彼女は、物言わぬ無惨な姿で−−顔や首、胸の上で組んだ掌、露わになった肌に無数の赤い筋の夥しい数に、ゾッとした。
「ガラスの破片が、全身に食い込んでいたって…」
涙を流し、詰まりながら、彼女の母親はそう言うと、泣き崩れた。
ななみは、自宅の風呂場で、服を着たまま死んでいるのが見つかったらしい。何処にも、窓が割れた形跡はないのに、彼女は、全身をガラスで切り刻まれて倒れていた。死因は失血死。悲鳴を聞いて母親が駆けつけた時には、既に意識がなかったと言う。医者や警察が不思議がっていたのは、服にガラスで切られた形跡が全くなかった事。
「何でだよ」
彼女の親友の通夜に付き合った帰り、別れた時の、泣き疲れて痛々しかったななみが、数時間後に、死んでしまった。
「何で……」
俺は、地下鉄に乗るため、階段を下りながら、呟く。誰も答えてくれないのは分かっているのに……やりきれなさにため息が落ちる。
ふと、俺は背に気配を感じ、振り返った。が、誰もいない。前方に疎らに人がいるくらいで、蛍光灯の冷たい光が、通路に満ちているだけだ。
「?」
ぽとり
ひやりと、濡れた感触が掌に落ち、俺は視線を落として、息を呑んだ。
「!?」
血だ。俺自身は怪我をした記憶もない。傷もない。痛みもない。それに、これは『落ちてきた』んじゃないか?
よせと思いながら、天井を仰ぎ、何も異常がないことに安堵した時だった。
「!」
俺の手首を背後から誰かが掴んだ。その手首から遡り、頭皮まで粟立つ感覚に身震いもできない。足は歩みを止め、俺は立ち尽くしていた。振り返れない……振り返られなかった。見れば、俺の手首を掴む細い手は、赤く濡れ、ぴたりと俺の肌に吸い付くように握りしめる−−そっと、その感触だけは優しく。
「ひっ」
俺は腕を振り、その手を払いのけると、走り出した。
心臓が耳元で跳ねるように、どくどくと頭の中が脈打ち、過度の緊張のために、喉が異様に渇きを覚える。
「どうして……」
悲しそうな、その声。懐かしいはずの、ななみの声!
「どうして、どうして……死なないといけないの?」
俺は走った。走っても、走っても、もつれる足は思ったように進まず、ななみの声は、すぐ側で囁くように響いた。
「ねえ、怖いの」
ぺたぺたと追ってくる足音。耳を塞ぐことも出来ず、俺は叫びながら、手近なトイレに駆け込んだ。先客が、俺に気づき、驚いたように顔を上げる。
足下をすくわれたように、俺はその場に転がった。タイルに体を打ちつけた転倒の痛みを凌駕する、全身を切りつけられる痛み。
「一人は寂しいよ……」
くすくすと、重なる笑い声。……ななみ、じゃない。
「ねえ、助けて……」
泣きそうな、ななみの顔が見える。赤い――血を流した顔が見えて、暗転する視界。瞼、頬、首に走る鋭利な痛みに、俺は意識が遠のくのが分かった。
「だめだよ。ななみちゃんは、僕のものなんだから」
Third enigma
私は、びしょぬれになって既に用を成さなくなっているハンカチで、涙を拭った。
「ほら」
そう言って、ソウイチくんが自分のハンカチを差し出してくれる。
「……ありがとう」
そう呟くのが精一杯で、私は再び俯いた。
どうして? どうして、あの子が自殺したりするの?
「ななみ……」
ソウイチくんが、困ってる。どうやって慰めたらいいのか分からないんだ。でも、そう言う優しさは十分通じてるから……側にいてくれるだけでいいよ。
「信じられない。あの子、絶対自殺なんかしないって……そんな勇気のある子なんかじゃないのに」
勇気? 違う。どうして自分の手で、自分の人生をおしまいにするのが、勇気なの? それはやり直すことを諦めた人間がする事じゃないの?
「こんな事しか言えなくて悪ぃけど、元気出せよ」
「ごめんね。……ありがとう」
「じゃあな」
家まで送ってくれたソウイチくんの後ろ姿が角を曲がるまで、私は見送った。ハンカチは洗って返さないと。
家では、お母さんが先に帰ってて、私を心配そうな顔で迎えてくれた。「ごはんは?」と訊かれ「いらない」と答えて、自分の部屋に上がる。
鞄をベッドの上に置き、枕元に置いて写真立てを手に取った。
「フミカ……」
真っ黒でまっすぐの髪。肌が白くてきれいな、人形のような彼女は、写真の中で、私の横に立って微笑んでいた。
そのフミカの横に手持ちぶさたに立っている男の子は、困惑顔でカメラの方を見ている。フミカと同じ顔で、女の子みたいな顔に細っこい体をしてた。
「ヒフミくん……」
彼が死んで、もう10年経ってる。それでも、おばさんの悲しみが薄らぐワケじゃない。子供が二人も死んだら、悲しみは募っていくだけだよ……。
ヒフミくんは事故で亡くなった。事故と言っても転落事故だ。校舎の窓から落ちて、彼は死んだらしい。私は、そのころ病院に入院していて、後で訊いても、みんな口を噤んで話したがらないので、私は、新聞に載った記事程度しか知らないまま……。
あれこれ言い合ったりしたけど、フミカとは親友だった。幼なじみだった。そう思っていた。だから、言いたいことは言ってもいいと思った。それが、彼女を傷つけてしまったのかな。
折角止まったと思った涙がまた溢れてきて、私は、ソウイチくんに借りたハンカチで拭こうとして止めた。顔洗って、腫れた顔を冷やそう。
下に降りると、お母さんが「お風呂湧いてるよ」と声をかけてくれた。お風呂に入って、ゆっくりしなさいって事か……でも、いいかもしれない。
脱衣場に入り、洗面台の鏡を見ると、泣きすぎて瞼の腫れた可愛くない顔がある。
「泣きすぎ!」
自分に忠告して、私はうがいをしようと、蛇口を捻った。
「?」
水が出ない。回し方が足りないのかと、空回りするんじゃないかと思うほど回すと、ちょろちょろと水が――
「!?」
私は息を呑んだ。流れだし、勢いを増しているのは、水などではなかった。白い洗面台に映える、毒々しいほどに赤い色。
「きゃあっ!!」
何? 何なの!?
蛇口を止めようとした。止まらない!? どうして!? 焦る私の手を、跳ねた血が濡らす。
「ヒフミも死んじゃった。フミカも死んだね」
だ、誰? ……今の、私の、声?
耳元で囁くような、頭の中で響くような不思議な……自分の声……私の声? 本当に?
「死んで当然と思っているの? 死んじゃって喜んでる? 嬉しいの?」
すぐ後ろに誰かいる……!
膝が震える。私は、片手を洗面台に着き、辛うじて自分の姿勢を保っていた。そのままへたり込みそうなのに、それもできない。
怖い……怖い!その感情だけが頭を占めて、顔を上げられない。血が排水口に飲まれていくのを見下ろして、鼓動が耳の側でうるさく響いた。
「思ってない……思ってない……だって、可哀想じゃない!」
言い切ろうとした私の首に、ひたり、と巻き付く手。力が全く入っていないその手に導かれるように、私は、ぎこちなく顔を上げた。
「可哀想?」
くすりと笑う声。
私は膝の力が抜けそうになった。鏡の中で、私の背後で微笑むのは、フミカ? 違う……ヒフミくん? 首に巻き付いた手は真っ赤になってる。血で――傷だらけのその手が、私の首をしっかり拘束している。
「僕を殺したのは、ななみちゃんじゃない」
恐ろしい声で、呪うように吐き捨たヒフミくんは、すぐに優しい笑顔になった。
「でも、僕は恨んでなんかないよ。だって、僕は君を愛してる。誰よりも……。
これからは、ずっと一緒だよ」
全身を切り込む痛みに、私は叫び声で意識を途切れさせた。
Second enigma
「一目惚れ、なの」
私は、何度口にしても慣れない言葉を、絞り出した。
「あんた、ななみの親友なんだろ? 俺が、ななみの彼氏って知ってるのに、そう言うことを言うのか?」
蔑んだ声。耳を塞ぎたい。本当は、この場から走って逃げたい!
「誰かのものだとか、関係ない。私が好きだから、そう言ってるだけ」
我慢した。ななみのために。ななみのためなら、我慢できる。
「ななみが言ってたぞ。あんたはいつだって、あいつが好きになったやつを横取りしてるって。あんたら、親友なんてウソじゃないのか?」
その疑いの言葉は、何より聞きたくない。ななみにだけは、そんな風に思われたくない!
「とにかく、俺はそんな奴とは付き合えねえよ」
吐き捨て、去っていく足音を、私は聞いていることしかできなかった。
どうしよう、どうしよう。どうしたらいいの?
数日後、仕事帰りのななみが、私をお茶に誘ってくれた。それはとても嬉しかったけど、彼女の厳しい顔に、そんな気持ちは萎んでしまう。
「フミカ、あんた、何考えてるの?」
テーブルの向こうから睨み付ける、ななみの目。怒りを抑えることに失敗し損ねたその顔は、ものすごく怖かった。
「いい子のふりして、私の前ではにこにこして、知らないふりして、人のモノ盗んで、何が楽しいのよ!」
店の中だから、声は抑えてる。紅茶の入ったカップの横で握りしめたななみの拳に、力が入るのが見えた。
「だって……」
ななみのため。誰かを好きになって、その誰かがななみを愛して……何が起こるか分からなくて怖かった。同時に羨ましかったことは本当。そう、ななみは、自分がなれない自分の姿を見ているようで、羨ましくて、憎らしく思うこともあった。
でも、好き。大好き。
「フミカはそんなことしなくても、十分いろんなもの持ってるじゃない。どうして、人のモノを欲しがるの」
人のモノが欲しいんじゃない。ななみの持ってるモノだけが欲しかった? 同じモノを持てば、自分もななみのようになれると思ってた?
違う。そうじゃない。
「ソウイチくんに近づかないで! いい加減、大人になりなよ。そんな卑怯なことばかりして、自分から新しいモノに手を出す勇気もないの? あんたのそういうとこ、大嫌い!」
ダイキライ。
その言葉に胸を抉られて、血の気が引いた。その一瞬、ななみの顔に罪悪感が浮かんで、彼女は、千円札を置くと、足早に去っていった。
残業は嫌い。みんなが帰って寂しい部屋は、明かりがついてても、薄暗く感じる。
――ソウイチくんに近づかないで!
本当に、ソウイチくんなんか、どうでもよかった。そう。ななみに、何も起こらなくて、無事でいてくれるなら、別に構わない。どんな男を好きになって、どんな男と寝ようと……ななみが幸せだと感じるなら、我慢した!
ななみが誰かを本気で愛する前に、私が男を奪ったのは、ななみに死んで欲しくないから。側にいて欲しかった。それだけなのに。
「いつまでも、仲良くしようね!」出会って間もない頃、交わした約束を覚えてるのは、私だけ? 幼稚な約束でも、自分にとっては、限りなく大切で、かけがえのない誓いだった。
でも、失ってしまう。悲しくて、寂しくて、悔しい。誰かのモノになってしまうななみを、眺めていたくないのが本当。
許せない、ななみを奪う人間が。
「違う……もう、やめてよ……!」
何で、やめないといけないの?
じわり、と滲む、黒い想い。ななみを誰かに渡すくらいなら……。
「いやっ!」
あんたは、ななみちゃんが誰かのモノにならないように、自分が嫌われてもいいから、邪魔をするんだ?
嫌われた。ななみはもう、私に笑ってくれない? 何で……ヤクソクシタノニ。
「そうやって、僕からも、ななみちゃんを守ってるつもりかい?」
私が喋って……?
引き出しを開けて、銀色に光るペーパーナイフを手に取る。高校生の頃、ななみがくれたプレゼント。銀って魔除けになるんだよ、と渡してくれたもの。
いや……!
震える刃が、手首を刺した。ぷつり、と血の玉が浮かび、すぐにそれは膨れ、筋になって流れる。巧く差し込めない刃先は、捻り込むようにして皮膚を突き破り、肉にその身を埋めていく。
やめてやめてやめて!
激痛に涙が溢れた。でも、自分の手は止めない。左手首から肘、右手首から肘、スーツを染め、肌を伝い落ちる血。
呼吸が乱れて、がくりと前にのめる首。俯いた視界に入る、誰かの足先。
「……助け……」
ゆっくりと振り返る。私の手は、右の太股にナイフを突き刺し、悲鳴を上げた。
「痛い?」
私……? 違う……どうして……。
「僕も痛かったよ」
優しく微笑む、私より幼い、私と同じ顔。
「ななみちゃんは渡さないよ」
腕が上がって、首にずぶ、と鋭く穿った死の痛み。吹き出す赤い血に視界を染めて、私は床に倒れ込んだ。
「ななみちゃんは、僕のモノなんだから」
死にたくない……死にたくないよ……助けて……ななみ……。
First enigma
「僕、ななみちゃんのこと好きなんだ」
「ほんと?」
「うん」
「私もね、ヒフミくんのこと、好き!」
無邪気に笑う、ななみちゃんが大好きだった。
「ななみ、ヒフミのこと、好きなの?」
中学生になって半年くらい経った頃、フミカの部屋で、フミカがななみちゃんを話しているのが聞いてしまったのは、たまたまだった。
「ん? 何で?」
「あ、うん……ヒフミが言ってたから……」
「ふうん」
口ごもるフミカに、ななみちゃんは、気のない返事をしている。
「何かねー、昔はそうでもなかったけど、今、なんか怖いもん、ヒフミくん」
「怖い?」
怖い?
「だって、思いこみ強いもん……怖いよ」
今度は、フミカの方がそれに、「ふうん」と答えて、ななみちゃんは言った。
「だから、今は嫌い……かな」
ななみちゃんの言った、キライという言葉が、呪文のように頭から離れなかった。どうして? こんなに好きなのに。どうして?
「僕、本気なんだよ?」
「え?」
放課後の教室で、窓際の席のななみちゃんは、鞄を手にして、きょとんと僕を見返した。
「僕は、本当にななみちゃんのこと、好きなんだよ」
「ヒフミくん……」
ななみちゃんが、同級生だけでなく、上級生にももてている事を、僕は知っていた。だから、焦っていたのかもしれない。でも、ななみちゃんへの想いは、誰にも負けない。
「ななみちゃん、僕のこと、どうしてキライなんて言ったの?」
席に近づくと、ななみちゃんがびくりとなって、体を堅くするのが分かった。
誰かに盗られるのはイヤだ。ななみちゃんは、僕のモノ。誰にも渡さない。
「ヒフミくん……?」
怯えた目で僕を見る。どうして、そんな目をするの? どうして、そんな目で僕を見るの?
ななみちゃんの腕を掴むと、彼女は更に怯えて、身を引いた。
「いやっ!」
僕の手をふりほどこうとして、思いもしないほどの力で、ななみちゃんは、僕の体を窓の方へと叩きつけた。
窓枠に腰の下辺りを強く打って、よろり、となる。ななみちゃんがはっとして、手を離した、そのかすかな勢いが、僕の体を宙に放り出す。
「ヒフミくん!」
僕の足が床から離れ、ななみちゃんが反射的に手を伸ばす。僕は、その細い手を掴んで……引いた。
「キャーッ」
ななみちゃんの悲鳴。
浮遊感の後、衝撃はすぐに来た。砕けるガラスの音、制服の上から突き刺さる無数の痛み。地面−−コンクリートに背中を打ち付けて、僕は体から血が流れ出るのを感じながら、不思議と落ち着いていた。
「う……」
僕の体の上に乗る格好で落ちたななみちゃんは、身を起こし、僕を見て、悲鳴を上げた。
「い、いやああっ!!」
僕はまだ、彼女の手を掴んだままだった。僕の血で、ぬるりと滑りそうだったが、僕はしっかりと掴んだ。全身に残る力をその手に集めて、その繋がりを断たれないように。
「な……なみ……ちゃん……」
ヒューと息が漏れて、巧く喋れない。落ちてくる、重い瞼。
「大……好きだ……よ」
誰よりも、君のことを好きでいるよ。
Tui fui,ego elis……「私はあなたであった。あなたは私になるだろう」
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